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推しがブームになった話


推しがブームになった。


インディーズ時代から応援していたバンドが売れた、ジュニアの頃から追っていた推しがデビューして…とか、まだ世間に発見される前から応援してきた推しが“売れる”という経験をしたことのある人はきっと一定数いるだろう。

推しに人気者になってほしいからたくさんCDやコンテンツを買って、雑誌のカバーやテレビに出演すれば嬉しくて、売れていくにつれ洗練されていく姿を見ると、時には少し寂しい…と思うこともあるけど、彼らが喜んでくれるならそれが一番の幸せで…
そういうものがオタクの心理だと思っていた。
そして私の推しはたぶん、そういう一連の流れを猛スピードで通り過ぎていってしまった。


誰も知らない、異国のアイドル。
『防弾少年団』が好きだと話すたび、変な名前だとイジられ、わざと名前を間違えてネタにされ、画像を見せれば、全員同じ顔に見えるとお決まりの文句のように返ってくる。
なんなら世間に後ろ指をさされた時期もあった。だけど、今となっては世界中で爆発的な人気のあるスーパースターだ。
芸能人がテレビや雑誌で堂々とBTSの話をする。ARMYだということをアピールする人まで出てきた。
あの時のことは安易に擁護できる問題ではない。だけど、それでもあのとき彼らを叩いていたメディアの中で、庇ってくれた人が斉藤さんただ一人だけだったことを私はずっと覚えている。


街を歩けば女子高生や小学生ぐらいの小さな女の子たちのカバンに彼らがデザインしたBT21というキャラクターの人形がぶら下がっているのをよく見かける。
流行に敏感で、玄人好みの文化を好む人たちしか知らなかった、“普通”の人たちから見れば変わり者の好む音楽だったであろうそれは、今や“普通”なら誰もがどこかで耳にしたことのある王道になったのかもしれない。


それはすごく良いことだろう。
世界中のたくさんの人に愛されて、きっと彼らも喜んでいるはずだ。
推しの幸せが私たちオタクにとって一番の幸せだから、私たちにとってもとても嬉しいことだ。
後ろ指をさされていた変わり者の私たちの“好き”がみんなの“好き”になったのだ。
あのとき変な名前だと言った人たちでさえ、昔から彼らを好きだった私のことを、見る目のある“分かってる人”扱いしてくれるじゃないか。
だから、それはとてもとても良いことだ。



なのにどうしてだろう。
心の中に霧がかかったように感じるのは。
いつも頭の中に疑問符が浮かんで、ただ純粋に彼らの飛躍を喜べないのは…。
私はいわゆる“お花畑”という部類にいるはずなのに、時に嬉しさよりも心配が先立ってしまうのは、私の中のどんな劣等感のせいだろう。



あまりにも増えすぎたファンのせいでコンサートのチケットを取るのが難しくなったから…?
海外の活動に力を入れ、謎の創作物に彼らを使う事務所のせい?
増えすぎた母数にともなって色んな人の価値観が渦巻くSNSのせい?

きっとそういうことが気に入らなくて、何か動きがあるたびにうごめく多種多様な意見に疲れている人も実際のところいるのではないかと思う。

だけど私にとって、それが問題なわけではないのだ。



私が防弾少年団を見つけたのは花様年華の頃で、その頃すでに彼らは人気のあるKPOPアイドルだった。
音楽番組の1位になるだけで嬉しくて、年末の歌謡祭で初めて大賞を受賞したとき、私はKPOPアイドルの追い方もよく分かっていなかったけど、すごいことを成し遂げたんだ…と思って胸がいっぱいになった。
見てるこっちまで伝染してくるような、緊張した面持ちで、大賞の発表を待つ彼らに勝手に親近感を感じて、トロフィーを握りしめ壇上で涙するメンバーに愛しさが溢れた。


デビューの頃から彼らを応援してきた人たちにとっては、あの時点で増えた私のようなファンにも大きな違和感があっただろう。
ここまで彼らを押し上げたのは私たちなのに一緒に泣いてんじゃねーよと思った人もいただろう。

