アイドルと日々 (Yet To Come)
私たちのチャプター1 が終わる。
いつかは来ると思っていた。その足音をずっとずっと感じていたはずなのに、それはまるで突然のようにすぐ目の前に来ていた。
私たちの大好きな人が話していた。
みんなに辛い思いをしないでほしい。僕たちがいつ終わるかも分からないし、いつ死ぬかも分からないけれど、その時まで本当に幸せだったらいい、と。
本当にその通りだ。
怪我をしないで、風邪をひかないで、いつも穏やかで幸せでいてくれたら何をしていてもいい。
スキャンダルは嫌だけど、結局のところは受け入れるから。だからどうか、本当の気持ちを閉じ込めることなくやりたいことをやりたいようにして過ごしてほしい。
永遠なんてないのだから、変化は自然なことだと私は思う。そしてどんな風に変わっても私はずっと7人を大好きで居続けるだろう。
同じ時代に生まれて良かった。私の人生に彼らがいてくれて本当に良かった。
7人を見つけたあの瞬間から、どんな恋よりも私の毎日を輝かせてくれた。
彼らを好きだと思える感性を持っていて良かった。
あれから何年も、幾度となく繰り返し思っている。
本当に本当に心から出会えて良かったと。
終わりを迎えるわけではなくて、新しいチャプターに進むだけだ。
それでも、何も成長していないのに自分だけがおいてけぼりにされてしまったようなさみしさを感じたのも事実だ。
気持ちよく見送る為の私の中の区切りは2年前に訪れるはずだった。だけど想像もつかない世界の変化によりそれは叶わぬ夢となった。
今年こそは会えるだろうか……。そんな期待を一年、また一年と繰り越して。いつかまた戻ってくるはずの当たり前だった楽しい日々への期待があれば、だいたいのことは笑ってやり過ごせた。
実際のところ、兵役もワールドツアーも、あるともないとも言われた訳ではなく、まだどうなるのか私たちには何も分からないけれど、また一つ、ささやかな私の夢が“またいつかに”に繰り越されるのかと思うととてもとてもさみしい。
2年前、世界が思いもよらない方向へと転換した。
あの頃の“当たり前”が今は特別なものとなり、私たちは痛いほどに予測できない未来を思い知ってしまったのだ。
明日への期待は簡単に裏切られるから、いつのまにか何にも期待しなくなっていたのかもしれない。
長くファンでいた人たちが英語曲ばかり歌うようになった彼らに違和感を感じて去ろうとも、待ちに待った新曲がたった3曲でも、その曲で踊ることがなくても、私が何とも思わず楽しくいられるのは、期待という感情をなくしてしまったからだろうか。
だからこそ、そう思うのかもしれないけれど、考えてみれば7人での活動がこれから少なくなるからといって、何かが大きく変わるのかといえば、さして大きな変化はないような気もしている。それとも新しいチャプターに入ればそれはそれでまた新しいさみしさを感じるのだろうか。
とりわけ取り沙汰されるナムジュンの涙の訳は、本人にしか分からないことだけど、これからのグループの形の変化への不安よりも、あまりにも重い荷物を背負わされてきた自分達を取り巻く現状と彼が思う本当の自分との落差や、パンデミックで全て白紙にされ見通しのつかない状況の中でずっと張り詰めていた想い、私たちの期待に応えられているのか…休みたいと思うことすら裏切りなのかもしれない、という申し訳なさだったり、何か一つの明確な理由などなく、色んな想いが堰を切って流れ出したもののような気がした。
私はあんな風に感情的に話してくれることが嬉しかった。それでも感情をあらわにしてはいけなかったのだろうか。贅沢なことを言っていると鼻で笑われ、辛いと涙したことさえ、後悔させなければいけないのだろうか。
私たちは本来、アイドルとファンという遠い他人同士であるにも関わらず、こんな風に心の内を打ち明けてくれることをとてもとても嬉しく思う。
それと同時に、こんな想いをさせてしまっていたことをとてもとても申し訳なく思う。
そしてこんな風に罪悪感を抱える者もいれば、この期に及んでまだ、彼らにK-POP産業の仕組みへの革命などを求めたりする人もいるのだろう。
「僕たちは、実は2なのに1だと含みを持って話をしたわけではありません。1を1として話し、その過程にあったすべての情緒を勇気と涙で共有したかっただけです。」(weverse より一部抜粋)
ナムジュンのこの言葉がすべてであり、これまでだって2を1として話したことなんてあったのだろうか。
言葉を言葉のまま受け取ってあげることは、そんなにも難しいのだろうか。
もう重たい荷物は下ろしていい。
あまりにも大きな修飾語を背負わされて、一挙手一投足を勝手に深読みして意味付けされる世界で、心穏やかにいられる日が果たして彼らにあるのだろうか…そんな心配をもう何年も抱えて、思うだけで、彼らが心配した通りの恐怖を抱えているならば、どうしてあげればいいのかなんて考えもしなかった。
ただ何をすることもなく心配していただけの私たちもまた、彼らに苦しい思いをさせた大きなARMYという塊の一部にしかすぎない。
