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私の落選作品 その3(第30回 三田文學新人賞 応募作品)5

5.
 小説『檸檬』のクライマックスは、丸善の店内で画集を積み上げてその上にレモンを据え置き、それを爆弾を仕掛けた心持ちでそのままにして、店から遁走するという終結部にある。この一連の経緯については、読み手の感情移入により多様な解釈ができるところだろう。これまでの研究者や批評家による論考を読んでも、実に多岐にわたる指摘がなされている。私としては先ほど触れたように、「爆弾」というものの破壊力に過度な重点を置いた解釈は、かえって梶井の本意から逸れてしまうのではないかと危惧するのだ。なぜなら梶井はここでテロリストを称揚したり、またテロリズムを擁護することを目的として書いたわけではないのだから。
 ここに至るまでの物語の展開を冒頭から簡単に振り返っておこう。ここでは1969(昭和44)年6月の『國文學 解釈と教材の研究』より竹西寛子の論考の冒頭にある【梗概】を引用させていただく。

 その頃、学生の私は京都の街をよく浮浪した。私は病弱であり、まるでお金がなかった。しかし厄介なのは、それよりも、始終私を苛立たせ追い立てるようなえたいの知れない不吉な塊であった。ある朝、私は例によって街を彷徨っているうちに、思わず寺町の果物屋の前に立ち止まっていた。その店には珍しく檸檬が出ている。私は檸檬の色が好きだ。それからあの形も。私は一つだけ買うと、それを手にして長い間街を歩いた。
 不思議なことに、檸檬を手にした瞬間からあの不吉な塊が少しずつとけだしたように思われた。私はいく度もその匂いを嗅いだ。何となく元気が出てくるような気がした。つまりはこの重さなんだな。私は幸福だった。それから丸善に入って行った。棚から抜き出した書物を手当たり次第に積み上げると、その頂きに檸檬を据えた。檸檬は雑然とした書物の色を吸収して冴えかえっている。私は何くわぬ顔で外へ出る。あの檸檬が爆弾で、十分後に丸善が爆発するのだったらどんなに面白いだろう。私は軽い足どりで京極を下りて行く。

 以上だが、途中の果物屋で買ったレモンを手にした私が、丸善の中へ入ってやったこと、それが問題である。
 前述のとおり、梶井は大正教養主義の恩恵に浴した京都での三高時代に、美術展にもたびたび訪れた。彼の残した記録によると、たとえば1922(大正11)年には、大阪の大丸の展覧会でルノアールやマチス、ロダンなどの作品を見ているし、翌1923(大正12)年には友人と一緒に三越で大阪毎日新聞社主催のドイツ版画展を見て、デューラーやクラーナハなどの作品を鑑賞している。こういった西洋美術に関する知見は、学校の授業による以外にも、『白樺』などの書籍の影響も大きいだろう。『白樺』には1923(大正12)年の終刊まで、小説や評論などの文章のほかに、西洋美術の作品の図版も毎号掲載されていた。表紙画を担当した岸田劉生はセザンヌやゴッホなどから大いに学んでいるが、梶井も『檸檬』に結実するまでの草稿の段階で用いていたペンネームは「瀬山極」というポール・セザンヌをもじったもので、それくらいセザンヌに傾倒していた。
 私はこの小説『檸檬』の中で、主人公が画集を「積みあげ」、「また慌しく潰し」、「また慌しく築きあげ」たり、「新しく引き抜いてつけ加えたり」、「取去ったり」しながら、「その度に赤くなったり青くなったり」する「奇怪な幻想的な城」の制作過程は、現代美術の言葉でいえばインスタレーションの制作行為を記述しているものにほかならないと理解する。この制作において主人公の「私」が最も留意していることは、「本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら」とあるように、「色彩」である。なぜなら、現在店頭に並んでいる画集の表紙であっても、黄色をベースにしたものは滅多に見かけない。文中に「アングルの橙色の重い本」とあるように、大方は橙から茶そして赤までか、緑から青か紫までだろう。黄色は『ひまわり』のイメージが強いゴッホに用いるくらいだろうか。だから私が主張したいのは、この主人公のインスタレーション制作において、最後に一番上に据えるレモンは、下に積み上げた画集群と対立し打ち壊す威力を誇示する物として掲げられたものではなく、むしろそれらも補完しまとめ上げ、全体を完成するために載せたということだ。そのことは、「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」という一文からも理解される。すなわち最初から、最後にてっぺんにレモンを載せるつもりで、全体の色彩の調子を見ながら、引き抜いたりつけ加えたりし、そのたびに赤が強まったり青が強まったりするのを、どうだろうかと判断していったということである。そういう意味で、最後に据えたレモンは、異物としての蛇足ではなく、まさにそれをもって完成する点睛であったろう。そしてこれは紛れもなく美しい作品であると主人公は魅入った。断然センセーショナルな新作であり、これまでの美術にない破壊力がある作品だと、主人公の「私」は思ったのではないか。

