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最近思ったこといろいろ、の1

最近、Twitterでつぶやくには長すぎるがnoteで記事にするには短すぎるくらいのとりとめのない考えが浮かぶことが多いので、そういうのを集めて書き記してみることにしました。

今後もたまにこういうのをやると思います。多分。

・そんなことまで覚えてないよ

「突然ですが質問です!あなたは昨日の夕飯を思い出せますか?」
「思い出せなかったそこのアナタ!もしかしたらそれ、認知症のサインかも~!?」

…みたいなよく聞く話。

私も夕飯のメニューを思い出せないことがしばしばある側の人間だが、夕飯を思い出せない人の中には「忘れてしまっている」のではなく「そもそも覚えていない」人もいるのではないかと思っている。

食事にあまりこだわりが無い人間は、食事を「食べてない/食べた」のバイナリでしか認識していないことがあり、そもそもメニューが情報として記録すらされていないことがあるのだ。そのため、認知症や健忘症の症状の有無にかかわらず、普段の食事において何を食べたのか思い出せないことがままある。

「さっきすれ違った人の服は何色でしたか?」と聞かれたとしても、よほどファッションへの関心が高かったり、通行人の服装を調査していたりしない限りは答えられないのと同じことだ。多分。

・「命を軽んじる奴は死ね」は矛盾しているか

ふと思いついた。別に矛盾しているとは限らないのではないかと。

第一に、発言者が「命を軽んじる」ことを死に値するほどの罪悪として認識している場合。つまり、死に値する罪を犯した人間に対して「死ね」という言葉を投げかけるのは、当人にとって命を軽んじる行為にはあたらないということだ。

もちろん、命の軽視が死に値する罪悪だという認識の是非には議論の余地がある。ただ、ここでの論点は「命を軽んじる奴は死ね」が矛盾しているかどうかであって、この言説の正しさはあまり重要ではない。

第二に、この言説は道徳的信念の主張として意図されていて、実践を伴うべきものと意図されていない場合。これは私個人の意見でもあるのだが、道徳的信念の「正しさ」というものは現実世界での実践を伴うことを必要としない。

現代社会において「なにがあっても暴力に訴えてはいけない」という信念が広く認められているにもかかわらず、いつかのビンタ騒動において暴行に走ったウィル・スミスを称賛する声は少なからず見受けられた。このように、道徳的信念が是と認められることは、それが社会で実践されるべきとみなされることとはイコールではないのだ。

「命を軽んじる奴は死ね」に関しても同様で、「命を軽んじる奴は死ぬべき(であるから、この命を軽んじる言説を唱えている私自身も本来は死ぬべきである)」という実践を伴わない道徳的信念の主張としての解釈の余地があるのではないだろうか。流石に「死ね」とまでいってしまうとただの暴言の類としてみなされて然るべきだろうから、あくまでも相応の文脈が伴った場合や「死ぬべき」などの婉曲的な表現が用いられた場合に限った話にはなってしまうだろうが。

なお、繰り返すが、ここでの論点は「命を軽んじる奴は死ね」が矛盾しているかどうかなのであって、「命を軽んじる奴は死ぬべき」という主張の是非自体はここでは重要ではない。

・「簡単に稼げる情報」のインターネット広告版

最近、インターネット上に表示される広告で、マルチ商法の香りが漂っているものを見かけた。

こういうものは、関わりのある知人から直接勧誘されるからこそ、信じてしまったり断りきれなかったりして沼に足を突っ込むことになるものだと思っていた。そのため、どこの馬の骨かもわからないやつが不特定多数に向けて情報を発信したところで効果はあるのだろうかと疑問に思っていた。広告を打ち出す側もバカではないのだから、我々があの広告を目にしているということは、なんらかの効果がきちんとあるのだろうが…。

直接の勧誘から不特定多数への広告に置き換わることによる変化として考えられるのは、「情報を受け取った人が誘いに乗ってくれる確率の減少」と「情報を受け取る人数の増加」だろうか。ただの妄想でしかないけれど、確率の減少と母数の増加がうまいこと噛み合って、誘いに乗る人数が従来と全く変わっていなかったりしていたらかなり面白いな。いや面白くないか、どちらにせよ誰かが損をしている可能性があるわけだし…。

以上になります。思ったより長くなったなぁ。

終わり

美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