私たちARMYはそれぞれの人生の中で、それぞれが必要としたときに彼らと出会った。
彼らがまだ垢抜けない純朴に見える少年だった頃に出会った人もいれば、世界を駆け回るスーパースターになった7人を好きになった人もいるだろう。
いつのタイミングで彼らと出会ったとしても多くの人は追いきれない数のコンテンツを遡り“昔のままの変わらない少年たち”をずっと見てきたかのような錯覚に陥りそれを求める。
“花樣年華”という言葉がひとり歩きするようになんでもかんでも関連付けられて深読み考察がバズるのは、そのストーリー性に惹きつけられているからというだけではなく、あの頃の彼らを知っていたかった…という気持ちと混同されているからなのではないだろうか。
“君の心の底のどこかに 昔のままの少年がいる”
『Yet To Come』の中にこんな詩がある。
自分以外の誰かに本気で変わらないことを望むのは傲慢であり、本気で何も変わっていないなんてお互い思ってはいないだろう。
それでも彼らは“僕たちは昔のまま”だと歌う。13歳の頃から大して変わっていないのだと歌う。
私たちはそれを受けとり喜び、変わらない彼らを愛する。
通じ合った両側の気持ちはどちらも心からの言葉であり、紛れもなく本当の気持ちだ。
だけど私たちは、本当はそれが幻想だということを知っている。
本当は知っているのに「僕たちは昔のままだよ」と話し、「どれだけスーパースターになっても変わらない君たちが好きだよ」と声を返す。
グラミーや数々のすごい賞もまた、同じなのかもしれない。他のファンたちがどう思っているのかは分からないが、私にとって賞レースは重要ではない。けれど、7人が喜ぶことならなんだって嬉しかった。賞がほしいと願うならその望みを叶えてあげたいと思った。7人の願いもまた“誰かの為”ではなかっただろうか。
この関係は狂っているだろう。
お互いを想うあまりに本当は押し付けたくない幻想をお互いに押し付けているのかもしれない。
そしてその事が奇しくも互いの糧となり生きる希望になっている。(たぶん)
長く続いているアーティストたちが通ってきたチャプターに、同じように7人が差し掛かっただけなのに、それまでの経緯を本人たちが涙ながらに話し、それを見て、大親友の悩み事でも聞いているかのように一緒になって泣いている私たちは、きっとみんな狂っている。
だけど、自分を一段上に置き、その狂気を客観的に見たりして一定の距離を保つようなポーズをしている人には、決して味わえない喜びも、とびきりの嬉しさも、苦味も、私は痛いほどに知っている。
あの1時間の動画の中に記録された7人の姿、表情、言葉の中にあったものたちは、私たちにしか分からない。朝のニュースやセンセーショナルな言葉だけを切り貼りした記事やすばらしい書物に、分析されてたまるかと思う。そしてそれは一オタクのバカげた思い込みの妄想だったのに、本人の書き綴った文章の中にまさかの同じ想いを見つければ、その偶然をテレパシーだと思い込む。
「本当に心から愛している」と言う、使い古されたその言葉で、滑稽にも心の中の欠けた部分が満ちていく。
どんなにおかしくても、それが幻だとしても、私たちはとてもとても幸せだった。
色んなことがあるたびに世間の声にどうしようもなく馴染まない自分に気付いても、大好きだという気持ち一つでとてもとても幸せだった。
今この瞬間でさえ、私たちは二度と戻らないかけがえのない時間の中にいるのだと思う。バカみたいに一緒になって涙して、狼狽え、相変わらずよく分からない世間のノイズに揉まれ、結局また彼らの言葉一つで、好きだという気持ちが走り出す。
こんなに好きになってごめんね。
幸せを願うことさえ重荷になってしまうかもしれないけど、それでもとてもとても大切な人たちだから、この世界のどこかで笑っていてほしいと願ってる。
『Yet To Come』の中に“Promise that we’ll keep on coming back for more”というフレーズがある。
“これからもっとカムバックし続けるって約束するよ”という意味合いの込められたその言葉に彼らのやさしさと彼ら自身の祈りを感じた。
そして“それぞれ”の旅を選択してもなお、またカムバックするよと約束してくれる言葉たちを私は曇りなく信頼している。
その約束にどうか縛られないでいてほしいと願いながら、これからたくさん訪れるはずの私たちの最高の瞬間に、失ったはずの期待を私はこの期に及んで抱いている。
いつかは終わるその時がずっとずっと先であることを願う。
そしてその時まで、本当に本当に幸せだったらいい。
辛くなったら重い荷物を下ろしてね。
ずっとBTSを続けたいと言ってくれることはとてもとても嬉しいけれど、本当に嫌になったその時はやめてしまったっていい。
それぞれがやりたいことをして、思いのままに生きていてほしい。
そしてありのままの想いを隠すことなく打ち明けることが許される、そんな世界であってほしい。
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