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斜めから恋をしている人たちへ 3


私たちは“相手の言葉を理解しないまま自分の言いたいことばかりを話している”
最近観た映画にこんなセリフがあった。

相手の意思を汲み取ることはなく、相手の言葉は自分が話したいことを話すきっかけにしかすぎない。
私たちはいつでも自分が聞きたい言葉だけを聞いて、見たいものだけを見て、本当のことを知ろうともしない。
いつも自分の為に生きて、自分の思い通りに物事を捻じ曲げて、捻じ曲げたことを指摘されたらもうそんなやつはシャットアウトだ。
私は私を愛する為に、私を否定する人を受け入れてはいけない。私が狂っていると言われるとき、私以外の全員が狂っているのだ。
そしてそれは半分正しく、どうしようもなく間違っている。


私たちは自分の心を守りたくて見たくないもの見ず、聞きたくないことに耳を塞ぎ、霧のかかった道を歩いていることに気づかない。


「自分のことを考える前に、自分のためにがんばってくれた人のことをまず考えると 正しい行動ができます。」
そんな言葉を話せる彼でも、霧の中にいることに気づかない日があるのだろうか。


“推しの熱愛”はまるで緊急事態のあのアラーム音を聴いたときのように心臓がぎゅっとなる。
手の中に収まる小さな機械でインターネットに繋がるのは幸か不幸か、さまざまな情報を精査しそれぞれがこの不穏な感情の落としどころを探る。
なんだ、フェイクニュースか…と安堵して終われたらよかったのに、いつも秒速で否定する事務所が無視をキメこんでいるせいで、SNSの海で不安になった人たちの感情にぶつかるたび、信じるわけなんてなかったのに「たしかに…」と引っ張られそうになる。相手の女の子も大好きだったのにインスタのストーリーが更新されるたびに知らぬ内に構えてしまっている。


事務所が口を開かない理由は事実だからかもしれない。
案外、相手にするレベルにないから…という単純な理由かもしれないし、ファンたちには想像もつかないような複雑な事情があるのかもしれない。

正直なところ、白でも黒でもどちらにしても“好き”という気持ちに何も変わりはないのだからどっちだっていい。



ただ悲しく狼狽えるのは、バキバキのスマホを大切に使って、迷子になってもずんずん知らない道を行き、たんぽぽを見つけて綿毛を吹いていたあの子が、ニセモノの四つ葉のクローバーを信じて驚き、すぐに少しだけ寂しそうな顔をしていた透明なあの子が、“彼女とリゾート地でのドライブデート”というシチュエーションを信じ込まれたり、スキャンダルの的にされるような大人になってしまったのだと突きつけられる、そういうことだ。

環境が変わればどんな友情も簡単に疎遠になり、あんなに気の合う同士だったのに、どちらかの価値観が変われば簡単に上辺だけの関係になることを私たちは知っている。結局のところ、いつかは相手の変化を受け入れ、認め、順応していくことは分かっている。だからこそ、さみしさゆえに、仲の良い友人の恋を応援できないときのようなあのもどかしさを、条件反射的に感じるのかもしれない。


どっちだっていい…と言ったけれど、それはこれまでの関係に変わりがないからだ。
ステージの上ではしゃぐ姿をいつまでも見続けられたらそれでいい。その唯一無二の歌声でさみしい夜に心を溶かしてくれるのならそれで充分だ。まるで理解したように語り明かしたすべてがまやかしだったとしても、どうか私の知っているその優しさがいつまでもそこにあるのだと信じさせてくれたら、それでいい。


だけどもし、それがなくなってしまったらどうだろう。
熱愛の真相云々よりも知らぬうちに心を疲弊させるのは、勝手に決めつけられ、まるで真実のように語られていく曖昧な出来事のせいだ。

白だったしても黒だったとしてもそっとしておいてあげればいいものを、どれだけ避けても見たくもない謎のニュースは毎日のように流れてくる。ついうっかり読んでしまった記事の中に書かれた私の大好きなその人は、まるで別人だ。

