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全力で好きをおくる人たちと誰かの推しでいる人たちへ愛をこめて


ここを読みにきてくれた人たちの中に“推し疲れ”をしたことがある人はいるだろうか?

昨今、コンサートなどで直接会える機会はなく、活動休止の発表やどんどん出てくるネガティブな話題、それにも関わらず毎日のように大量に投下されるコンテンツに疲れる人が増えてきているらしい。
しかしながらその記事に名指しされていた私の推しグループの“活動休止の発表”という言葉はファンからしたら周知の間違ったニュースだったし、色々なゴシップもどれも真偽は不確だ。(そして信じるに値しないものがほとんどだ。)

私個人としては「よく分からない」というのが率直な感想であり、あふれる否定的な引用文に心の中で100万回いいねを押したが、まさか完全にありもしないものをでっち上げた訳でもないだろうしそういう人もいるのかもね…ぐらいの気持ちだ。
それと同時に“推し”という言葉の便利さと、本当は些細な出来事を言葉選びの妙によりまるでみんながそう思ってる!とでも言わんばかりのイシューに仕立て上げることができてしまうネット社会に少しだけ恐ろしさを感じた。

“推し”という言葉はとても便利だ。数年前に比べて何かを推している人が圧倒数増えた今、誰かに届けたい記事を書くときにそのキーワードはとても便利なのだ。
そして私が推しているグループの名前を記事内に入れておくことは検索ヒット率をUPさせるのにとても有利に働くだろう。


“ファン”の語源は“Fanatic(狂信者)”だという話しをTwitterで見たのだけれど(※ソースはツイッター)私がやっていることはファン活動であって推し活なのかな?と時々疑問に思うこともある。
“推し活”という言葉は、“推し”そのものよりも“私の活動”の主張がすごい気がする。そこから醸し出されるピカピカな雰囲気やラブマイセルフ的な香りのする活動を果たして私はしているのか?と時々疑問に思うのだ。
確かにコンサートの現場だったり推しに会う予定があればダイエットを始めるし、パンデミックが起きる前は友人と集まって推しのセンイルパーティーをしたり鑑賞会をしたし、全力で仕事をし家事に勤しむ合間を縫って韓国語の勉強までするし(毎日ではないけど)なるべく綺麗に歳を重ねていけるようにとスキンケアに気を配る私はピカピカな推し活をしているのかもしれない。
一方で推しが間違ってUPしてしまったであろうカメラロールの中のラインナップに、まだ紹介されていないペットを見つけ、その子を腕に抱いている顔の見えない人物の着ている服が推し本人のものであることを特定して胸を撫で下ろし、もしかしたら推し本人にとっては広めてほしくない情報かもしれない…という可能性までも想像し、いち早く特定したそれをわざわざSNSに書き込むことなく黙っている私は、どう考えてもFanaticだ。


一昔前の何かのファンはきっと私のような人が多かっただろう。
好きな人のことなら何だって知りたい。
全部全部忘れないように心のフィルムに焼き付けるように記録したい。推しとの思い出の詰まったグッズやアイテムをたくさん集めたい。
しかし最近では“推し”ているというのは「あなたのオタク(Fanatic)です」という意味と、「あなたの活動の全てを追ってはないけど結構好きだよ!」という意味と、2つの全く異なる趣向がごちゃ混ぜにされているのではないかと思う。
昔は前者しかいなかったインターネットの世界に後者が訪れてしまったことによって、今様々な界隈で色々な歪みが生まれているのかもしれない。
両者は同じ推し活をしているようでいて、実は全く異なる視点で推しを見て、それぞれの愛し方で別々の推し活をしているのではないかと思う。
だけど、難しいことを考えるのも面倒だし便利がいいから、私はどんなに世間とのズレを感じても、これからも“推し”という言葉を使い続けるのだと思う。


“推し疲れ”に関して、“好きということイコール語れるほどに詳しいわけではない”、“知識をマウントし合うのではなくて、ただ純粋に好きだという気持ちを楽しむものであってほしい”といったツイートが万バズしているのを見かけた。
ツイートの旨を理解できているかは分からないが、先述の私の意訳通りなら本当にその通りだと思う。そしてそれを言い切ってしまうのは一方で間違っているとも思う。

