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大衆を盾にして貶すのをやめろ

人を貶すときに大衆を盾にするな。私は声を大にしてそう言いたい。

貶される側には貶されるなりの理由があるのだから、否定的な言葉を口にする権利自体は誰にでもあるとは思う。もちろん、それは相手との関係性や状況次第ではあるし、陰口やデマの流布はもちろん論外だが。ただ、どんな状況であろうと、「そういうことしてるとみんなに嫌われるよ」だとか「そんなんじゃ女の子/男の子にモテないよ」みたいな貶し方だけは許せない。

こういう言論に持ち出される「みんな」だとか「女の子/男の子(ご時世的にこの二元論は不相応な気がするけど、恋愛対象全般という意味で捉えてもらえば結構です。)」というものは、大抵は悪口を言う側の頭の中で捏造された架空の大衆だ。アンケートなどの調査結果に基づく根拠が提示される場合はごく稀だし、偏りの無いサンプルからとられた有意な調査結果であることはさらに稀だと思う。

別に日常会話におけるあらゆる主張に説得力のある根拠を提示しろ、などという極論を持ち出そうというわけではない。問題は、こういった大衆を盾にした言論(以下、便宜上「みんな論」と呼ぶことにします。)の持つ「反論を受け流す作用」にあるのだ。

面と向かった相手に否定的な意見を投げかけるのならば、それによって相手が不快な気持ちになる可能性は飲みこむ必要があるし、(それが例え善意からのアドバイスなのだとしても)少なくとも相手にある種の危害を加えている以上は、相手からの反撃(この場合は反論)を受ける覚悟が必要だ。

しかし、「みんな論」には相手の反論をのらりくらりと受け流す作用があるのだ。仮に「そういうことしてるとみんなに嫌われるよ」という苦言に対して「どうして?」「みんなって誰?」と反論したとしても、「そう思うのが普通だから」「みんなはみんなだよ」と返されたら話にならない。否定的な言説の根拠を曖昧な「みんな」に委ねているゆえに、いざ反論が来れば「みんなに聞け」というように議論を放棄できてしまうのだ。

「みんな論」は、根拠が曖昧なため説得力に欠ける上に、いざ反論されれば発言の責任を「みんな」に託して議論から逃げることができる。「みんな論」で貶された側の気持ちになって考えれば、あまりにも筋違いな話だ。

そういうわけだから、私に至らぬ部分があるのなら「みんなに嫌われるからやめた方が良いよ」ではなく「オメェのそういうとこがムカつくんだよ!!!」と言われたほうがマシだとすら思っている。後者ならいくらか反論のしようがあるし、否定的な意見を言うことの責任を全て自分で背負っているぶん潔い。

せめて「渋谷で街往く1000人に聞いたところ、そういうことしてるとみんなに嫌われるよ」「女性向け雑誌ananの調査によれば、そんなんじゃモテないよ」みたいな感じであって欲しい。まあ例えそう言われたとしても、大衆に阿るために信念を曲げる気はないし、100%完全にこちらの非だと納得できない限りはそう簡単に改善するつもりはないのだけれど。

⇧そんなんじゃモテないよ。

うるせぇ!!!

(蛇足)
私は「嫌われたくはないけど、自分の信念のために嫌われるのならそれはそれで仕方がない」という心づもりで生きてるんだけど、なんとなく「死にたくはないけど、夢のために死ぬのならそれはそれで仕方がない」というモンキー・D・ルフィの死生観に似てるなと思った。

ゴムゴムの~!屁理屈!!!!ドン!

美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