ある「彼女」の話

私だ。元気はないけど生きている。最近は「死にたい」の常套句もなくなって、私としてのアイデンティティを失いつつある。どうした俺!がんばれ俺!もうちょい死に邁進しろ!

空回りなファイトは置いておいて、なんとなく書く話。友達がそういう記事を書いていたので、それなりに触発された。でも、彼女へは向かわないし彼女へは届かない記事だ。彼女のことが好きで、彼女のことを尊重したいから、こんな適当でちゃらんぽらんな自分を見せるのは恥ずかしい。くだらないプライドだ。

彼女と出会ったのは数年前だ。当時彼女はまだ10代で、当時から瑞々しかった。今まで私が出会った誰とも似ていない人で、激情の権化のような人だった。血を吐いてでも自分を負けず、どこまでも己の理想に殉じようとする性格は、昔も今も私にはまぶしく映る。

その分、生きる中でぶつかるものにもすべてまっすぐにぶつかる、不器用な人だ。世の中の理不尽を怒り、不誠実を怒り、醜い感情を全力で抱きしめながら「それでも世界は美しいよ」と叫ぶような人。生粋の「創作者」だなと彼女を見るたびに思う。それこそ本気で、書くことに命を賭けているような人だから。

だからこそ、テキトーに自堕落に二次創作をしている私は、いつもそれに照らされて、影になっているような気持ちになる。別に辛くはない。僻んでもいない。恨み辛み妬みで生きているような私だけど、不思議と彼女に対してはそういう感情が一切ない。光の中にいて、でもその光の中で絶えず傷ついている人だというのを知っているからだと思う。

だからなんていうか、素直に、「私とは違うな」と思うのだ。彼女に出会って、私は「人間はすべてが違う生き物」だと思い知らされて、学ばされたような気がする。彼女に気づかされたことは本当に多くあって、学びもあって、だからその感謝もあるのかもしれない。私の目を、開かせてくれた人だなぁって。

すこし前、ここにも書いたことをTwitterに書いた。私は書くことを「暇つぶし」だと思ってるってアレだ。ちょうどそれに沿うRTが流れてきたので、書いてしまった。

書いてしまったんだけど、書いたあと彼女のことを思って、申し訳なくなった。彼女は本当に「書く」ことに命を賭けている。それくらいの想いで創作をしている。その人の前で、私は「書くことは暇つぶし」だと書いたのだ。それは彼女の信念への冒涜で、攻撃だったのかもしれないと、後悔したのだ。

言い訳はたくさんある。まず、「暇つぶし」は私の偽りのない本心であるということ。それに暇つぶし、は必ずしもネガティブな意味ではないということ。その「暇つぶし」に私もそれなりに情熱をもって挑んでいて、私なりに本気で書いている。

だから、後悔はしてるけど訂正はしてないし消してもいない。私のスタンスを曲げてもしょうがないと思うから。まぁ、後悔はしてるけど……。いつか彼女にまた直接会うことがあったら、その言い訳をしたくなるのかもしれないな。

で、そのせい……ではまったく無いと思うけど、彼女は記事を書いて、私はそれを読んだ。彼女の心情が綴られた内容はとても苦しいもので、辛いものだった。その時は泣かなかったけど、今思い出すと少し泣きたくなる。

彼女の、書くことに対しての本気さを前に、私はいつも自分を晒される。彼女はよく他者から「つらい」と言われるようだ。理解できる。彼女は理想を追うことに対して、一切妥協しないからだ。

そして皆がうまく誤魔化して見ないようにしているものを、正面から相対する勇気を持っている。そこに、きっと皆は、己のみじめさを照らされてしまうのだと思う。少なくとも、私はそうだ。(ただ私の場合は、あまり辛いとは思わない。)

彼女は自分に対して正直だ。ごまかすのも、うそも嫌いで……いや、嫌いというよりは許せないのだと思う。彼女は彼女の理想に殉じていて、それで死ぬのなら仕方がない、と本気で考えているような人だから。

それは彼女自身の正義のためで、彼女自身が「生きる」ためだ。彼女の納得できる生を彼女自身が歩むための、不可抗力的なもの。そこには他者は居ない。彼女が傷つけるのは自分だけだ。でも、その彼女の姿に皆は傷つけられる。少し切ないけど、なんだか物語のようだ。

そう思うと、彼女で小説のひとつが書けそうな気がしてきた。それくらい、私の中で彼女の存在は鮮烈だからだ。皆が彼女を見ていて、羨んでは疎み、彼女に近づいては離れていく。そして彼女はいつも全霊の愛を等しく愛する人へ捧げ、裏切られては報われる。

人生だ。人間だ。ものすごい営みだ。私はそれを日々Twitterで眺めている。それは、もしかしたら、恐ろしく貴重な体験なのかもしれない。

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