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2021年 共通テスト「世界史B」過去問解説⑤第5問(解説動画付き):令和3年度 大学入学共通テスト 本試

第5問以外の大問の解説は、こちらのページにまとめております。

問題は、大学入試センターの方で、公開されています。
こちらをクッリクしてください。

それでは、第5問の解説を始めます。

第5問A 問1 誤りの選択肢には、元になった記述があるはずです

問ごとに各地域に対応しているので、1つずつみていけばいいでしょう。
地域1からです。

1行目の、オレンジ、レモン、オリーヴ、ワインなどの記述から、地中海沿岸であることがわかります。また、次の行のイタリア半島と北アフリカとの間にある・・・ということから、シチリア島のことだとわかります。

シチリア島

他の問題のところに、場所をイメージしやすい地図がないか、確認してみましょう(あるものです)。49ページの地図がいいですね。ちょうどシチリア島は、切れてのっていませんが、イタリア半島の少し先のところです。

さて、誤っているものを選ぶ問題です。

シチリア島、ということさえわかれば、②、③、④は、比較的、有名なことなので、①が誤りを含む選択肢だということは、選びやすいと思います。
確認のために選択肢①の内容を検討してみましょう。

「イスラームの影響化」、「トルコ語への翻訳」・・・などという記述から、これは、あるとしたらオスマン帝国(1300頃~1922)についてのことと想定できます。(昔は、セルジューク朝、オスマン帝国はそれぞれ、セルジューク=トルコ、オスマン=トルコと、それぞれ表記されていました。国際基準に合わせて、現在はこのように表記されていますが、昔の方がトルコ人による王朝ということが、わかりやすくてよかったですね。)

オスマン帝国が、シチリア帝国を占領して、そこで、ラテン語からトルコ語への翻訳事業が行われえたかを、検討してみましょう。

まず、地理的な状況からです。
オスマン帝国の位置は、前問(第4問)の解説に入れた図も参照してください。お持ちの教科書や図録で、確認できると、なおよいです。

確かに、シチリア島はイタリアをはさんで少し離れたところにあるようですが・・・あり得ない話では、ないですね。

オスマン帝国は大部分の時代、ギリシアを含むバルカン半島を支配していましたし、最盛期には北アフリカ地域を、現在のアルジェリアの地域まで支配していました。

あまり聞かない話ですが、北アフリカ(アルジェリア)とバルカン半島の間に位置するシチリア半島が、オスマン帝国の支配下にあった時代があったとしても、おかしくない話です。

ということで、次に「ラテン語からトルコ語への翻訳」について、検討してみましょう。

これも聞いたことがない話ですよね。
ここで、①が誤りと判断してもいいですが、もう少しつめておきましょう。
誤りの選択肢には、必ず元になった正解の記述があったはずです。(問題をつくる方としても、まったく0から、誤りの選択肢をつくるのはたいへんです。)

これは、「(イスラーム圏の言語である)アラビア語からラテン語への翻訳」が、元になっている選択肢と想定されます。

イスラーム文化圏では、中世ヨーロッパ世界よりも、ギリシアなどの学問を受け継いでいて、さまざまな科学が発達していました。

十字軍(12世紀〔1100年代〕)をきっかけに、東西の交流が盛んになり、アラビア語の文献(ギリシア哲学やイスラーム科学に関するもの)がラテン語に翻訳され、近代科学の発達を準備するものとなりました。

選択肢②は、両シチリア王国(1130~1860)のことですが、この王国はシチリア島とイタリア南部を支配していました。

この王国が立てられたとき、すでにシチリア島にはムスリム(イスラーム教徒)が多数入ってきていましたし、イタリア南部は、ビザンツ帝国(395~1453)の支配下にありました。

よって、両シチリア王国では文化の融合が進み、アラビア語からラテン語への翻訳作業の一翼を担っていたのでしょう。
これで、①が誤りだろうと確信できます。

〔地域1〕の記述にあるように、近代になって両シチリア王国は、ガリバルディ(1807~82)によって、1860年に征服され、翌年、イタリア王国(1861~1946)に編入されます。

