人の死とかについて

私の身近な人の葬儀や死などの文章です。苦手な方はご注意ください。








一親等にあたる人が一人亡くなり、部屋にはその体がある。今は葬儀までの防腐処理のため留守にしていて、明日帰って来る。都会の葬儀場はいつだって混み合っている。

詳細は省くけれども、生前の望みをなるだけ叶えてあげたいという気持ちがあったから、傍から見れば我が家は一見異質な行動をしている自覚がある。
私は個人の心を置き去りにする世間体など気にしたくなかったから、それにはある程度満足している。

亡くなった日から、あまり正気ではない気がする。特に目的もなく甘いものや飲み物を食べていて、特に達成感や喜びもなく、悲しみもない。
とはいえこれまでの人生で正気だった時間がどれだけあるかと考えると、まだましな気がする。人間関係の悩みや先の不安でアルコールをがぶ飲みするよりは、まあ。甘いものは即座に毒ではないし。

ところで私は、からだに生前のように声をかけるのに躊躇いがない。普通に日常会話をし、好きなテレビをまわす。たまに懐かしさで一瞬泣く。でも亡くなっている事実で泣いてはいない気がしている。
亡くなっているのが受け入れられないわけではない、と思うのだけど、「いや、今あなたは悲しみを抑圧している。本当は悲しいはず。いつか受け入れられるようになるとよいですね。」と言われればそうですねと答えるしかない。

魂も幽霊も仏教も神道もキリスト教もイスラム教もよくわからないけど、あのひとが近くにいることは想定できている。

生前聞けなかった細かいことを決めなければいけないから、葬儀は難しい。
花言葉とかエピソードで色々こじつけて、まあなんとか遺族側が納得するような選択ができたけれど、本人が満足できるかは怪しいところだ。
でも、死後の世界がわからないんだから、葬儀は祈りの一種だ。これは私たちからあなたへの黙祷だし、場合によっては読経だし、合掌だ。

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