件の言葉に共感した人たちのファンとしてのあり方はどのようなものだろうか?
例えば、全追いとはいかないまでも公式ファンクラブに入り円盤やグッズを正規に購入している前提の上に知識マウントを恐れて「語れるほどに詳しくはないけど…」と言っているならそれは本当によく分かる。
しかし、FCに入る気もないしCDも買ったことがなく無料のコンテンツだけを楽しんで“好きだけどたまに見るだけで充分”という気持ちの上で「語れるほどに詳しくないけど、それでいいよね?知識ガチ勢こわすぎ…」と言っているのなら、それは狂信的な愛を持って推しを推している人たちにとってはとても悲しい風潮であり、何よりアーティスト側にとってとてもとても失礼なのではないかと思う。

誰かに推されている人たちはみんな慈善事業をしているわけではない。
私が推しているグループほど世界中で人気になれば、あまり大きな影響はなく、むしろ会社としてはライト層を増やした方が得なのかも知れないけれど、アーティストの規模によってはお金を落とさず夢中で追いかけてくれるファンがいないと会社ごと困ってしまうこともあるだろう。
もちろんそれぞれのできる範囲の推し活でいいのは当たり前だ。FCに入っていなくても円盤を一枚も持っていなくてもファンだと名乗ってはいけないなんてことも決してない。しかしそれを好きだからいいでしょ!?と堂々と宣言されてしまうと、心を込めて必死にあらゆるコンテンツをプレゼントしてくれるアーティスト側の人たちはいったいどう思うのだろう。

話は戻るが、私にも語れるほど詳しくはない好きという気持ちがあちこちに散らかっている。
先日とある映画を観に行った。とても面白かったので、YouTubeにUPされているその界隈の知識ガチ勢の方の感想を観まくっていたのだが、いつもは面白く解説動画を拝見させていただいていた方の感想を観ていたら、「主人公の脚が速すぎてありえない」などの謎描写を連ねられ、まぁ、あのバンドの歌で感動するような人たちは泣いたりするんでしょうね、と笑いながら言っていた。某バンドの歌が劇場に流れた瞬間大泣きした私は思った。お前のこと誰が好きなん?と。
もちろんその方の感想に胸のつっかえがさっぱりしたようによく言ってくれた!めっちゃ分かる!〇〇さんしか勝たん!!と思っている人もたくさんいるのは揺るぎない事実ではあるけども、あの距離をあのスピードで女の子が走れるのかどうかなんて難しいことは今いいじゃない!?と肩を揺すりたくなるのだ。しかしながら理路整然と論破することはできないので、オタクのマウントこわい…という便利な言葉に逃げるしかない。

SNS上でも通りすがりの知らない人に知識マウントを取られたことがある。シンプルに嫌な感じなので静かにしてください!と言いたくなるし、その知識上乗せマウントエピソードは奇しくも間違っていた。おそらく正規で観ていないだろうコンサートまで特定できた。
私は“Fanatic”の方の“ファン”なので公式から販売されるコンテンツは正規ルートで観ているし不確かな偽エピはツイートしないのだが、通りすがりの誰かが一ファンのポリシーなど知る由もないし、訂正してあげたところで大方古参マウントで口を封じられたッ!と逆ギレされて終わるに違いない。推し本人たちのパーソナルなことに関わるのなら勇気を持ってマウントお返し申したのだが、些細なことだったし見たこともない人だったので、その方の勘違いは勘違いのままにしてしまった。悪循環だ。
すべての行き違いは、ほんの少しの心を込めた言葉の選び方で変わるのだろう。
私もマウントされるのは嫌いだし、逆に何かを発信するときには配慮も必要なのかもしれない。しかし誰かの過去の大切な思い出や、自分の体験していない色々な出来事、その時を過ごした人だけが知っていることだったり、自分の知らないことのすべてを“マウント”として突っぱねてしまう風潮が、特に最近のSNS上には少なからずあるはずだ。
そして語れるほど詳しくなることを放棄し、無料で気軽に楽しめるコンテンツだけを楽しんで、ネットに落ちていた少しの知識で語った結果、絶妙に違う話にすりかわったそれが、真実のように一人歩きしてしまうことだってこれから起こる(もう起きている)のかも知れない。そういうことがネットニュースになってしまう時代なのだ。
時には分からない他人の話に耳を貸し、受け入れる姿勢が必要なんじゃないだろうか。違うだろうか。