 もともと黄色という色は、金色にもっとも近い色であり、東洋においては古くから最高の色とされた。中国の『易』には「天地それは玄黄の雑(まじわり)なり」とあり、黄色は天地の根源の色とされている。一方、西洋のキリスト教による社会では、最後の晩餐の日にイスカリオテのユダが黄色の衣服を着用していたという伝承から、黄色は最も忌避された色とされる。とはいえ、東洋の陰陽五行説では黄色は最も尊い天子の色とされており、それが梶井の深層意識にも影響を及ぼしている面もあるだろう。加えて、最後に据え置くレモンの紡錘形は、形の面から見ても、仏塔の相輪の最上部に取り付けられたり、仏堂の頂上に置かれる如意宝珠のイメージと重なるようにも思う。それを点睛として、まったく新たな造形芸術を完成させたところに、この梶井によるインスタレーションの創意があり、自らもその完成度に見惚れてしまったのだと私は解する。
 この点に関し、2016(平成28)年6月発行の『國語と國文学』(東京大学国語国文学会)所収の大塚常樹氏による『梶井基次郎・「檸檬」の言語戦略』で、氏は以下のように述べている。
 「しかしながら、檸檬が城攻めのコードにおいて勝利の占領旗として城壁に乗り、最後に爆破に至る対象は、重い画本の城であり、その提喩(代表)として新古典主義のアングルが挙げられていることは重要だろう。ここでアングルを爆破することの美学的な意味は何か、という重要な意味が生じてくるだろう。」
 以上の指摘は、文学理論としてのテクスト論からすれば、あるいはそう読めるのかもしれない。しかし私は、アングルについて梶井が言及しているのは、「日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本まで尚一層の堪え難さのために置いてしまった。」という一文のみであり、前述したように第一は本の色である橙色に重きがあり、その上でアングルの本が日頃から大好きだったと告白しており、ここでは「アングルを爆破すること、あるいはアングルに代表される新古典主義を爆破する」というのは、梶井の真意ではないように思うのだ。そしてなぜ梶井が日頃からアングルの画集を大好きだったのかについては、アングルのよく知られている代表作は、『泉』や『グランド・オダリスク』などの写実的な裸婦像だったので、健全な青年であればそれを好むのは穏当と思われる。
 ここでは大塚氏の論考を例として挙げたが、ほかの論文を読んでも、観点においてはほぼ同様で、画集を積み上げた上に、それらに拮抗し対決する物体としてのレモンを据えて、西洋美術の価値を否定するために爆破しようとしているとの読みが多かった。繰り返すが、私はそれは梶井の真意ではなく、彼はてっぺんにレモンを載せることで、トータルに新しい作品として完成させることができたと発見し興奮したのだと読んだ。
 すなわち、異なる物を組み合わせることで、新たな作品を生み出すことができたと視認し、本来異質であった双方の物に気脈が通じて、一体感を湛えつつそこに厳然とあることを発見したということだ。