InstagramにUPした写真にはこんな意味が隠されている、あの花を上げるのは嫌がらせだ、“YOUR DOG IS NOT MY DOG”とプリントされた服を着ているのは最高だ、
、白い服を着て空港に現れたのは潔白という意思表示だ……。
果たしてこのすべてに何か深い意味などあるのだろうか。意味のないものに意味を見出すことは人の美しさでもあるけれど、自分の不安や弱さを隠し自分を安心させる為の妄想ならば、その妄想を事実のように押し付けられた本人はどう思うのだろう。話題のトピックとして世間の注目を集める為の道具にされているのなら、問題をすり替える為に、あるいは安心したいが為に利用され、やることすべてにあれこれと口出しされるのは、とてもとてもかわいそうだ。
あんなにかわいくて素敵な彼女が出来たのなら、さみしいけれどそれは喜ばしいことだろう。
だけど、それを応援するというどこかの一ファンの声すら記事にされる世界は、あらゆる憶測に晒され、意図せぬことにさえも意味を見出されているなら、それはいったい彼にとってどんな気分なんだろう。


歌手になろうと思ったきっかけをいつか楽しそうに話していたのを覚えてるだろうか。
外国のメディアで、きっとその国の人たちが知らない曲を堂々と楽しそうに、四角い口で笑いながら踊っていた。
その曲は噂の彼女の元カレのグループのメンバーの曲だ。
私たちの大切な彼は、いつかは憧れだった人に向かって傷を抉るようなことを平気でするのだろうか。


フェイクニュースの主謀者や安易に黒だと決めつけ騒ぎ立てる人への怒りを、その服に描かれた“YOUR DOG IS NOT MY DOG”という言葉に代弁してもらったと思うのも分からなくはない。しかし明確に特定の人に向けていることが分かるならまだしも、ただ不安になっているファンたちさえも自分に向かっている言葉だと捉えかねないような、そんな浅はかな状況を作り出すような人だっただろうか。
イヤーカフもトップスの文字もただかわいくておもしろいと思ったから、みんなが喜ぶだろうと着てきたんじゃないだろうか。
いつも悲しんでるメンバーの隣でそっと寄り添う優しい彼は、大親友の着ている服に隠された“秘密のメッセージ”をわざと指差して煽るような、そんな意地悪な人だったろうか……?
私は絶対にそうは思わない。

それは私が、聞きたい言葉だけを聞いて見たいものだけを見て真実から目を逸らしているからなのかもしれない。
ただの偶然だと思う私の思い込みが間違いで、私が狂っているのなら、今こそ私以外の世界がおかしいのだと言ってやる。良いときも悪いときも、尊敬するところも、間違いに気づき学んでいく姿も、私はずっとずっと長い時間、彼らを見てきたのだ。


意味のないものに意味を見出すことは間違いではない。大好きな人たちの“〇〇かもしれない”を語ることも決して悪いことではない。
だけど、誰も知り得ない人の内面を語るとき、「〇〇かもしれない、でもそうではないかもしれない」という余白を外し言い切りの言葉で語られることはその想いを押し付けることと何ら変わりはないと私は思う。
そして本人が何も語ってもいないに関わらず、どこかの誰かが片手間につぶやいた言葉が真実のようにひとり歩きを始めるのはとても恐ろしいことだ。

互いの違いを尊重するべき世の中で、あらゆる異なる考えに歩み寄ることを求められる世の中で、“こうあってほしい”という願いを相手に押し付けた瞬間、それはその相手への暴力になるのではないだろうか。



事の真相は分からない。
私たちは結局のところ悲しいほどにお互いを知らない。
だけど少なくとも、私の大好きな人たちは、他人を攻撃するために、人を傷つけるために行動するような、そんな悲しい人たちでは絶対にない。

いつもまっすぐな言葉で問題に触れてしまうから、すべての人に受け入れられず損をしてきた彼の誠実さを私は知っている。

「自分のことを考える前に、自分のためにがんばってくれた人のことをまず考えると 正しい行動ができます。」
そんな言葉をおだやかに話していた、あの日の優しい彼を私は知っているから。




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