婚約破棄よりも、ちょっと前の話

前編

引越業者「オニモツイジョニナリャス、ジャ、コチャサインオナシャス」

2021年の春、俺は4年以上住んだ町を離れた。
引っ越し先は品川区の単身者用マンションだ。
山積みの段ボールだけがある部屋で、まだ少し冷たい床に寝そべり空を仰ぐ。
ふと郷愁にかられ、あの町での思い出をアイボリーのスクリーンに投影する。

あの町に引っ越してから俺の人生は大きく変わった。
5年以上勤めた会社を辞め、個人事業主として独立した。
付き合う友人が変わり、お酒が家計に占める割合も膨れ上がった。
ただ、変わらず俺は独り身だ。
様々な思い出が頭の中を駆け巡るも、そのすべての背景にちひろがあった。

2016年のはじめごろ。
古びた居酒屋で出会った俺たちは、それから多くの時間を共に過ごすことになった。
彼女は初めて会った時の印象通り、素朴だが芯のある女性だった。
日常では高望みをせず、20代半ばの金のない同士の恋人の過ごし方を楽しんでくれていた。
一方で仕事には貪欲で、業後や休日でも仕事である紳士服販売のセールストークの作りやロールプレイにも励んでいた。

そのころの俺は夜勤ありの監視業務に従事しており、彼女と時間が噛み合っていた。
そのため、俺の日勤明けは彼女の家で寝泊まりし、お互いの休みの合う日は一日を共にするリズムが早々に出来上がった。
しかし、徐々に暖かくなる季節の中で俺の熱は上がり切らないでいた。
直前で付き合っていた恋人とは向こうの浮気が発覚して別れたことがあり、熱を上げないようにしていたのかもしれない。
そんな俺の心境を見抜いてか、いや、きっと顔にも出ていたのだろう。
彼女は度々、大きな黒目を見開いて「なんでいつも仮面を被っているの?」と投げかけてきたが、俺はいつもそれを躱していた。

そうやって騙し騙し日々を過ごす俺たちの関係性にも転機が訪れた。
彼女と知り合って以降、スーツ関連の商品は彼女の働く店で買うようにしており、その日はスーツの買い替えのために店を訪れた。
予め来店を伝えていたため、彼女は俺の手持ちと同じ価格帯で数点、好みに合いそうなものを見繕ってくれていた。
しかし、次々と出されるスーツ試着するもいまいちパっとせずにいた。
そしてついには見繕ってくれたスーツをすべて試着してしまい、それらを並べてどれを買うべきか、そもそもなにも買わざるべきか悩んでいた。
そんな俺の渋い顔を見て、彼女は店の奥に引っ込んでいった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、一着のスーツが抱えられていた。
そして、控えめな笑顔とともに「本当はこれが一番好きだろうなと思ったけど、予算オーバーしてるから出すか迷ってて。でも念のためとっておいたの。」と言うのだ。
彼女の目に合わせていた焦点をスーツに戻した俺は一瞬で購入を決めた。
それと同時に、俺の見えないところまで見ていた彼女と、彼女のことを何も知ろうとしていなかった自身を比べ情けない気持ちになった。
その日は珍しく、彼女の好きなお菓子を手に仕事終わりの彼女と一緒に帰った。

そこからの日々は過ごし方こそ変わらないものの、心なしか鮮やかになった。
将来のことを真剣に考えるようになり、仕事にもそれまで以上に精を出すようになった。
そして1年とすこしが過ぎたころ、俺たちの関係性にまたもや変化の兆しが訪れた。
いつものように夜勤を終えて帰り支度をしている中、上司から声が掛かった。
「べいびーくん、そろそろ君を日勤に引き上げたいと思っているんだけども。」
ここでいう日勤とは役職の勉強期間のポストを指しており、上昇志向だった当時の俺にとってはこの上なく嬉しい話だった。
これは彼女と過ごす時間が少なくなることにもなるが、俺は二つ返事でその提案を受けた。
オフィスを出るなり彼女にこのことをLINEで伝えると、すぐにそれを祝う旨の返信がきた。

そして、その年の夏ごろには俺は日勤になっていた。
しかし、役職を目指して業務に励む一方で、茹だるような夏の暑さが俺の気力を奪っていった。
また、これまでの仕事は1日の標準勤務時間が長い代わりに休日が多かったが、休日が土日祝になったことも思いのほか負担になっていた。
休日は減るも一日あたりの勤務時間は減らず、平日は自宅に帰って寝てしまうことが多くなった。
それでも祝日やたまの彼女の土日休みは会うようにしていたが、少しずつ諍いの回数は増えていった。

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