見出し画像

内観独習法 その2

Step3 自己主張の良し悪しについて

「自己主張の強い人」と言えば、粗野で、野蛮で、身勝手で、屁理屈と詭弁で他人の頭を押さえつけ、汚い手を使って我を通す「最低な人」を連想するかも知れません。

その所為か、自己主張という言葉には、他者との衝突を連想させるネガティブな響きがあります。私自身、やたら声がデカく、後先考えずしゃべり倒すタイプの人は苦手です。

自己主張にも良し悪しがあって、悪い自己主張は他人の主張を押し潰し、権利を侵害し、利益を簒奪する為の「攻撃」に過ぎません。


また、個人的な考え方の押し付けや、好き嫌いのゴリ押しも、自己主張とは言いません。当然の事ながら、そんな真似をいくらした所で、自我が確立する事など有り得ません。

悪い自己主張をする者の特徴は、自我だけが極端に肥大していていて、客観性に乏しく、主観だけでモノを言い、当然のように他人の領域に踏み込み、干渉してきます。

これは本人の自我境界線が曖昧な所為で、見たもの全てが「自己に属している」と錯覚するからです。また、その錯覚は「手の届く範囲のものは全て、自己の影響下に置きたい」という支配欲をかき立てます。


これに対して良い自己主張は、自己に属する領域や、正当な権利を「防衛」する為に行われます。

子供はワガママを言って両親と衝突し、エゴと主張の火花を散らします。子供は絶対に勝てない「親」という他人に挑み、何度も撥ね付けられる経験を繰り返す事で、自分と他人の領域を区別する事の大切さを学びます。


子供の「攻撃」に対して親の「防衛」が上回らないと、領域に関する子供の認識が歪みます。親が「防衛」の役割を放棄したり、保身から過度の甘やかしに走るのは子供の為になりません。それは育児放棄であり、虐待です。

人生経験の少ない子供には、どこからどこまでがOKで、どこからがダメなのかと言う難しい判断は出来ません。なので、親の考えがどれだけ歪んでいたとしても、子供はそれを受け継いで「自分の基準」にしてしまいます。

また、父親と母親の主張は必ずしも一致しないので、子供は「どちらが正しいのか」と悩む事もあります。その時に適切な教育が成されれば、子供は多様性を認め、協調性を身に付け、親以外の他人と交流する準備が整います。


子供は他者との交流の中で、世の中には様々な考えがある事を学んだり、お互いにとって心地よい距離感がある事に気づき、その距離感を大切にする事を学びます。これが正常な精神の発達の過程です。



Step4 悪い環境から出て行く

良い親と良い環境に恵まれた人の自己主張には、何の問題も生じません。しかし、親と環境に恵まれなかった人は、色々と正さなくてはならない問題が出て来ます。

幼い頃に他者との正常な距離感を学び損ねた人は、他人を支配するか、他人に支配されるかの二つしか選択肢がありません。これは食うか食われるか、ボスに成るかボスに従うかの野生的な価値観です。

野生的な価値観を持つ人は、平等と多様性を尊重する文明社会の価値観の中では生きられないので、社会の片隅に野生の掟が支配するコロニーを作ります。


野性的なコロニーの中では、お互いに噛みつき合い、引っ掻き合うかのような、攻撃的で一方的な自己主張しか通用しません。このような環境に属しているうちは、絶対にマトモな自己主張など出来るようにはなりません。

ですから、もし今の自分がコロニーに属してしていると感じるなら、そこから出る事が最優先の課題になります。コロニーは会社や学校の中にも存在しますし、家庭そのものがコロニーと化している場合もあります。

コロニーか否かを見分けるチェックポイントは、コロニーの構成員が他者の価値観を尊重し、距離感を大切にしているかどうかです。妙に馴れ馴れしかったり、酷く図々しかったり、やたら口うるさい人が居る所からは、一日も早く出て行きましょう。


