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So What ?!

すべての人に好かれる人なんていない。

例えば10人の人がいたとして、私の放った言葉や振る舞いを、何とも思わない人が7人、残りの3人のうちの1人か2人は悪意のない言葉や些細な仕草を勝手に捻じ曲げ過大解釈をし私を嫌う。また別の1人か2人は多くの人に拾われなかった思いやりや真心を汲み取り、手放しで好意を寄せてくれる。

自分が間違ったことをしていなかった場合、
一方的に投げられる怒りや嫌悪感の原因は、その人の中の劣等感や罪悪感であって、たいていこちら側には非はない。
そしてその反対に、自分を理解し好意を寄せてくれる相手には、こちらも好意を抱いていることが多い。
自分が素敵だなと思ったり尊敬できる人に好かれるのなら、それほど幸せなことはない。すべての人に好かれなくてもたった一人でも自分を理解してくれる誰かがいるのならそれでいいじゃないか、と思う。
けれど耐性がないと、きっと人は10人の中のたった1人か2人の“自分を嫌いな人”のことで頭がいっぱいになってしまうのだ。

きっと人はそういう風にできているのかもしれない。



先日コンサートで『So What』という曲に入る前、ジョングクがいつもとは違う曲振りをした。

「僕のことがあまり好きじゃない人たちに言いたいことあります!」
「어쩌라고~~~~!!!!!!」

それを聞いたメンバーたちはみんな楽しそうに笑っていた。


このたった一言が一部のファンの間で議論を招いているらしい。

「어쩌라고」を 日本語にすると「だから何?」なのか「どうしろと?」という意味なのか、各自の解釈は二分に分かれ、それぞれが思うままに心にしまっておけばいいのに、自分とは違う解釈の誰かがわざわざ訳してくれた言葉にまで誤りだと責め立てているような空気を感じる。

その言葉は辞書によると「どうしろと?」という意味だ。
しかし以前、VliveでナムジュンによるアルバムのBehindでの話を思い出すと、
「だから何?」という日本語を当てはめるのはとても自然なように思う。
私の語学力は教科書で学んだもので実際の生活の中でどう使われているかまでは分からない。
だからどれが正しい訳か…を説くつもりは全くないけれど、個人的に日本語に言い換えた言葉がどっちであれ“어쩌라고”は“어쩌라고”だ。

それはなぜかというと、例えば人が大切な話をする時、顔を突き合わせて話をしたがるものだと思う。
同じ言葉でも相手の表情や声色で全く異なる意味を持つことがある…ということを私たちは痛いほどに知っているからだ。
文字だけでは分からない、表情の変化や声の高さや話すスピードで人は相手の感情を汲みとる。
だからこそ、時に人の心は言葉の意味が分からなくても言語の壁を超えて通じ合うのだ。
あの瞬間、少なくとも私には彼の声や表情に怒りなんて見えなかった。曲中、ジョングクと同じように最近ありもしない出来事を報道されたテヒョンくんも「어쩌라고~」と笑顔で言っていたけれど、その声のトーンや表情に、隠された裏の意味や誰かを攻撃してやろうなんて想いは見えなかった。


誰に向けて言ったのか、
その真相は本人たちにしか分からないことだけど、個人的にはまさかファンに向かってあんなにかわいい笑顔でその言葉を言うとは思えない。
なのになぜ、たった一言で彼らを責めたり、関係ない人の言葉の揚げ足をとるように責める人がいるのだろう?



人が誰かを嫌うとき、その原因の多くは相手ではなく自分自身の中にあるのではないかと冒頭に書いたけれど、
不愉快な気持ちになったことを誰かのせいにしたいのは、ジョングクのタトゥーを受け入れられない自分自身に元々後ろめたさを感じていて、その言葉が自分に向けられたものだと思ったから…かもしれない。
あるいは、彼らを全肯定できない一部ファンに対してついに!よく言った!とでも言うような発言をするファンの言葉を目にしてしまったから…?
もし心の引っかかりの理由が後者なら悲しすぎる。
ときには価値観の違いに驚くことも、誤って受け取った言葉に戸惑うこともあるかもしれない。
だけど、推し本人ではなく、ただの一ファンの言葉に惑わされるなんて何の意味があるのだろう。
私たちには上も下もない。みんなただのファンだ。

物事はシンプルなはずなのに、彼らの言動に、顔も見えない誰かの考えや主張が上乗せされて、何かとても複雑なもののように受け止められているのではないか、最近そんな風に思うことが多々ある。
関係のない2つの出来事を勝手につなぎ合わせ、誰かの頭の中で作り上げられたストーリーが、自分の知らないところで真実のように語り継がれていくことはとても怖いことだと思う。



以前ナムジュンが紹介していた『監視資本主義』というドキュメンタリーにあった
“偽の情報の方が広まりやすく、人は自分にとって都合の良い目の前の情報に飛びつく”という考えがとても心に残っている。
勝手につなぎ合わせ過大解釈をした架空のストーリーが真実よりもおもしろければ、多くの人はそれでいいのだ。

だけど、もし自分や大切な人の偽の物語が真実のように語り継がれていたら、なんて怖いのだろう。
本当は意味のない言動に意味を見出したり、自分の劣等感を埋めてくれる誰かの都合の良い言葉にしがみついて、架空のストーリーを押し付けることはとても恐ろしいことだ。

