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どうして正しさの押し付け合いをしてしまうのだろう?〜自分の存在を否定する意識からエスケープする〜

戦いの意識はどこから生まれてくるのだろう?

それぞれの多様性を認めることを難しくしているのは何なのか?

戦争、ケンカ、誹謗中傷、

そして、軽蔑する、差別する、優劣をつける、バカにする

そして、
そこまで直接的でなくとも識別ではなく、
差別的にジャッジメントしてしまう意識


それは自分の正しさを押し付ける意識から生み出されている

この正しさの押し付け合いから抜ければ、
世界から争いが消えるって
傷つけ合わない世界を創造できるなって
そう思った。

だけど、正しさの押し付けは、自分で気をつけていたり、その意識から抜けたと感じていてもまだ尚起りえる意識だった
(例えば、理解できない人を軽蔑したり、否定する人(自分)がいて、
さらにそれを軽蔑したり否定する人(自分)がいる。。。みたいな、こんなエンドレスループな現象)

このいたちごっこに終止符をうつのは何か?

争いの意識を追いかけて見つけた私なりの答えをここでシェアします


さ、では先に結論から言います

正しさの押し付けを生み出す意識はどこからくるのか?

まず、①意見(考え)と存在の混同がおきていること

そして②自分の存在を自分で否定している意識があること


ざっくり言うと
この2つの意識により生み出されていると感じました


とくに②は全ての悩みの根源と言っても過言ではないと思う


愛情やお金、仕事、人間関係全ての悩みの根源はここにある


だから、逆にここが府に落ちれば、留まっていた歯車は回り出すと言える


全ての悩みにアプローチする全ての要の意識です


まずは『意見(考え)と存在の混同』について見ていきます


まず、
自分の意見を持つとは、自分オリジナルの一つに自分の考え(意思)を決めるということ

その一つを選ぶまでに、いろんな角度から自分の意見を検証し、今までの経験や体験、思いや感情を通して導き出した自分オリジナルの意思を決定します
(自分で自分の意思を選び抜くこの過程を体験することが自分を信じる材料になります)

そんな、ストーリーがあればあるほど、私たち人間はそれを自分自身(存在)と同等のものだと認識します


意見はアイデンティティです


意見は自分の要素ではありますが
自分の存在そのものを意味していません


意見(考え)と存在は同一ではありません


ここを区別したほうが生きることが楽になります


人を裁くこと、軽蔑すること、蔑むこと、バカにすること、受け入れないこと、

これはほとんどの場合、
相手の存在自体を否定する意識から生まれます

さらにエスカレートして、
お互いで存在を否定し合うようになると、
ケンカや誹謗中傷、戦争など争いに発展します


存在を否定する意識下にあると、
人は存在を無意識下で排除しようとします


だから、意見が違うというだけで、
意見を否定してるつもりで
(無自覚で)存在をも排除しようとしてしまいます

相手の存在自体を否定する意識にある人は
必ず自分の存在自体も否定しています

自分の存在を否定してる人は、
実体を傷つけることは無くても
相手を消そうという意識が働きます。

それは大変殺傷力があります

それは、心を突きます

だから、心は傷つきます


どんな言葉であれ、
非言語であれ、
意識で攻撃してるのでそれは伝わっています

みんな我慢強いけど、それは痛いです

とくに子供は敏感だから、意識での攻撃をすぐ理解します

だから容易に傷ついてしまいます

傷つきすぎれば自己防衛のために相手を否定し始めます


一方、自分の存在を否定してない人の言葉には殺傷力がありません

いくら嫌いとか、キモいとか私は反対だと、言われても痛くありません
ただの意見の違いとして受け取ることができます
全く傷つきません
それは、相手の存在を消そうとしてないからです
(20代以降の若者たちはこれが自然と出来ている人が多いと感じます。自分の存在も他人の存在もちゃんと認め合うことができている。だから意識の刃がない人が多いように感じる)

正しさの押し付けの意識から抜け出すには

自分の存在の否定をやめること、と
自分の存在は誰からも何からも否定されない存在だとを理解することが重要です

そもそも
存在を否定することは誰にも何にも神様にもできないことだと思います

存在を否定する権利はこの全宇宙どこを探してもなくて

『存在』はどうこうできるものじゃない

自分の存在がない人なんて、この世に存在してない

私はもうすでにここに在る。んです
『存在』は無いってことがありえないです

魂が生まれた時点で誰もが『ある』

みんな等しく『在る』んです

だからそれをどーこーできない
どーにもならない

それは全生命の基本スペックです

多くの人が存在は確証されてることをみんな忘れてる

存在の否定は、はなっからない世界です

だからこそ、意見は否定していい

違うと言っていい
違いがあっていい
違いを表現していい

全生命には自分がこれだという意見(考え)を表現する権利があり、

そして、それは同じ意見(考え)ではない他者も等しく同じです


誰もが表現の自由が等しくある


意見(考え)と存在を区別して意識できると誰も傷つけることなく表現ができるようになります


もう、自分も他人も消そうとしなくていい。誰も何もそんなことできないんだから。

それは、絶対的な安心だと思う

自分の存在を確立できてる人は誰も傷つけることはありません。

気づいた人から、やめていけばいいよね


そしたら今よりもっと優しくて、自由な世界で生きていけると思う

誰も傷つけることのない世界を実現できると思ってます


さて、ここで言葉で伝えるのには限界があるかもだけど『存在』って何かもう少し詳しく書いてみます

ここで私が言う『存在』とは何を示してるかというと『私という意識』のことです

私という意識には『顕在意識で認識する私』と『魂(spirit)の私』(何回も輪廻転生しても生きてる私の意識)があります


多くの人がこの2つが一致しません

だから、自分(私)の存在が無い世界(私の存在を否定する世界)を生きていた

spiritが思う私はすでに存在は確証されたものだとわかっています

一方、顕在意識の私は『存在はいつ消されるかわからないものだし、わからないし無いかもしれない不確かなもの』と思っています。
だから死んだら終わりだと思ったりします。
確証されてることを忘れています。

私という存在の不確かさからくる不安、虚無感、空虚感はここらか生まれてきています


そういったあらゆる不安や不安定さからエスケープするには

『私は今後一切、自分の存在も他人の存在も否定しない。そして、私の存在を否定することは誰も何も絶対にできない。』と

自分の存在を自分の中で確かに、明らかに決めることがとても効力があると感じています

きっとあらゆる心のしこりが溶ける手助けになります

私たちは人を傷つける刃も持っているけど、自分を守るための盾もちゃんと持っています

刃を持っている自覚と
盾を持ってる自覚
自分の世界を自由にのびのび生きるためには両方の自覚が必要です

過去の自分も含め多くの人がこの自覚を忘れていると感じました

どちらも使わないのが望ましいけど、刃を向けられたら盾で守ればいいし、

万が一刃を向けてしまってもみんな盾をもってるから使うことを許可したらちゃんと使えます

だから、安心して自由にのびのび自分の世界を創造していきましょ〜

では、今日も地球の謎がまた一つ解けたので、このへんで〜

読んでくれてありがとう〜

ではっ!

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