他の選択肢も、簡単に確認しておきましょう。

選択肢④:古代オリエントで海上交易に活躍したフェニキア人や、古代にバルカン半島で力を持ち、各地に植民市を持っていたギリシア人が、シチリア島にも植民地を建設していた、というのは、当然考えられる話です。

選択肢②:第二次世界大戦(1939~1945)は、日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国(ファシズム陣営)と、アメリカ・イギリス・ソ連などの連合軍(反ファシズム陣営)との戦争になりました。

1943年7月、連合軍によるシチリア島上陸成功がきっかけで、イタリアのファシスト党党首ムッソリーニ(1883~1945)は失脚し、イタリアの新政府は同年9月、無条件降伏しました。

正解:①

第5問A 問2 何となくの連想で、答えまでたどり着けます

地域1が、小さな島だったので、これも小さな島なのだろう、と思い込んで混乱してしまった人もいるでしょう。

でも、「島」とありますね。どのか、判断しなければいけません。

「14世紀から15世紀にかけて大きな戦争があったこと」、「万国博覧会が開催されたこと」、「世界的にも高名な博物館があること」、などから、この国は、・・・

イギリス・・・だとわかります。(博物館というのは、大英博物館のことです。)また、お土産の「紅茶」からも、イギリスでいいだろうと確認できますね。

次に〔ア〕の国がどこか?判断します。
「14世紀にはじまり15世紀までつづいた」戦争のイギリスの相手国です。

14世紀から15世紀・・・1世紀(100年)ということから、百年戦争(1339~1453)と、すぐに連想できますね。

また、百年戦争といえば、有名なのはジャンヌ=ダルク(1412~31)の活躍です。イギリス軍を大敗させ、フランスを勝利に導いた英雄です。
ということで、〔ア〕はフランスとわかります。

ここまで、何となくの連想だけでフランスと導けましたね。
設問の方も、ここから何となくの連想を積み重ねれば答えにたどりつけますが、大切なところなので、少し、しっかりみていきましょう。

1066年ノルマンディー公ウィリアムノルマン=コンクェストにより、〔イ-Y〕にあるノルマン朝(1066~1154)が成立します。(〔イ〕(Y)は誤り)

その後を継いだのが、プランタジネット朝(1154~1399)です。
プランタジネット朝は、もともと血縁の関係からフランスから入ってきたので、大陸(フランス地域)にも、多くの領土を持っていました。

イギリスと海をはさんで向かいにあるフランドル地方も、イギリス領でした(フランドル地方の位置は、各自、教科書や図録などで確認しておきましょう)。毛織物産業の重要な産地であるこの地方を、フランス国王が直接支配下に置こうとしたのが、百年戦争の大きな背景です。

歴史は、経済がつくります。

地域2の記述に、王位をめぐる戦争とありますが、こちらはむしろ口実で、実際にはフランドル地方の奪い合いでした。フランドル地域は西ヨーロッパの経済先進地域として繁栄していました。

よって、〔イ〕に入れる文は、Xです。百年戦争は、文字どおり100年も続く戦争です。それなりの経済的対立もあったであろうことから、何となくでも選べますね。

次に〔ア〕:フランスに述べた文について検討しましょう。

(あ)のルール工業地帯は、ドイツの工業地帯です。(昔は中学の地理で、ドイツのルール工業地帯は頻出問題でした。)

第一次世界大戦で(1914~18)で、ドイツに攻め込まれたフランスは、敗戦国ドイツに対する不信感が強く、ドイツの賠償支払いの不履行を理由に、ベルギーを誘い、ドイツのルール工業地帯を占領します・・・ルール占領(1923~25)。

(い)のカルマル同盟(1397年)は、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーによる、同君連合〔1人の君主をいだいた連合)です。

百年戦争の時期の話ですが、フランスとデンマークは、位置的にも離れているので、やはりこの選択肢はないですね。(現代の地図でいいので、確認しておきましょう。デンマークは、ドイツと地続きです。参考に、現代の国境を示したヨーロッパの地図を貼っておきます。)

