見出し画像

遊びから趣を味わう世界へ

◆新しいカテゴリーが流行らない理由
 日本のダイビングで新しいカテゴリーが何故、普及しないのか?を自問してみた。

 人は新しい分野を覚えると習いたて分野の専門用語を多用する。
例えば、ある人は他の人には分かり辛い用語を使うことが「カッコイイ」と無意識に思っているのかもしれない。相手に聞きなれないカテゴリー専門用語を連発して、他の人が理解できないことを自分は知っていると言う「自己優越感」を楽しんでいるのかもしれない。その行動は、語り掛けている相手に言葉の内容を理解してもらうことは少しも考えていないと思える。ただ単純に相手に対して「マウント」をとりたいだけなのかも知れない。

 本当に新しいことを楽しんでいる人は、出来るだけ周りの人間に「ことの楽しさ」を共有したいと思って分かりやすく説明するはずだが、そんな誘いの言葉を私は受けたことは無い。

 このことを更に考えてみると、次なる疑問が湧いてくる。その疑問とは「ひょっとして、形(かたち)だけ」なのか?この人「深く理解していない」のか?といった疑問がよぎり、「これ以上質問すると反感を持たれる」と思いその後は聞くだけになってしまう。そういった人の共通点は一緒に潜ると直ぐに分かる。率直に言えば「型」が感じられない。

◆説明(言語)を越えた体感が趣に向かう
 物事を聞いたり、視たり、読んだりしただけでは、本当の趣には結びつかない。趣に結びつけるためには、「聞く、視る、読む」から得た思考を実際の「体感」へ向かわせ、体感後に再思考がなされなければ本当の趣には辿り着かないのではないだろうか。体感後の再思考とは、何度も経験を積み上げていく行動で、SCUBAの「直ぐに出来るもの」ではないと私は思う。経験を積み上げる行為を「磨く」と表現すれば、十分に注意しなければならないのは、「惰性」である。惰性を繰り返すと悪い「形」が積みあがっていくことになる。悪い形(かたち)とは、聞く、視る、読むから直ぐに得た知識でSCUBAの「直ぐに出来るもの」と私は考えている。良い磨きとは、経験の積み上げで「形から型」への再思考を繰り返さなければ到達できない。つまりSCUBAの「直ぐには出来ないもの」と私は思う。

◆今までのSCUBAは「かたち」なのかもしれない
 禅用語に「型なし」という言葉がある。これは「かたち」にだけ終着すると「かたなし」になるといった戒めです。形から型にするためには、技術の優れた人の型を見て完成形に近づけるために内観的な内省(自己の振り返り)で技術の改善を繰り返さなければ本当の技術にはならないのではないでしょうか。これを私は「磨く」と表現しています。

道教で「道は学ぶことはできるが、教える事はできない」という教えがある。この意は「道は自ら学ぶ事はできるが、人から教えられるものではなく、自らが感じ取るものだ。」といっているのと「良い指導者は、感じるための手助けが出来る」と云っているのだと私は理解します。

◆道は「お稽古ごと」で楽しんでみる
 日本には古くから「お稽古ごと」と云う「たしなみ」があった。
遊びと「お稽古ごと」は、まったく違ったものだと思う。
ダイビングも道にして「おけいこごと」を取り入れ、色々な「おけいこごと」に共通する「習いの先にある、精神(心と身体)の修練へ向かう自身の変化」を取り入れることが、日本のSCUBA ダイビングの必要な時期に来ているのではないだろうか。

今回はこの辺で・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?