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観察の妙諦 Ver1.5

止観冥想

仏教における冥想修行は、釈迦世尊が開発した止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)に他ならず、止観冥想こそが仏教を仏教たらしめています。

しかし、現在に伝わる止観冥想は危険を減らす為に意図的に「刃引き」がされているので、行法としての切れ味が殆ど無い鈍(なまく)らな冥想法になっています。


釈迦在世の時代には「不浄観(アスバ・バーヴァナー)」という冥想法がありました。これは人の死体に虫が湧き、獣に喰われて骨になるまでを観想する過酷な冥想法です。

主に性欲の強い人に奨励された冥想法でしたが、これを実践した仏弟子が相次いで発狂したり、自殺をしてしまうので、次第に不浄観を行う者は居なくなりました。

そして、釈迦世尊が伝えた「ヴィパッサナー冥想」にも、薬に例えるなら「この成分が無いと毒にも薬にもならない」という重要かつ過激な部分があるのです。



冥想の切れ味を取り戻す

「大勢の人に受け入れられる形になっているなら、それで良いじゃないか」お思いの方もおられるとは思いますが、事はそう単純ではありません。何故なら、刃引きされて鈍(なまく)らになった冥想法には、人が持つ無明の闇を切り裂くだけの力は無いからです。

果たして形だけの冥想法を実践する事に、どれほどの意味と価値があるのでしょうか。それとも、冥想している気分さえ味わえるなら、それで良いのでしょうか。

冥想の指導をするのは良いけれど、そのせいで発狂する者や自殺者が続出しては困ります。「ならば危険な部分は落とすべきだ」と考えるのは自然な成り行きですが、残念ながらそんなものには後世に伝えるだけの価値はありません。


人生に苦悩して真実を渇望するようになった人は、キレイ事や優しい嘘などは求めていません。彼らが求めているのは刺さった毒矢を引き抜いて苦痛を和らげる方法であり、自分や他人を活かすも殺すも自由自在な「真理」のみです。

知は力であり、力は使いようです。真理は単純明快であり、気付いてみれば大した事では無いのですが、それは「コロンブスの卵」のように自力で気付くのはけません。そしてヴィパッサナー冥想におけるコロンブスの卵は、「物事を多面的に観る」という誰でも知っている事だったりするのです。


ただし、行法としての切れ味を取り戻したヴィパッサナー冥想をそのまま行ずると、不浄観よろしく殆どの人が苦しみに耐えかねて発狂したり、自殺をしてしまいます。つまり人間にとって「多面的観察」とは、それほどまでに精神的苦痛を齎すものなのです。

もし、古今東西の仏教者や僧侶たちが全員、真実の為に命を懸けるタイプの人間であったなら、サマタ・ヴィパッサナーの止観冥想も今のような形にはなっていません。

しかし、世の中には真理の探求者ではない人の方が多いですし、仏教を多くの人に伝えて後世に残すのも大事ですから、探求者以外の人達も行ずる止観冥想が「刃引き」されるのは止むを得ないのです。


ならば、リスクのある多面的観察とその妙諦については、極一部の人達の間にのみ伝わる「秘教」として後世に残すより他はありません。



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