 この当時の油絵においても、レモンがモチーフに登場することは皆無ではない。よく知られている作家としては恩地孝四郎や小出楢重などの作品に見られるが、特に小出の代表作とも言える『Nの家族』においては、ホルバインの画集の上にレモンが置かれている。しかしそれはティーポットと一緒であり、果物鉢の上にもリンゴなどの果物と一緒にレモンも盛られている。ただし、この作品では、主たるモチーフは小出自身と彼の家族であり、レモンはあくまでも脇役である。その点、私はこの小説におけるインスタレーションの発想にもっとも影響を及ぼしたのは、岸田劉生であり、特に彼の作品『壺の上に林檎が載つて在る』ではないかと推察する。
 岸田劉生は1891(明治24)年生まれで梶井より十歳年長であり、前述したように『白樺』でも活躍しており、岸田の絵画と文章に梶井が強く惹かれていたのは事実である。岸田は美の深さについて再三言及し、存在の神秘を描き出すべく写実を追求した。彼の著作で梶井も読んだ記録がある『劉生畫集及芸術観』には、「僕の行方」として以下で始まる一文が掲げられている。
「僕の行き方は、どちらかと云へば、物質の如実観を出来る丈犠牲にしない方の行き方だ。物質の形象に即した美を追求する道だ。或はこの点では凡そ東西両洋の今迄の誰れよりもより写実であるかとも思ふ。自分の事を云ふ様だけれど、僕としては写実の道を僕に来て或る所まで完全に純粋に独立さしたいといふ自覚もある。かういふのは少し気が引けるが、僕の執った道は、これ迄のどの道よりも物質に即した美といふものが他と独立してゐるといふ自覚はある。」
 岸田劉生の作品『壺の上に林檎が載つて在る』は、1916(大正5)年の草土社第三回美術展覧会の出品作で、友人の陶芸家のバーナード・リーチが制作した壺をやや俯瞰し縦長の壺に載せられたリンゴに光が当たっているさまを画面中心に大きく描いている。そこに岸田がいう「完全に純粋に独立」した美しさが表現されている。岸田はリンゴの「実在の神秘」を描き出そうと試みた作品と述べているが、このリアリズムとその背後から立ち現われる神秘性は、梶井の作品にも通底するものであり、おそらく気質の面でも通い合うところがあったのではないか。梶井は自己の作品の方向性を「リアリスチック・シンボリズム」と語ったが、この岸田劉生の作品を鑑賞していると、あるいは『檸檬』の発想の遠因として、この作品を見た記憶からの影響もあったのかもしれないと思い至るのである。

 さて、小説『檸檬』では「第二のアイディア」として、「それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る」ことが思い浮かび、ちょっと逡巡したが決行したことになっている。「本当にそうしたのだろうか」と思うのは私だけではないだろう。
 『檸檬』の前の段階の中篇小説とすることを試みていた草稿では、この『檸檬』の物語のあとに続く文章で、次のように心情が吐露されている。
「――俺が書いた狂人芝居を俺が演じてゐるのだ。然し正直なところあれ程馬鹿気た気持に全然なるには俺はまだ正気過ぎるのだ。」
 この一文からも梶井は思いとどまったと思われるが、さらに友人の中谷孝雄の回想によると、あるとき中谷の下宿に梶井が訪ねてきてレモンをひとつ袂から取り出し、「食うたらあかんで」と机の上に置いていったことがあるとのことである。おそらくこのレモンこそが、梶井が思いとどまって持ち帰ったそれであったのではないか。やはり梶井は基本的に反省心のある良識の人なのだ。

 私はここで立ち止まる。そしてこういった発想を実際に実行した人のことを思った。それはマルセル・デュシャン。彼は1917年にニューヨークのアンデパンダン展に『泉』と題した小便器を出品したのだが、後の回想で「挑発的な試みだったので、あの時私は有頂天になっていた」と語っている。レディメイドのこの作品は現代美術の出発点とも言われよく知られているのだが、常にスキャンダルを求めているデュシャンとは、人間的にも梶井は全く異なるように思う。
 たとえば『デュシャンは語る』という本の中で、インタビュアーの「神を信じていらっしゃいますか」という問いに対して、デュシャンは次のように答えている。「いいえ、まったく。そんなことを言わないでください!私にとっては、問題はありません。それは、人間の発明です。(中略)神という観念を想像したのは、気違いじみた愚行です。私は、無神論者ではないとか信仰者ではないとかすら言いたくない。それについて話したくもないのです。」このデュシャンの発言からも、梶井とは真逆の人物であると理解できる。
 梶井が『檸檬』を書いた当時は、すでに同時代の西洋美術の潮流であるダダやシュールレアリスムも紹介されていた。しかし、おそらく彼はマルセル・デュシャンまでは知らなかっただろう。洋の東西を隔ててはいるが、同時代における斬新な発想という観点から、時代を先取りしている例として記した。

6.(続く)



 

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