現代の国境3

正解:①

第5問A 問3 考えなくても、答えは出ます

〔地域3〕が、ギリシアだということは、わかりやすいでしょう。

一方、ローマはイタリアを中心に栄えました。
考えなくてもいいです。古代ローマの支配下に入った順に並べればいいので、イタリアから近い順に(上の地図も参照)・・・

シチリア島 → ギリシア → イギリス・・・の順で正解です。

一応、少し補足しておきましょう。

問1の④は、正しい内容の選択肢でした。
古代のシチリアは、地中海交易の覇権を争うギリシア人とフェニキア人の勢力争いの場でありました。

ここでいうフェニキア人というのは、フェニキアの植民市カルタゴのことだと考えるといいです。

共和政ローマの時期の前264~前146年、ローマとカルタゴの戦争であるポエニ戦争が起こりました。

この戦争での勝利によって、ローマは西地中海の覇権をにぎります。
シチリア島を支配下に置いたのも、この時期と考えていいでしょう。

カルタゴを破ったローマは勢いを増し、その勢力は東地中海にまで及びます(上の地図も参考に、位置関係を確認しましょう)。ギリシアを支配下に置いたのは、この時期です。

イタリアからイギリスまでは、かなり離れていますが、帝政ローマの最盛期には、ここまで支配が及んでいました。

トラヤヌス帝(位98~117)の時代、ローマの領土は最大となり、現イギリスの地域もローマの支配下に入りました。

正解:②

第5問B 問4 問題文を、よく読めばわかります

問題文をしっかり読めば読むほど、答えやすくなるタイプの問題です。
舞台は、朝鮮です。時代も19世紀(1800年代)とわかります。

日本の歴史とからめて、時代感をやしなっておくことを、おすすめします。(中学の歴史の教科書をみられる環境にある人は、ぜひ目を通しておきましょう。ポイントがまとめられていて、共通テスト対策最良の参考書です。)

日本で、明治政府がスタートしたのは、1868年です。(この年号は、重要なふしめとして、おさえておきたい年号です。)

石碑の内容は、幕末日本と同じように、朝鮮にも欧米列強各国が押し寄せていて、この石碑を立てた人物は、攘夷(じょうい:外国勢力を追い出すこと)を、方針としていたとわかります。

〔ウ〕に入れる人物は大院君〔だいいんくん:1820~98〕です。

西太后〔せいたいこう:1835~1908〕は、日清戦争(1894~95)後の清朝末期に、清の政治の実権をにぎった女性です。
今、朝鮮の話をしているので、この選択肢はないですね。

(なお、近代のことですので、「明治維新の頃」と「日清戦争後」のことだから、時代が全然ちがうだろ・・・という時代感をつかめていることも、大切です。)

〔エ〕に入れる文は、石碑に書かれている内容から(Y)と判断できます。
「洋夷〔ようい:欧米列強〕が迫っているのに、戦わないというのは、国を売るような行為だ」・・・と書かれていますね。

なお、(X)は、中国の明や清の海禁政策のことでしょう。

正解:④

第5問B 問5 韓国は受験戦争が日本よりも過熱、ということで有名ですね

朝鮮が建国以来、重んじていた考えなので、儒教のことです。あるいは、中国の宋(960~1276)代以降、主流となっていた朱子学のことです。

朝鮮でも、科挙が重視されていました。科挙の主要科目が儒学(朱子学)です。韓国の受験戦争がすごい、という話はよく聞きますが、こういうところにルーツがあります。

ということで、選択肢から儒学(朱子学)ことをさしているものを選びましょう。選択肢を1つずつみてみます。

①:道教のことです。北魏(386~534)の寇謙之〔こうけんし:363~448)〕によって、教団が形成されました。

②:王守仁(1472~1528)は王陽明の名で、よく知られています。
明(1368~1644)代の学者で、朱子学を批判し陽明学を唱えました。

出題の工夫ですね。王陽明の名前を出したら陽明学のことで、この選択肢が正解と、すぐわかってしまいます。(問題自体、簡単めなので、ちょっといじわるしたということです。)

③:唐(618~907)代の僧、義浄〔ぎじょう:635~713〕は、インドを訪れ、帰国後も多くの仏教の経典を翻訳しました。

④:王重陽〔おうじゅうよう:1113~70〕は、金(1115~1234)代の道士で、儒・仏・道を融合した全真教をおこしました。

正解:②

第5問B 問6 鬼殺隊の階級は、10に分かれています

問題文に干支〔かんし〕という言葉が出てきます。

これは、いったいなんでしょう?

