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私の落選作品 その3(第30回 三田文學新人賞 応募作品)4

4.
 たしかに梶井は上京し東大生としての生活を始めてから変わった。そしてもう一人、梶井と同時期の1924(大正13)年4月に大学に入るために上京してきた青年がいる。文芸評論家の山本健吉である。山本健吉は1907(明治40)年の生まれだが、この年、長崎中学四年から慶應義塾大学文科の予科に入学するため上京してきた。すでに長兄の元吉が慶應法科にいたので、三田四国町の同じ下宿に入り東京での生活を始めた。山本は戦前の1943(昭和18)年に『批評』で梶井基次郎をとりあげたが、現在は著書『私小説作家論』の中の一章として読むことができる。
 そこで山本は、『檸檬』について「この作品は、彼の倦怠や憂鬱がわずかに一顆の檸檬によって晴らされたことを書いたという以上に、一顆の檸檬の中に彼の豊かな内的経験のすべてを圧縮した、いわば一瞬の裡に檸檬を彼自身の象徴と化しおえたという底の心情の飛躍を見出すのである」と述べる。そして梶井の作品の類い稀な完璧さについて、「あたかもあの一顆の檸檬のように、紛れようのない鮮やかな色彩と確かな造型とをもって存在している」と賛嘆する。そしてこの論考の結びとして以下のように総括する。
 「詩人の中原中也、小説家の梶井基次郎、批評家の小林秀雄――この三人によって我々の文学が代表された一時期があった。それは極めて短い文字通りの一時期であるが、その残した印象は極めて鮮かであるし、その成し遂げた文学上の革命ははっきり我々世代の者の胸に刻印されてもいる」。
 中原中也は山本健吉と同じ1907(明治40)年生まれだが、梶井と小林は若干年長である。それでも山本は、ここで「我々世代の者」と一括りにしている。山本健吉から見ると、小林秀雄は尊敬する先輩批評家だったので、小林に対しては常に一歩下がって兄事していた。そこには一つ山本自身の負い目が介在していたようだ。それは彼が大学生時代にマルキシズムの影響を受けて左翼運動に熱中し、やがて運動が下火になってから転向したという思想遍歴である。そのことは彼にとっては、ずっとブレなかった小林に相対するときには負い目と感じたことだろう。
 当時マルキシズムの教条主義は、科学に裏打ちされて導かれたものとして、思想という範疇を超え宗教にも近い力を持って、青年たちの一部にも浸透していた。文学の世界でも、マルクス主義文学とかプロレタリア文学論が一大勢力を成し、梶井もまた関心を示したのだが、小林同様そちらの論陣に巻き込まれることはなかった。

 ここではこの頃の文学界の状況の一例として、1929(昭和4)年に『改造』で発表された懸賞文芸評論の当選作品について述べておく。8月号で選考結果が発表されたが、締切までに約三百余篇の応募があったこと、あらゆる範囲に亘って文芸の諸問題が論議されていたが、中でもプロレタリア文学論、形式文学論、科学的文学論が多数を占めたことが述べられ、詮衡の結果、一等の当選は宮本顕治の『「敗北」の文学』に、二等の当選は小林秀雄の『様々なる意匠』に決定した旨報じられ、一等当選作の全文も掲載されている。
 宮本顕治については、私は幼少の頃たびたびテレビで日本共産党のボスとして見かけた。この当選作には「芥川龍之介の文学について」という副題があり、内容は1927年に自殺した芥川と彼の作品に対するプロレタリア文学論側からの徹底批判である。宮本顕治は、山本健吉よりもさらに一歳若い1908(明治41)年の生まれで、受賞当時はまだ東京帝国大学の学生だった。そして1931(昭和6)年3月に、宮本は東京帝国大学経済学部を卒業し、同じ時期に山本は慶應義塾大学文学部国文科を卒業している。二等の小林の作品は、「世の騒然たる文芸批評家等が(中略)何故にあらゆる意匠を凝らして登場しなければならぬかを、少々不審に思う許り」という観点から、文学上の様々な類型や批評に関する種々の理論を並列的に論じ、結語として、「私は、今日日本文壇の様々な意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用しすぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」と表明し擱筆している。一方、一等に当選した宮本顕治の作品『「敗北」の文学――芥川龍之介の文学について――』は、まさに死者に鞭を打ちつけるもので、徹底した確信的な芥川批判であった。この文芸評論は以下の文章で結ばれている。「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくする為に、氏の文学の「敗北」的行程を究明して来たのではなかったか。「敗北」の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。また別の箇所では、芥川を「一時代の一階級の道徳律を越えることの出来なかったモラリスト」と断じ、「氏は結局爆弾を手にした実践的な嘲笑者とは遥かに遠いものであった」と指弾している。すなわち宮本はここで、「爆弾を手にした実践的な嘲笑者」こそが称賛に値し時代の要請に応え得る者だとの考えを表白している。この宮本の評論は、小林が『様々なる意匠』の中でとり上げた種々の類型の中のプロレタリア文学論という一類型の側から、芥川龍之介の文学を批判的に論じたものである。おそらく小林としては、当時の文学界において伸長著しい勢力を誇っていたマルクス主義文学を、あまりに信用しすぎるなという思いで、『様々な意匠』を書き上げて応募したのだろう。ところが結果は、そのプロレタリア文学論で押し通した宮本顕治の評論の後塵を拝することになった。小林秀雄の心中や如何にと察せられるところである。
 私は幼少時に、宮本顕治というあまりものごとをはっきりと分かりやすく国民に向かって語りかけることをしない老政治家が、何故一つの政党のトップとして長い歳月にわたり君臨しつづけているのかがよく分からなかった。そして今回の論考を書くにあたって、この1929(昭和4)年の『改造』に発表された両者の評論を読み比べてみて、次のように思い得心したのである。あるいは曲解かもしれないが、それは、宮本顕治という存在は、小林秀雄的なもの、すなわち日本の伝統を尊び固有の歴史に根差した生活の中から物事を考える人たちに対する抑止力として、ずっとトップに据え置かれてきたのではないか。おそらくそれが、宮本顕治の役割だったのだろう。なぜなら、この1929(昭和4)年の時点で小林は宮本に負けているのだから。審査員たちは宮本の方をより優秀と認めたのだから。そこで私はさらに後年の小林秀雄の精力的な文筆活動とその成果を思い巡らした時に、なにか甲子園の高校野球で死闘を繰り広げながらも、惜しくも決勝戦で敗れて準優勝に甘んじた選手の方が、かえってその後の野球人生で奮闘活躍しているというままある事態と相似形のように思われてくるのだった。話が横道に逸れたが、宮本顕治の当選作にあるように、マルクス主義の考え方では爆弾を手にすることに対する忌避の観念は薄い。それはマルクス主義では暴力革命が是認されているからで、レーニンが1917年に著した『国家と革命』では、プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能と述べられている。
 こうした思想がすでに日本にも移入され、それを信奉する人たちが一大勢力をなしている社会、それが梶井基次郎の『檸檬』が書かれた当時の社会であるという観点も考慮に入れたうえで、『檸檬』という作品の終局のレモンを爆弾に見立てる場面の発想についても評するべきだと思うのである。

5.(続く)

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