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修道女たちに想いを馳せて


“信じるものは救われる”

はじめにそのありふれた言葉を言い出したのはどこの誰だろう。
神様がいるのなら、今この世界のどこかで辛く悲しい思いをしている人がいるのはなぜだろう。

人にはそれぞれの事情があり、それぞれの主義主張を、出したりしまったり、またはしまったままにして毎日をやり過ごす。たくさんの人が自分の都合のいいように話を盛り、まるで伝言ゲームのように、真実はときどき形を変えてしまう。
ワイドショーにうつる人でなしの顔を見て、目の奥がこわいだの、やっぱり悪いやつだと思っただのと勝手なことを言っては、ランチで満たされたお腹が消化されていくのと同時にすぐにその話題を忘れていた。あの時までは…


私の大好きなアイドルが“渦中の人物”にされていたあの頃、テレビから流れるその人たちは全く私の知らない人みたいだった。都合のいいように切り取られたいくつかの断片的な出来事は、とても見事に私たちの大切なその人を悪者に仕立て上げた。テレビのニュースなんて嘘ばっかりなのかもしれない。そんな風に思った記憶が薄れたころ、とあるリアリティ番組で、某ゲス不倫で騒がれた人の所属するバンドのメンバーが、いつか“渦中の人”だった彼の報道に対して、あまりにも自分の知っている彼とは違っていて…という戸惑いを吐露していた。そしてその、人の良さそうなメンバーの言う通り、あの頃、最低な男のように見えた彼はクレバーでとても魅力的に見えた。
何が真実なのだろう?何が嘘なのだろう?
真実を伝えるツールさえも曖昧なのだと、気づいてしまったこの世の中で、何を疑い、何を信じていればいいのだろう?




ちょうど私の大好きなアイドルが着てしまったTシャツの件がワイドショーやネットニュースを騒がせていた頃、とある舞台を観た。
「修道女たち」という物語だ。

とある架空の宗教を信仰している修道女たちと、彼女たちが巡礼の儀式を執り行うために訪れた山荘に立ち寄った人々のお話だ。

神に仕える彼女たちは、清らかに慎ましく生きているようで、一人一人別々の人間だ。それぞれが別々のことに怒り、動揺し、疑う。同じ神様を信じているのに、それぞれの価値観は異なり、意見はすれ違い、やがてその違いにより物語はうねっていく。
私は自分のことを考えていた。この状況はとても、私のいるファンダムのそれと似ていると感じた。(宗教的だと言っているのではなく、事あるごとに揉め事が起き、信じるということにおいて一つになれないという状態についてだ。)
とても心に刺さった言葉があった。ある男性と亡くなった仲間との情事を知ったシスターの一人が、その男性に怒りを剥き出しにし飛びかかった時、別のシスターは彼女を牽制し言った。
「神は試されていらっしゃるのですよ!」

神様がいるのかどうか知らないけれど、その通りだと思った。
自分に不都合なことがあった時、自分の大切なものを汚された時、怒りに狂い相手を傷つけたところで何になるのだろう。自分の主義主張を押し付けた瞬間に、きっと愚かな相手と、同等のレベルに下がってしまうのではないだろうか。
そして私も含め、多くの人がこの事を頭で分かっていながら、行動を伴わせることが出来ずにいるのだろう。そしてこの悪循環により、またどこかの誰かの、大切にしているものは汚され、自分だけがかわいいクズたちの餌食にされてしまう。


物語のラスト、新しい王により異端とされていた彼女たちの宗教は排除されることになる。国のトップが変わり、正しいとされるものが変わったのだ。
村の平和と引き替えに彼女たちを殺すことを命じられた村人たちは、彼女たちを騙し、毒入りのブドウ酒を贈る。しかし、修道女たちは薄々それに勘づきながらも“信じる”ことを選ぶ。生い立ちも価値観もバラバラだった彼女たちは、その物語のおわりに、はじめて共に信じることを選んだのだ。

そしてそんな彼女たちと相反するように人を疑うことしか出来なかった“村の青年テオ”は、彼女たちの物語と並行して、孤独に寄生する寄生虫に身体を蝕まれ、声を発することも出来ない“木”になった。

ブドウ酒を飲み命を落とした修道女たちを、天国へ向かう列車が迎えに来る。
“木”になったテオは、修道女たちを追い、列車に乗り込んでいく大切な幼馴染のオーネジーを引き止めようとするけれど、声を失い身動きも出来ず、人ではなくなった彼に、彼女を引き止めることは出来なかった。
悲しいのは、テオが誰も信じなかったのは、捻くれ者だからではなく悪人だからでもなく、あまりにも純粋無垢なオーネジーを大切に想っていたからという事だ。愛するオーネジーが傷つかないように、人を疑い、そのうちオーネジーに愛されているということさえも信じることが出来なくて、孤独に蝕まれ、最後には人間でなくなってしまったのだ。


この物語は“信じる”ことを肯定しているわけではなく、“疑う”ことしか出来ない人を皮肉っているわけでもないのだろう。
どちらが救われたのかと思うのかは、きっと観る人の価値観によって変わる。


だけど、裏切られると知っていながら、ブドウ酒を飲み、外套をひるがえし、山荘を後にした修道女たちの後ろ姿は、とてもかっこよかった。そして天国行きの列車に乗った彼女たちは、とても清らかな微笑みを浮かべていた。

私はこの物語を観たあと、動揺するファンダムより一足先に大好きなアイドルたちを信じることを選んでいたのだと思う。
あの日、みんな連日のニュースや騒動が嘘のように楽しそうに笑うファンたちの笑顔の中で、大好きなアイドルに会えて素直に楽しそうにしている娘に「まだ謝罪がないから楽しめなかった」と言った母親らしき人を見て、なんてかわいそうな人なんだと思った。あの瞬間、私にとって、“信じる”ことが出来ないというのはとても哀れだった。

“信じるものは救われる”
この“救われる”という言葉は、私たちの現状が良くなる事を指しているのでないのかもしれない。裏切られると知っていながら、傷つくことを分かっていながら、信じることを選んだ時、きっと心の中の色のようなものについて“救われる”というのかもしれない。


何を疑い、何を信じればいいのかとても複雑な世界で、大切な人を信頼できないということは、どれほどに悲しいことだろう。
大好きだと思っていた人が、自分の全く知らない人間に見えた時、裏切られ、傷つけられたと感じた時、心は孤独で蝕まれずたずたに枯れるのだろう。
そんなのって怖すぎる。だから予防線を張る。
好きだからってその人の全てを好きなわけではないのだと。すべてを肯定するつもりはないのだと。それらしい言葉で武装して、盲目でいられる人たちをお花畑だという言葉で括る。
自分が利口な人間であるかのように振る舞うのはとても滑稽だ。素直でいられたら例え“お花畑”だとしても幸せなんじゃないのか。
私もたぶんどこかでは前者なのかもしれない。大好きな人のここは好きだけど、ああいう行動は意味不明とか言ったりする。時と場合に応じてはあの時の言葉は信じたいけど、本当のところは分からない……というポーズをとってみせたりもする。だけどそこから、いったい何が生まれるのだろう?


出来ることなら、大好きな誰かが自分の知らない誰かになってしまった時、私の知っているその人と、全く違う人になった時、私はそれでも、好きだった気持ちを忘れたくはない。心が枯れて、孤独に蝕まれても、私が好きだったその人の良いところを嘘にはしたくない。
励ましてくれた言葉や、悲しい日に笑わせてくれた冗談や、流していた涙の意味を信じていたい。
例えばそれが毒入りのブトウ酒でも。

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