2024年9月3日 傾聴傾聴
カウンセリング、を受けたことがあるだろうか。
僕はこれまでそれなりに明るく、前向きで、なんでもそつなく、ときに泥臭く、適度に他人を気にせず、他人と関わりながらやってきた。最近そのバランスが崩れ、大学の新しくできた建物の隅にある学生相談室に通うようになった。
カウンセリングに通う前まで、カウンセリングは正解を指し示すことだと思っていた。カウンセラーは僕に、正しい心理状況、正しい行動、正しいエトセトラを提示して、掛け違えたボタンを外してくれるような存在だと思っていた。だから、僕にカウンセリングは必要ないと思っていた。バランスを崩す前までそう思っていたし、崩してからもしばらくはそう思っていた。
しかし、実際にカウンセリングを受診することになると、カウンセラーの先生の対応は、僕が思っていたものとは全く違っていた。先生は、正しさを示さない。ひたすら黙って僕の話を聞いている。たまにメモをとりながら、頷きながら、時折意味をなさないチグハグな僕の話を聞いている。僕が話し終えても先生は黙ってこちらを見つめている。たまにメモを見る。そうして先生と二人で黙っていると、僕はまだ、話したかったことがあった気になるので話しだす。たまに先生が僕の言葉を補ってくれる。
そうして、30分、40分、話してすっかり喉が乾いた頃に自然と僕は僕のやるべきことに気づくのである。その気づきを先生は肯定してくれる。問題は解決しないが、それは僕自身が解決できる問題なのだ、と思わせてくれるのだ。
カウンセリングとは、ただ僕が僕の問題を整理し、僕が僕の次にすべきことを決断する場なのだ、と思った。カウンセラーの先生はそれらの言語化に対して必要最低限の手伝いをしてくれる。ほとんどの場合それは正しさを外側から与えるものではない。先生は、僕の中にある正しさを掬い上げてくれるのだ。
帰り道、普段の僕はカウンセラーの先生のように他人の話を聞けていたか、と振り返る。これまで僕は、僕の思う正しさを相手に提示することが相談に乗るということだと思っていたし、そのために相手の言いたい事を遮ってしまうこともあったかもしれない。普段の会話でも、僕が誰かと会話するときには、僕が何かを相手に与える必要がある、と考えていた。しかし、恋人、友人、先輩、後輩、今思うと彼らのうち何人かを理解しきれなかったのは、こういった僕の聞く態度が、彼らからのコミュニケーションを阻害してしまっていたからなのかもしれない。大抵の場合のコミュニケーションは、僕と相手がそこにいるから生じるのであって、相手と誰か別の人がいればその間で僕と相手の間で行われるはずの会話と同じ話題が生じるだろう。僕はまだ、僕にしか解決できない重大な問題を相談されるような機会は滅多にない。僕に話しかけてくれる相手にとって、僕に話題を持ちかけるということは、ほとんどの場合において、僕がそこにいる、という以上の理由がないのだ。僕はそういった種類の話題に対して僕なりの正しさを積極的に提示する必要はなかったのだ。もちろん、話題にもよるし、その割にこの文章は具体性に欠けるが、つまるところ僕は相手の話を相手の立場になって聞く、ということができていなかった、と感じたということだ。
本当に言いたいことは、本当に言いづらいことの場合がある。誰だってそうであるはずなのに、普段そんなことを気にかけられていなかった自分を恥じている。相手の伝えたいことを待てるようになろう。相手の正しさをもっと尊重できるようになろう、と思った。
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