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私の落選作品 その4(2000年 新潮新人賞 応募作品『那智の瀧』)1

   那智の瀧
                             井出 真一路

 七月。梅雨曇りの薄墨色の空から、時折こらえきれぬように雨がしたたり落ちる初旬のとある日、私は一人 南紀熊野の那智の瀧へと赴いた。那智山周辺の観光の拠点となる紀伊勝浦は、名古屋から南へ特急に乗り継いでなお三時間あまりかかる遠隔の地である。国内各地に存する瀑布の中でも、那智の瀧は随一の景勝であるとの呼び声が高い。私は遠くナイアガラの滝を実見して以来、このわが国を代表すると巷間に言われる瀧にも、いずれ訪れるべく思いを募らせてきていた。ようやく、その宿願を果たす時機を得たのである。
 第一日目は、紀伊勝浦に到着後そのまま旅館に宿し、明くる日バスで那智山へと向かった。

 路線バスは瀧の付近にも停留所を設けてはいるが、しばし熊野古道を味わおうと、私は途中の大門坂という停留所で下車した。左手の隘路を行くと、数軒ある民家の先に、樹齢八百年を超えるという堂々とした杉の大木が二本姿を現した。夫婦杉と呼び習わされているこの杉は、道を挟んで並び立ち、遠く中世より此の方 那智を訪れる行人を労うように出迎えている。曇天の空からは雨こそ落ちて来なかったが、杉林の古道に足を踏み入れると、盛夏を控えているとは思えぬ森閑とした大気が辺りを領していた。昨日までの雨が苔むした石の緑を一層鮮明にし、林を渡る風がもたらす葉騒と相俟って、時を隔ててこの道を歩んだ古の人たちの足跡に思いが馳せられた。
 遠く平安朝の院政期に熊野御幸が盛んになり、歴代の上皇方は京よりはるばる山を越え、この那智を含めた熊野地方に足を運ばれたのである。記録によれば、白河上皇九回、鳥羽上皇二十一回、後白河上皇三十四回、後鳥羽上皇二十八回とある。いったい熊野の地の何が、これほどまで上皇方を引き寄せたのだろうか。そう考えながらさらに歩みを進めてゆくうちに、幽冥の彼方から一つの思念が湧き起こり、やがて自明なこととして領得されるに至った。それは、いま私が歩を選びながら一段一段上っているこの道を、上皇の御一行のみならず、鎌倉そして室町時代以降現代に至る数知れぬ人々が、それぞれの思いを内に秘めて上って行ったのだということである。現在のような石段の道は、おそらく上皇方の御世には未整備であったろう。が、道としてこの坂を上られたことは間違いない。その後も、熊野とゆかりの深い一遍上人を慕う人たち、あるいは那智の瀧で修した役行者をはじめとする修験道の人々、さらには観音信仰の無数の巡礼者など、上下貴賤を問わず、時代を超えて歩き継がれてきた道なのである。今日では大方の観光者は、バスなどで瀧近くへと直行してしまうためか、この古道は人影も少なく、昔日を偲ぶに十分な閑寂が保たれていた。杉、竹、そして楠などの喬木と、その間隙を埋めてゆったりと葉を広げる低木、それに歯朶などの植物が、悠揚たる石段の道を取り囲むように生い茂っている。それらの重畳する垣のごとき樹木により視界が遮られ、この俗界との懸隔が歴史に思いを馳せることを容易にした。

 延喜7(907)年、宇多上皇の御幸により、その後の上皇方による熊野詣の歴史は始まった。宇多上皇は天皇として御在位中、菅原道真の建議を入れて遣唐使を廃止し、また勅撰和歌集として古今和歌集を撰せられた。しだいに時代の流れは、文化の移入よりもその国風化へと傾斜してゆくのである。その中にあって熊野は、記紀に登場する地として見直されてゆく。その後、花山上皇の御幸を経て、白河上皇から度重なる熊野詣が開始される。あたかも年中行事のように、上皇方は足繁く熊野の地へと通われるのである。現代のような至便な交通手段も存在しない時代に、大勢の従者を連れて、京より何十日もかけ山また山の難路を辿る。わずかこの大門坂の小区間のみを歩く私が、険阻な遠路を踏み越えた末に詣でた人々の感慨を推し量ることは、はなはだ僭越であると思われた。が、確かにこの道には時間の経過を忘却させる何かがあった。時が止まっているようだった。それこそ私の前方を、笠を被り白い装束に身を包んだ大宮人が歩んでいても、なんら違和感を覚えないであろうと思われた。それは何故かいまだ暗然としていたが、この旅を通じてしだいに明瞭になるのではないかと思われた。

 急勾配の石段を上りつめると視界が開け、ドライブインらしき建物のある広場に着いた。そこはもう日常が支配している場である。私は近くで昼食を済ませたのち、さらに熊野那智大社へと向かう参道の石段を上って行った。かなり高いところまで来たとみえて、緑濃い山の連なりが彼方まで及んでいる。と、はるか右手数百メートルもあろうという先に、瀧口から大量の水を吐き落としている瀧の姿が視界に現れた。この眺望をもってしても、那智の瀧を「見た」ということになると思われるほど、中空に懸かる瀧は遠目にも豪壮な気韻を漂わせていた。しかしこの度の旅は、一にかかって那智の瀧を「体験したい」ということにある。私は逸る気持ちを抑えつつ、瀧へ赴くに先んじて、今晩泊めていただく宿坊に旅の荷を預けるべく、まず青岸渡寺と熊野那智大社に詣でることにした。
 熊野那智大社は、本宮・新宮と並ぶ熊野三山の一社である。石段を上りきり鳥居をくぐると、荘重な拝殿と熊野権現造りの社殿の立ち並ぶ境内に着いた。玉砂利が清澄に敷き詰められている。ここはそもそも神武天皇以来の記紀の伝承に沿革の源を置くが、仏教伝来とともに神仏習合の権現信仰の霊場となった。それ以来、神も仏も分け隔てなく祀られてきたのである。その後、明治政府による神仏分離令とそれに続く廃仏毀釈で、塔頭が廃棄され、神社として改まり今日に至っている。ところが、西国巡礼の観音信仰が衰えを見せないことから、隣接地に新たに神社と別に青岸渡寺という寺が再興されることになる。歴史的には、江戸時代以前は両者は一体だったのである。
 参拝を済ませ、青岸渡寺にも参り、その足で少し離れたところに建つ宿坊尊勝院へ向かった。入口の風情のある門をくぐり、手入れのゆき届いた植込みの間の路地を通ると、薄暗い玄関に辿り着いた。重い玻璃戸を引いて中に入り、厨の用をしていた女性に声をかけ荷を託した。西国三十三所の巡礼を発願する人はここを訪ねるのだ、という感懐が脳裏をよぎった。
 荷を預けて身軽になり、観光バスなどが通る舗装道路の坂を下ってゆく。土産物店や喫茶店が立ち並ぶ界隈は、山間の行楽地ならばどこにでも見受けられる光景である。およそ十分ほど下った先に、原生林の杉木立の中に飛瀧神社の厳かな鳥居が姿を現した。折からの曇り空で、あたりの縹渺とした趣きはより一層深まり、杳としてなにがしか玄妙なるものとの対面を予期させた。

2.(続く)

 

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