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同じになろうとするな。きっと未熟なのだから(2022/06/22水)
こんにちは。
今までずっと敬体(ですます調)で雑記・日記を書いていましたが、今回からは常体(だである調)で書いてみることにします。実験的な試みなので、なんか違うな…と思ったら急にやめると思います。
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ふと「同じになろうとしちゃダメかもな」という考えに至った。
自分の能力を活かして創造的な活動をしている人々に関する話として、「作り手から受け手に提供されている作品は氷山の一角でしかなく、受け手の目の届かない水面の下には、血の滲むような努力と日の目を見ることなく没となった作品がたくさん隠れているのだ」というのをよく聞く。
これは創造的なアウトプットに限った話ではないのだと思う。
基本的に、人間には自分の美しい部分以外はひた隠しにしてしまいたいという心理があるはずだ。ゆえに、あらゆる人物の「人目に触れる部分」は、本人にとって「見せても良い氷山の一角」でしかない。
そういうわけだから、自分の目に映る他人の姿は、ありのままの本人よりも美しく優れた虚像になってしまうのだろう。
自分の認識する他者は虚像でしかないのだから、他者と「同じになろうとする」という試みには危うさがあるように思う。
仮に、自分がとある人物に憧れを抱いているとする。この時、その人物は自分よりもある分野で優れた人間であるはずだ。
しかし、自分が本当に憧れているものは、ありのままのその人物ではなく、その人物の良い部分だけが切り抜かれた虚像なのだ。虚像は、ただでさえその分野で自分より優れている人物をさらに優れた姿に補正したものなのだから、当然ながら自分との間の差異はより大きい。
それゆえ、憧れの対象と同じになろうとする試みは想定以上に過酷な道になってしまうし、多くの場合挫折に繋がってしまうだろう。
もちろん挫折を通じて何かを学べることもあるのかもしれないが、基本的に挫折とは不幸せな結末であるはずだ。
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私は、漠然とした憧れを抱いて生きている。
日々享受している作品たちを見て、自分もあわよくばあちら側に行けたら、あんな風に成れたらと考えている。
しかし、私が漠然と憧れている彼らが、日々どんな苦労をしているのか、今までどんな努力を積み重ねてきたのかは私には知る由がない。
未熟な自分が今すぐに彼らと「同じ」になれるとは思えないし、仮に数多の困難を乗り越えていつか「同じ」になれたとしても憧れていた世界が想像通り、理想通りのものだとは限らない。
憧れる気持ちにまかせて「同じになろうとする」よりも、人事を尽くして天命を待つような心持ちで、なるべくしてなれるものになるくらいのつもりが良いのかもしれない。
まあそういう楽な道を選ぶのにも相応のリスクがあるだろうとは思うけど。
一寸先は闇。おやすみなさい。
終わり
美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