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師に就かず初歩の悟りに至る道

悟りへの道は無数にある

「悟り」と言えば仏教の専売特許であるかのように思われていますが、実際には道は一つではありません。中国の道教や仙道も悟りへの道ですし、インドのヨーガや西洋魔術、またはネイティブアメリカンの間に伝わる秘教なども悟りへの道です。

そして世の中には、自分一人の力だけで悟りへの道を切り拓き、師無くして悟った独覚(どっかく)なる者も存在します。独覚とは、必要に迫られて悟るべくして悟った、言わば悟りの道の天才です。

仏教の開祖である釈迦世尊も独覚ですし、バグワン・シュリ・ラジニーシ氏(OSHO)や、ジッドゥ・クリシュナムルティ氏ラマナ・マハルシ氏エックハルト・トール氏無明庵EOこと鈴木崩残氏大和田菜穂氏阿部敏郎氏雲黒斎氏賢者テラ氏辰多みか氏も独覚です。


また、私こと清濁思龍も独覚ですし、悟りの体験談を寄稿してくださったkonsenさんや、壁さん陽向さんも独覚であり、それぞれがそれぞれ全く異なる悟り方をしています。

世の中には、それぞれの道における正師の導きによって悟った人も居ますが、よくよく見ると彼らも結局は自分の力で自分の道を切り拓いているものです。

むしろ、誰かから教えてもらった事をそのまま実践しただけで、何も考えず、工夫もせずに悟る人の方が珍しいくらいです。



道の歩み方には向き不向きがある

独覚は、必ずしも人を導くようになるとは限りません。釈迦世尊にしても梵天に頼まれなかったら法を説かず終わった可能性が高いですし、他の独覚達も「聞かれたから答えた」という所から始まって、何時の間にやら周囲から祀り上げられていたというパターンが多いです。

例えるなら、悟りについての話は、見た事の無い風景について説明するようなものです。どんなに才能があっても、どれだけ頑張って説明しても、他人に「悟りの風景」を理解させる事は出来ません。その虚しさを理解するからこそ、積極的に法を説く気になどなれないのです。

中には自ら進んで法を説き始める人も居ますが、そういう人物は後継者の確保や、社会改革などの狙いから動き始める場合が殆どです。


覚者は「悟りの風景」の素晴らしさを知っていますし、誰かにその風景を見せてあげたいと思っています。だからこそ、自らが歩んだ道を振り返って他人も歩めるように整備したり、燈明や道標となる言葉や行法を遺したりするのです。

しかし、教えや行法には向き不向きがあり、坐禅で悟れる人が居るかと思えば、念仏でなければダメな人も居るし、思考や哲学の果てに悟る人が居るかと思えば、神を愛したり、慈悲行でなければ悟れない人も居ます。

誰がどのような方法で悟れるかは、本人も含めて誰にも分かりません。だからこそ、求道者は人生を棒に振る覚悟で努力精進をしたり、矢折れ弾尽きるまで工夫を凝らし続けなければならないのです。



悟りに近い人

いわゆる「悟りに近い人」は、必ずしも人格者とは限りません。むしろ天才故の奇矯さが悪目立ちしたり、余りにも突出し過ぎて人間社会に適応出来ない人の方が多いかも知れません。

「大徳」と呼ばれた釈迦世尊にしても、四門出遊で出家の覚悟を決めた途端に、家族どころか国さえも捨てた挙句、己が息子にラーフラ(障害をなすもの)などという酷い名前をつけてしまうほどの人格破綻っぷりを晒しています。

つまる所、悟りに必要なのは「人徳」ではなく、本気になったら死や破滅さえも受け入れて突き進む「一点突破の貫徹力」なのです。そして、その貫徹力を真理の探究というテーマに向ける事が出来た人だけが、悟るべくして悟るのです。


悟りの為に人徳を積もうとする事には意味が無いですし、毎日欠かさず教学や勤行に励む必要もありません。生まれつき聡明な人じゃないとダメという事も無いですし、三十二相八十種好を備えている人でなければ無理という事もありません。

でも、自分勝手で幼稚な人は楽な方にズルズルと落ちていってしまうので、ちょっと難しいかも知れません。また、他罰的で思い込みが激しい人や、他人を蹴落として喜ぶ人も、真実に目を向けられるようにはなりません。

そういう意味では、一点突破の貫徹力の源となる「個の確立」を果たしている事と、一定レベルまで「人間的な成長」を遂げている事が悟りの条件であると言えるでしょう。個人的な感想を言わせてもらえば、人徳云々については、むしろ悟った後の課題であるように思えます。



正師とはどのような存在か?