謎のニュースの見出しを見るたびに推したちはどう思うの?と気になっていた。
現にとあるアイドルが“自分についてありもしないことがヤ〇ーニュースになったりするよね”という内容の話を冗談ながらに話していた。彼はとても明るく誰も傷つけない言葉を選んで笑って話していたけど、笑い飛ばせるのはその人の懐の大きさゆえのことだ。どの推しに対しても、本人が傷ついてないならいいじゃんなんて私には思えない。

“詳しくなくても好き”だという気持ちを肯定するのは悪いことではない。
私にも語ることのできない好きはたくさんある。
大好きでめちゃくちゃ追っているけれど全部のコンテンツを追う時間がなくて知らないことがたくさんあるとか、曲は好きだけどバンドメンバー全員の名前は知らないとか、有名な曲しか知らないけどその一曲を永遠に聴いているアーティストとか、詳しくはないけど好きなものってきっと誰にでもあるし、好きなものがたくさんあるって素敵なことだと思う。
観た映画の元ネタを知らなくても、好きな曲にサンプリングされた音源を見つけられなくても、アルバムジャケットに格好良く写った推しの靴紐が今にもほどけそうになっている可愛さに気がつかなくても、大好きで楽しいと思えるのならそれでいいのだ。
そして私が知らないことにとても詳しい人の話はとっても楽しいものでもある。
誰かが惜しみなくくれた“知識”によって詳しくなかったものへの“好き”は増えていくものでもあると私は思っている。
A派が正しいからB派は悪だと決める必要のない事柄がこの世界にはたくさんある。
そして何より身を粉にして働く誰かの推したちに、“あなたを好きだけど詳しく知りたいとは思わない”とも取れるような言葉が、自分の事情で疲れているのを“推しのせい”にしている悲しい言葉が、重く受け止められることがなければいいと願うばかりだ。

あなたのことは好きだよ!でもあなたを深く知りたいと思わないけどそれでいいよね?!ゆるくいこッ!という感覚は、これからの時代にとってある意味とても重要なのかもしれない。「ゆるく推すね!」の先に、「だから推しも自由に恋愛したり気が向いたときだけ活動してね!」という言葉が続くのだとしたら、それは彼らにとってとても良いことなのかも知れない。(私のような古のオタクはその価値観に自分を省みたり新しく学ぶことがきっと多くあるだろう。)
しかしながら自分には“ゆる推し”を許すのに、アイドル側の雑さを見つけてしまった途端、嘘のように冷め切ってしまったり悪態つきたくなるのもまた人だろう。


結局のところ、“推し疲れ”をいまだ体感したことのないファンとしては、推したちが必死に打ち込んできた努力やファンへ向ける真心が軽んじられることなく報われる世の中であってほしいと思うのだ。

大多数の意見からはみ出してしまった感情に、何ら悪意のない一見すると優しそうに響くその言葉たちに傷ついてしまった、一生懸命に頑張る人に、そこにいてもいいのだと、あなたの積み重ねてきたたくさんのものたちを、私はちゃんと知っているよと手を差し伸べる小さな声があるのだとしたら、私はそれになりたい。
私は好きな人のことならたくさん知りたい。そうして積み重ねたキラキラと光る思い出や好きという感情をうんと高く積み上げていきたい。大好きな詩のタイトルのように自分の感受性は自分で守るものだから。



テレビを観ていたらマツコさんが「今は全世界でインターネット勉強中じゃない?」と言っていて目を丸くした。
そうだった。私もあなたもまだ、インターネットの勉強中だ。


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