「支」は、「えと」のことだと想像できます。「十二」といいますからね。例として挙げられているものをみても、「丙寅」に寅(とら)、「辛未」に羊(ひつじ)の文字が確認できます。

十二支の順に、年が割り振られていると仮定してみましょう。
1866年が寅(とら)なので、順に行くと・・・

干支

1871年が羊(ひつじ)にあたるので、この考え方でよさそうです。

では、干支の「干」の方は何をいみしているでしょうか?

与えられている例の十二支以外のところをみると、「丙」、「辛」、さらに問6の選択肢をみると、「壬」、「甲」・・・
これらに、なにか見覚えがありますよね。

(こう)・乙(おつ)・(へい)・丁(てい)・・・などもありますが、他でもみたことありますよね。特に甲(きのえ)など・・・

そうです。

鬼殺隊の階級です。(「鬼滅の刃」をみたことない人へ、・・・全面的にごめんなさい。もう少し、読み進めてください。)

柱の階級でもある甲(きのえ)で始まる鬼殺隊の階級は(そこのあなた。煉獄さんを思い出して涙ぐまないように。今は勉強中です。

・・・すいません、冗談です。もう、やめておきます)、

全部で10階級でした。
これは、単なるマメ知識ではなく、知っておくとよいことなので紹介しておきますが、十干は・・・

甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)・・・です。

これと十二支を合わせて年を表す方法は、近世まで日本や朝鮮で使われてきました。

十干の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と、
十二支の子(ね)・丑(うし)・寅・卯・辰・巳・馬・羊・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥を(い)、

例えば、最初は十干の「甲」と十二支の「子(ね)」を組み合わせて「甲子(きのえね)」、次の年は十干の次の「乙」と十二支の次の「丑(うし)」を組み合わせて「乙丑(きのとうし)」・・・と年の名前をつけます。
(他の方のページですが、くわしくはこちら

(10と12ですから、最小公倍数の60で一巡します。60歳になられた方の還暦のお祝いは、ここからきています。)

それでは、選択肢をみてみましょう。

それぞれ、壬午軍乱甲申政変甲午農民戦争・・・のことです。

壬午軍乱、庚申事変は、1875年の江華島事件をきっかけに日本と日朝修好条規(1876年)を結んだ以降の、朝鮮国内のゴタゴタです。

また、甲午農民戦争(東学の乱)をきっかけに、日清戦争(1894~95)に突入し、日本の勝利で実質、朝鮮は日本の支配下に入るので、これが最後ということでいいでしょう。(その後、朝鮮は国内でどうの、という話は少なく、日韓協約などの話題が進みます。)

ということで、同じ「午」の字を持つ壬午軍乱が甲午農民戦争の12年前、

甲申事変がこの間と仮定すると・・・午から申まで「(午)→羊→申」の2年、甲申の「甲」から甲午の「甲」まで10年の合わせて12年で、何の矛盾もありません。よって、「う→え→お」の順になります。

甲午農民戦争

本当は、甲午農民戦争が一番後ろと仮定しなくても、日朝修好条規から日清戦争までの20年くらいの間に起こったできごとである・・・という前提で・・・

選択肢の各事件をまったく知らなくても、甲から甲まで10年と、
午から申が2年、申から午が10年、午から午が10年という情報から答えを1つにしぼり、

「どうだ!覚えてなくても答えられるだろ。」・・・という解説にしようと思っていましたが、前半で遊んだので自粛しました。


以上です。ありがとうございました。
コメントなどいただけると、うれしいです。

執筆:井出進学塾(富士宮教材開発) 代表 井出真歩


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