いつの時代もそういうものなのだと思う。
だからよく言われる“ダイナマイト新規”を毛嫌いするつもりはない。
いつ、どのタイミングでARMYになったかは問題ではなく、結局は個人の価値観や在り方の問題なのだ。
だけどあの頃からのファンと最近増えたファンとの間には決定的な感覚のズレがあるのは確かなんじゃないだろうか。


前置きすると新規だからといって、全ての人がそうではない。
先程も書いたように、結局は個々の価値観や思いやりの問題だ。
けれど、数年前からファンになった人たちの多くは、流行に敏感で、ネットを使いこなし、常に色んなものにアンテナを張っている人たちだっただろう。
持ち前の検索力で、初めて好きになったアイドルの昔からのファンたちの行動を眺め、学び、知らないことは語らず、そのファンダムに馴染もうとする。こういうスタンスの人が多いように感じていたのは私の気のせいだろうか?

そして今彼らを発見した人たちの多くは、自分からアンテナを張らなくてもテレビやニュースサイトで自動的に流れてくる情報によって彼らを見つけたのではないだろうか。

全ての人がそうではないけれど、
前者と後者では、きっと元々持っている個々の性質が違うのだ。
たびたび持ち上がる“掛け声”論争を見ればそのことはとてもよく分かる。
彼らを応援する為に生まれた“掛け声”という文化を、私たちは誰に頼ることもなく探し出す。
自らの指をあらゆる方向にスワイプし、HPから“公式の”それを見つけ出し、リストを作り、コンサートに行く為にオタク友達と集まり練習したりもした。
コンサートに行くためにわざわざ予行練習しているのだ。何かのオタクじゃなければこの感覚さえないだろう。

そしてここ数年、掛け声が全然聞こえなかったとか、覚えてないのにコンサート行くとか正気?みたいなお怒りを目にすることが増えた気がする。
きっと最近ARMYになった人に一定数いるであろう、流れてくる情報だけを受けとる人たちにとっては、一から十まで知っていないと不安で、これまでの文化を乱さないようにしよう!とかメンバーたちに喜んでもらえるようにがんばるッ!みたいな感覚の方が不思議でしょうがないのではないだろうか。
前者とってコンサートや現場は、お金には変え難いアーティストとファンが一緒になって作り・楽しむ思い出の1ページで、後者にとっては対価を払って観るショーなのだろう。


どちらが良いとか悪いとかではない。
知らないところから始まったとしても、こちら側に歩み寄ってくれる人もいれば、意味不明だと距離を置く人もいる。その選択は本来自由で、それぞれにしか感じられないそれぞれの喜びがあるはずだ。
私たちが新規だとか古参だとかいって、どれだけ自分たちの立場を分け隔てようと、悲しいことに、私たちはみんなただのファンだ。
アミ歴に関係なく、ど新規なのにがんばって掛け声を全曲覚え、万全の準備をして臨もうと、古参なのに掛け声を覚える気もなく、アミボムさえ持っていなくても、コンサート会場で彼らの前に立ったとき、私たちはみんな同じ、彼らにとって“大好きなARMY”だ。


だけど心の中はどうだろう?
楽しかったその日の思い出は、かけた時間の分だけいっぱいになった想いは、誰にも測れないし、奪えないのだ。
誰かが“古参”を偽装して語るエモエピに、自分たちだけの思い出が盗まれたように感じても、語り尽くせないはずの嬉しさと苦味の詰まった思い出が、うん千回目の焼きまわしのエピソードとしてたった140文字で片づけられようと、“泣ける”デマエピソードに何千件ものいいねがついてしまうこの世界に閉口しようとも、あなたの思い出は誰にも盗むことなんてできない。
心が折れそうだったとき、彼らの歌に救われたこと。
冴えない一日の終わりにたくさん笑わせてくれたこと。
変わり映えのない普通の毎日の中で、夢のような時間を一緒に過ごしたこと。
あなたの思い出は、あなただけのものだ。



すっかり話は変わるが、
久しぶりに大好きな劇団の公演を観た。
その劇団のある女優さんが最近ARMYになったということは彼女のツイッターを見て薄々知っていたけれど、KPOPや韓流ドラマといった文化にハマっている人しか知らないであろう‘指ハート’をカーテンコールで飛ばしていた彼女はとてもとてもかわいかった。
10代の子供だった私が、30代になるまでの間ずっと観てきた人たちだから同じように歳を重ねてきたはずなのに、今まで見た中でいちばんキュートでキラキラ輝いていて、はじめて恋をしたときみたいな、あの特有のピカピカしたオーラを放っていた。