直ちにコロニーから出て行けない状況にあるなら、自分を守る為に戦うしかありません。とは言え、暴力、暴言、嫌がらせで応戦すれば相手の土俵に乗る事になるので、戦術は「サラリと全面拒否」の一択になります。

当然の事ながら、こちらが拒否をすれば、相手は力づくでねじ伏せようとしてきます。そこで屈服してしまうと、二度と逆らわないように徹底的にイジメられるので、頑として応じない意志の強さを見せなければなりません。

こちらが屈服しなければ、相手は興奮して怒り狂うか、調子に乗ってやりたい放題し始めます。その時に必ずヘマをするので、すかさず立場をひっくり返してやりましょう。ハラスメントという概念が浸透した今の社会なら、それは決して不可能ではありません。



Step5 自己と向き合う権利を得る

悪いコロニーから出ていくか、コロニーの構成員を撃退して自己と向き合う環境を整えた時に、ようやく「人生経験」という名の判断材料が必要になってきます。

実際問題として、自己主張という他者との闘いの経験が無いと、振り返るだけの価値が無い中身スカスカの人生になってしまって、自己と向き合う事が出来ないのです。

自分と向き合えない人は、他人とも向き合えません。それは異性とも向き合えないという事であり、親になった後も子供と向き合えないという事です。自己主張をしないと言う事は、何かと向き合う事を拒否しているのと同じなのです。


単に親の価値観を受け継ぐだけでは、大人にはなれません。大人になれなかった人は、恋愛のようなディープな人間関係に耐えられないし、自分で作った家族という、自分自身よりも大切なものを守れるようにもなりません。

平和や協調性は尊いものですが、それを言い訳にして闘争から逃げ回るのは卑怯者のする事です。戦うべき時に戦わなかった罪と罰は、歪な平和主義や幼児性と言う形で一生ついて回ります。

決して逃げたりせず、キチンと己が為すべきを為している人は魅力的ですから、他人の方から距離を縮めようとしてきます。そうなれば、付き合う人を自分で選ぶ事が出来ます。これこそが主体的な生き方というものです。


主体的に生きていない人は周囲に流されてしまうので、その人生において何かを成し遂げる事もありません。そんな人物に魅力などある筈も無く、周囲に居るのは似たような卑怯者ばかりです。

心地よい人間関係を作る事と、誰とでも仲良くする事は違います。どんな環境にも少数ながらマトモな人は居ますし、逆に、関わってはいけない人物も居ます。

心に孤独や寂しさを抱える人は、自分が他人に選んでもらう事を望むものですが、これは質の悪い連中を呼び込んだり、つけ込む隙を与える事になるだけです。


どんなに寂しかろうが、

どんなに不安を感じようが、

どんなに劣等感に苛まされようが、

どんなに無力感に悩まされようが、

どんなに愛情に飢える事になろうが、

あなたが付き合う人は、あなたが選ぶのです。


そして自分の領域は、自分で管理し、自分で守っていくのです。自己主張とは、その為にするものなのです。

己の領域内に誰を迎え入れるかは、あなたの自由です。でも、あなたの領域に、あなたの了解無しに土足で踏み込もうとする無礼者は、容赦なく撃退せねばなりません。

そこまで自己の領域に意味や価値を見いだせないのであれば、侵略と蹂躙を受け入れるしかありません。ただし、侵略者に良心などありませんし、自己防衛すら出来ない頼りない人を味方にしたがる人は居ませんよ?


独立独歩の生き方とは厳しいもので、時には守るべきものの為に、たった一人で全世界を敵に回してでも戦わなければなりません。

「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」

信念が、覚悟が、守るべきものが、己が意を通さなければならない理由が、
あなたを強く成長させてくれます。キチンと生きて自我を確立し、芳醇な人生経験を積んだ人だけが、本当の意味で「自己と向き合う権利」を掴めるのです。


よろしければサポートお願いします。いただいたサポート料金は大切に使わせていただきます。