メモ3

言葉が流れていくので粗末な思考になる。
おまけに共感という名の皮を被った承認欲求によって自己がブレる。他者に左右される。それで良いのなら構わないが、そんなことで自分を蔑ろにしていていいものだろうか。
自分を労うとはなんなのかをいま一度考えてもらいたい。
私はおそらく既にダスマンから脱した存在者と言える。
死ぬ時が来ても何も思い残すことはないだろう。
死を意識することは日常的に自己を直視することに他ならない。
これにはある種の鍛錬、それに伴う忍耐が必要となるが、その行いによって人間は不安や悩みから脱することができると踏んでいる。
ダスマンからの脱却は容易ではない。
ほとんどの人間はダスマンへ自身を貶めることで死からの逃避を無意識のうちに試みる。
そうしなければ自我が持たない。
日常の行いそのものが、死を遠ざけるものの、死は誰にでも訪れる現実である。
死そのものを直視すれば、いつなにどきでも人生の終わりを素直に受け入れることができる。
死を受け入れること、死から目を逸らさず生きることがダスマンからの脱却となる。
言ってしまえばダスマンである時点で存在者として死んでいる。
人間はやがてくる自身の死から目を逸らすために、外部との繋がりを維持しようと努める。仕事、恋愛、勉強、などの活動に身を投じることで我を忘れる。
そうしなければ死の重荷による不安から逃避できないのである。
逃避したところで、その先には死という現実が待っている。
目の前にある活動を行い、遅かれ早かれやってくる死の現実を遠ざけることこそ、私をして言わしむれば、不安を遠ざけるための現実逃避である。
ダスマンである限りは死の不安はついて回る。
ダスマンの皮を自らの手で剥ぎ取った時に存在者としての自己が現れる。

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