私自身、〇〇のこういうところが好き!だとか、音楽やパフォーマンスの中で時々垣間見れる大好きな人たちの人柄を誰かと語り合うことが好きだ。
だけど人のすべてを理解することなんて不可能だから、もしも不特定多数の人が見ることの出来るSNSの世界でそういった話をするときは、“私からはそう見えるけど、本当のところは分からない”という個人の感想であるスタンスを示すべきなのではないかと思うし、人の性格を決めつけるような発言をしてはいないか慎重になる。

しかし、“おもしろければそれでいい”ことがバズる今、真実よりも自分の心に寄り添ってくれる、気休めの誰かの感想が重宝される今、他人の気持ちや性格をこうだと言い切ってしまう顔の見えない誰かの感想が、まるで真実のようにひとり歩きしていくのだ。

ジョングクがタトゥーをいれたりピアスを開ける理由を、どれだけ饒舌に私たちが語ろうとも、それは本人にしか分からないことだ。
あのときのあの言葉やあの歌は、誰に向けて放たれたものなのか…と、どれだけ私たちが議論し揉めたところで、そんなことはジョングクや事前に話をしていたかもしれないメンバーたち以外の誰にも分からないことだ。

意味があるかもしれないし、大した意味はないかもしれない。
特定の誰かに向けて言ったのかもしれないし、
そうじゃないかもしれない。



私は思う。

어쩌라고と言って、楽しくなかったと言って何が悪いのか…。

テヒョンくんが公演の最後に話した「楽しくなかった」という言葉も一部で不満に思われているようだけど、もし「楽しかった」といえば、踊れなかったくせに、こっちはとても心配して気が気じゃなかったのに、などと言う人が必ずいるのだ。

これはオタクの妄想だけど、「楽しくなかった」と言ったのは直前に話していたメンバーの「楽しかった」という感想につなげて、100%のパフォーマンスを見せることが出来なかったことへの悔しさを、私たちが持ち前の共感力と妄想力であまり深刻になりすぎないよう、彼なりのユーモアを交えて話してくれたのだと思った。
その夜weverseにUPした
“もっとかっこよくなって戻ってきます”“高いチケットを買ってくれたのに”(※本文より一部抜粋)という一連の文章はとても思いやりにあふれたプロのアーティストの言葉だと私は思った。

すべての人に好かれることが無理ゲーであるように、すべての人を納得させるスピーチなんて無理だ。
ならばせめて、心の内の想いを飾り立てることなくありのままに話して欲しいと私は思う。


「ファンダムは多種多様で受け入れる人もいれば、受け入れられない人もいる」と私の推しは言っていた。(※インタビューで恋愛についてどう考えているかという質問への返答)

この考えに私も同意だ。
人が100人いれば100通りの考え方がある。

だけど、“自分と相反する考えを持つ他者を尊重する” という意味だけではなく、
“受け入れる人もいれば受け入れられない人もいる”…という諦めだとしたら、傷つかない為に、うろたえない為に、“多様性”という言葉を使うようになったのなら、そんな自分の思考をどこか悲しくも思う。
自分の心を守る為に、人への期待を手放さなければいけなかったのなら、それを手放しにすばらしい考え方だなんて言ってもいいのだろうか。


もし私たちの大切な誰かが、そう思わなければ心を守れない環境にいたのだとしたら…と思うとどこか苦い思いになる。
たった一つの言葉や行動を拾い上げて大騒ぎをされ、その度にヘイトを受けていることを本人たちが知っているとしたら、だから心を保つためにそのような考えをしているとしたら、なんて悲しいのだろう。


“推しのすべてを好きである必要はない”という考えはきっと一部の人にとっては救いになるのだと思う。
だけど私にはその考えが分からない。
価値観は日々変わるものだから、文化の違いや考え方の違いを割り切ることは容易い。
だけどもしも変えられないものや自分が大切にしているものに対して、好きだと思っていた人に「あなたのことは好きだけどあなたのここは嫌いだ」と言われたら私は悲しい。
反対にすべてを受け止めてもらえるということは、とても喜ばしいことだと思う。
“推しのすべてを好きである必要はない”という考えは正しいかもしれない。
だけどその言葉を投げられた本人はそれをどこまで受け入れられるのだろうか?


大好きな彼らの周りにいる人たちが、やさしい人たちであってほしいと思う。
彼らのいる世界が、誰かにとって都合の良い、理想の形に押し込められるような、本当の気持ちが何も話せなくなるような、そんな世界でなければいい。
あまりの素直さに驚いたり気持ちが揺らぐことがあったとしても、いつまでもありのままの言葉を届けてほしい。


そしてそれですら、一ファンの要らぬ心配なのだと思う。
いつのまにか大きくなった彼らに求められる理想という箱に閉じ込められても、傷つけられて汚されて心が削られようとも、まるで磨かれていく宝石のように、削られた分だけ光り輝いていける人たちだろう。
期待と夢いっぱいに走り出したあの日から何年も経ったのに、いまだに彼らの瞳の輝きは変わらないのだから。


「so what?!」という言葉に例え9人の人が顔をしかめようとも、少数派の1人になったとしても、私の目に映る彼らの笑顔はまだとてもまぶしい。
他人の意見に耳を傾けることも時には必要だ。
だけど大好きな人たちの言葉や届けてくれた真心に対しては、自分の目と耳で受け止めた最初のきらめきを私は大切にしたい。
そしてもしも、顔をしかめる側に自分がいる日が来てしまったら、そっと静かにARMYというもう一つのアイデンティティを手放したいと思う。
来る日も来る日も夢中になれたものを手放すことは、とても辛く勇気のいることだろうけど、
自分の気持ちに正直でありたい。



『So What』という歌の中で一番好きな詩がある。

“悩みの9割は君が創りあげた想像の沼”という詩だ。






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