家に帰って開いたパンフレットの中には
コロナが終わったら韓国に行ってBTSのコンサートに行きたい!という話とテテとお揃いのジャージを着ているというエピソードが綴られていて、あまりのかわいらしさにまるで文字が踊ってるみたいに見えた。


このかわいさを私はどこかに忘れてきてしまってはいないだろうか?
あの頃のときめきとあの日の私が放っていたピカピカのオーラはどこに消えてしまったんだろう?


私が文字や全身からピカピカした何かを放っていた頃、毎日のように7人への気持ちをSNSに綴り、推しの喜ぶ顔が見たくて一緒にありとあらゆる投票に勤しんでいた人たちは、今どんな想いで彼らを推しているんだろう?
色々なことに疲れて、或いは唯一無二だと思っていた彼らに飽きて、あの場所からいなくなってしまった人たちはどうしてるだろう?
韓国語が分からなかった私に、彼らの曲のすばらしさを教えてくれた彼女は今もARMYをしているだろうか?
みんな元気にしてるだろうか?
何か他に夢中になれるものを追いかけているのだろうか?
私はいつ彼らの他に夢中になれる別の何かを見つけるのだろう?


大好きな推しの書いた詩のように、
幼い頃から私の頭の中にある“青色の疑問符”は消えない。
その温かく見える言葉の向こうにあるものは愛なのか自我なのか。これは良いことなのか?悪いことなのか?目の前の人やものに嘘はないだろうか?信頼してもいいのだろうか?

それはきっと私の面倒さだけど、私はいつもその疑問の正体をちゃんと自分で知っているのだと思う。
いつからかずっと心にある霧の正体も、
頭の中に浮かんだままのクエスチョンマークも、全ては私の大切な人たちが、一分一秒でも不安を感じないように…という願いの裏返しだ。
嫌なものを目にして傷つきませんように。
たくさんの人に注目された分、正しさに縛られて本当の気持ちを吐き出せる場所がなくなってしまいませんように。そのきれいな心をすり減らすことがありませんように…。




こんなものを書いて寝かせていた間に
推しがコロナになってしまった。

外国に行ったから、遊んでいたのではないか、誰といたのか。
話しても仕方のない噂話が飛び交う。
彼らの前に立つとき、私たちはどんな人でもみんな同じただのファンだと言ったけれど、彼らの大好きなARMYの中に心配より好奇心が先立つ人がいることが悲しい。
種類は違えど、みんな“好き”という想いは同じだと思っていたのに、
家族や友人のように推しを心配する心優しい人たちがいる一方で、ただの有名人のゴシップのように他人事と思っている人がいることが悲しい。
私たちの“好き”はきっと違う。


忙しくしていても誰かと会っていても、
酷くなってはいないか、辛い思いはしていないだろうかと気になって仕方がない。
“推し”という、自分の日常には何も関係がない赤の他人を気にしてしまうのは、
推しが元気じゃないだけで、何もする気になれない子供じみた私は、
全く関係のない内容なのに、こんなnote全部消してしまいたいと思っている私はきっと“普通”じゃない。
私の方が、私たちの方がきっと変なんだろう。

世界中で注目され、街をゆけば彼らの声がどこかで流れる今、
私たちの推しがブームになった今も
やっぱり“普通”の人からみれば、私は変わり者のままなんだろう。


最近、人であることを考える。
複雑さを増し、信じるものを選ぶことすら難しい世界で、いつでも大切なことを教えてくれるのは7人だった。
冒険を忘れないこと。
与えられたチャンスに全力で努めること。
人を思いやること。
自分の損得にかかわらず、人を喜ばせること、助けようとすること。

人として忘れてはいけないことを
私は彼らを通して見ている。

頭の中の疑問符は消えないけれど、
今でもまだ、
初めて7人を見つけたあの日と同じように
彼らの声は私の心を溶かすように染み込み、
私の目に映る彼らは相変わらず何よりもまぶしい。


そしていつも思っている。
とてもとても大切な人たちだから
どうか宇宙で一番、幸せでいてほしい。


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