覚者と言えば、完成された人格を持つ「まるで仏のような」存在だと思うかも知れません。しかし、実際には厳格かつ苛烈で気難しい面を持つ人物の方が多いですし、中には攻撃的で皮肉屋で近寄り難い人物も居ます。

特に、師に就いた経験が無い独覚に人徳を期待しても裏切られるのがオチですし、独覚側も真理の探究者との出会いしか求めていないので、一般人と独覚の出会いは悲しい結末を迎える事の方が多いのです。

悟りの浅深と、指導者としての資質は、全くの別物です。深い境地と優れた人格を併せ持つ人物こそ正師と呼ばれて然るべきですが、そこまでの力量を持つ人物は滅多に現れません。


導師を求める人達が理解しなければならないのは、覚者なら誰でも確実に悟りに導ける訳ではないという事です。身も蓋も無い言い方をすると、弟子が本物の求道者(ぐどうしゃ)ならば、導師の力量など関係無く、正しい方向を教わるだけで自力で悟ってしまうのです。

悟りについての話では、師の力量や資質について語られる事は多いものの、弟子(求道者)の力量や資質について語られる事は少ないものです。しかし、少し考えれば正師を探す事よりも、自分が本物の求道者になる方が先だという事が分かる筈です。

悟りの道における真の問題点は、本物の求道者の条件である「個の確立」と「人間的な成長」については、既に成し遂げているという前提で話が始まっていて、その二つを成し遂げる為の方法論は存在しないという所にあるのです。


本物の導師なら、それくらい弁(わきま)えていて当然と思うかも知れませんが、それは逆です。何故なら、本物の導師となる人物は高い人間性能を持って生まれてくるので、その人生において「個の確立」と「人間的な成長」という問題で躓いたりはしないからです。

どれほどの大人物でも、経験の無い事は教えられません。そして、悟りの経験が無い人や、人間的な成長と個の確立を成し遂げる前の人達も、本物の導師とはどのような存在かが分からないので自力では探し出せないのです。

仮に運良く正師と出会えたとしても、導師と弟子の間にも相性の問題があるので、必ずしも良好な関係を結べるとは限りません。況(ま)してや、毒親持ちや発達障害などのハンディキャップを背負っている人達の師になれる人物など、この世に存在するかどうかも怪しくなってきます。



見道もまた、無数にある道の一つ

私は発達障害と毒親持ちという二大ハンディキャップを背負って生まれてきた所為で、25歳までの人生は振り返りたくもないほど酷い事になってしまいました。

その代わり「個の確立」と「人間的な成長」を果たして「初歩の悟り」に至るまでの方法を自力で編み出し、それを体系化する事に成功しました。

その体系には、仏教における五道(資糧道・加行道・見道・修道・究竟道)に倣って「見道(けんどう)」と名付けました。何故そのように名付けたのかと言いますと、日本の大乗仏教においては五道のうちの見道に相当する教えが忘れられて久しいからです。


私自身は「多面的な観察」によって悟るという、かなり珍しい体験をしています。一応、理に適った悟り方ではあるので、世の中には私と似たような悟り方をした人が居る筈ですが、私が調べた限りでは「多面的な観察によって悟れる」と主張する覚者は存在しませんでした。

仏教の八正道(はっしょうどう)では生老病死の四諦を正しく観察する「正見」という教えが説かれていますし、観察を主とするヴィパッサナー冥想もありますが、いくら仏教を勉強しても「多面的な観察によって悟れる」という教えを見つける事は出来ませんでした。

でも、私の体験からすると、どう考えても仏教冥想における観察の妙諦は「多面的な観察」であり、それ以外にはあり得ないという結論しか出ないのです。伝統的な仏教冥想が不完全だと主張する気はありませんが、個人的には安全性の観点から意図的にボカされた部分があると考えています。


そのボカされた部分が「多面的な観察」であり、実際にそれを軸にして観察の冥想を行ずれば、高い率で悟りに達する人が現れます。

先ほど「道の歩み方には向き不向きがある」と説明しましたが、それは観察の道にも言える事です。私としては残念ですが、多面的観察が性に合わない人は居ると考えるべきですし、逆に多面的な観察でなければ悟れない人も居る訳です。

伝統仏教の中に「多面的な観察」を説く宗派があるなら、二大ハンディを背負っている私如きが悟りへの道を説く必要はありません。でも、そのような体系や宗派が存在しないのであれば、新たに作らなければなりません。


多面的観察の重要性を理解していただけましたら、次は悟りの定義についての記事をお読みください。


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