2024年8月28日 ご精算

「人生を売ろうと思うんだよね」
まだビールを半分残した彼は酔っ払ってしまっているわけでもなさそうだった。僕は、それが一体何の比喩なのか、彼に尋ねてみてもいいかもしれないと思った。
夏も終盤に差し掛かる。まだ上野の街は熱気を帯びているが、午後6時すぎ、路上に突き出した四人がけのテーブルに腰掛けていると、時折涼しい風が吹いてくる。
彼はいつも冗談めかして本当のことを言ったり、真剣な顔で冗談を言ったりする。だから、性根がまっすぐ育ったやつとは長続きしない。大学を3留している先輩だったり、マッチングアプリで知り合った古着屋の女だったり、躁鬱病のバンドマンだったり、少なくとも僕が知る限り、彼にはそういった友人ばかりだ。ただインスタントに、興味のあるゴシップや会話のテンポが一致しさえすれば、彼は誰とでも友達になれたし、誰とでも縁を切ってきた。つまるところ、普段から彼の話は本気にするだけ時間の無駄で、僕はサークルのあいつがあいつと浮気したとか、次の都知事選の候補は全員ゴミだとかそんなSNSの噂頼みの碌でもないゴシップで日々の鬱憤を晴らしたいのだった。
まぁしかし、彼のビールはまだ半分残っていた。お通しの塩キャベツはまだプラスチックの容器にこんもりと盛られている。僕は、そのプラスチックの皿にこびりついた黄色くて干からびた何かしらの食材を爪で剥がしつつ、はぁ、とか、ふん、とか、形だけの相槌を返した。
「どこから話そうかな、うん。やっぱりおれには社会が向いていないと思ってさ」
そうかい、と僕は返した。彼は彼の話をするとき、いつも要領を得ず、余計な話に脱線しがちで、最後にはこれで終わり?と言いたくなってしまうほどつまらない。おそらく、それでも僕が彼と友人であるのは、彼が相槌を打つのがうまかったり、話の邪魔にならない一行程度の冗談を差し込めたり、それは聞き上手というほど僕の話を聞いている風には見えなくても、徹底的に受け身が上手だからだと思う。つまるところ、彼が語る彼の長い話はとっとと話してもらったほうが今後の酒をうまく飲むためなのだ。
「この前、銀座の、山野楽器の向かい側のあたりをフラフラと歩いていたら、そう、それはもう再開発に取り残されたかのような、古びた木造の、店とも言えないな、うん、民家のような」
お前が銀座を歩くことがあるのか、という言葉が喉まででかかった。しかし、そのようなことよりも、本気のような冗談で大人数の飲み会をしらけさせてきた彼にしては珍しくファンシーな作り話に思えたことが違和感だった。はて、そんな民家、あるのだろうか。それこそ何か土地の権利の問題で、全くないわけでも無かろうが。
「まぁ、東京のど真ん中には往々にして、そう言った取り残された民家ってのはあるわけだわ。しかしまぁ、こんなところにあったのかな、と。ほら、半年前から銀座で働き始めたからさ、俺。」
「あれ、そうなんだ。なんの仕事?」
「まぁ、それは良いじゃない。それでね、1ヶ月近くも通勤していたらまぁ何となく街も見知ってくるかなと思うけど、ある日急にね、飛び込んできたのよ、その店?がさ」
「視界に?」
「そう」
そんな経験もないとは言い切れない。住み慣れた街の駅前雑居ビルの3階が英会話教室のNOVAだったり、ちょっとした小道を覗き込むとSAPIXの第三校舎が窮屈そうに佇んでいた経験は僕にだってある。しかしあの銀座に古ぼけた木造一軒家?老舗の鰻屋か?
「そういう経験は僕にもあるけれど、君がそれを半年も見落としていたのが不思議なわけだな。」
「そうそう、そういうこと。なんか飲むかい?」
飲み終わる前に頼むスタイル。まだ夜は始まってもいない。

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