婚約破棄よりも、もっと前の話

バラモスの討伐から数か月。
あの時はまだ馴染まなかったこの街も、いまとなっては俺の庭のような気さえしている。
更に深まった冬に枯らされてしまった街路樹を横目に、この日も俺は夜道を闊歩していた。

周囲を賑やかな下町に囲まれたこの街は、まるで台風の目のように静かだ。
特に自宅の面する、最寄り駅を境にして西側は、再開発で築浅の物件が並び、若いファミリー層が多い。
駅前のローソンが0時に閉まり、飲食店は容易く数え切れるほどの数しかない。
もっとも独身男性の俺にとっては、この治安が良さはデメリットなのかもしれない。
…考えれば考えるほど、この街を庭だと思っていたのは勘違いであることを自覚させられる。

しかし、そんな俺でも心落ち着ける場所があり、今夜はそこに向かっている。
家を出てすぐ、歩道橋を渡って駅の反対側に出てから5分とかからない場所にそこはある。大層な前振りをしたが、何の変哲もない古い焼鳥屋だ。
毛量の多い白髪頭の短髪を鉢巻でまとめた恰幅の良いマスター。鶏よりも魚を捌いてそう、と言えばそのいで立ちがイメージしやすいだろうか。
そんなマスターの切り盛りするこの店は、駅の西側では普段見ることのない、小汚いジジイババアがひしめき合うっている。
見方によってはこの街のゴキブリホイホイのようだ。
口汚く揶揄してしまったが、こんな店で落ち着く俺もそのゴキブリのうちの一頭だという自覚があってのことだ。

店内に入りカウンター席に座るなり、その流れで好物の鶏のタタキと瓶ビールを注文する。
いまでこそ手狭な1Kの部屋で延々と昔のアニメを流している俺だが、治安の悪い田舎で生まれ育った身だ。
しゃがれた声でああでもないこうでもないと騒いでいる客の声は地元を想起させて心地が良く、それを肴に酒を飲むと落ち着くのだ。

いつものようにジジババの声をBGMに酒をあおり、ほろ酔いになってきたころ。
いつもと少しだけ様子が違うことに気付く。
しゃがれた声の中に、細い声で談笑する声がかすかに聞こえてくるのだ。
声の方を向くと、少し離れたカウンター席に同年代と思わしき女性のふたり組が座っていた。
ひとりは前髪パッツンのショートヘアー、一瞬見ただけで印象的なくらい涙袋を強調したメイクをしている。
対照的にもうひとりはナチュラルな髪型とメイクで瑞々しい印象だった。
あまりにも対照的な組み合わせのふたりを意外に思いつつ、すぐに正面に視線を戻す。
そして相変わらず騒がしい店内を肴に酒を飲む。

1時間以上経っただろうか。
途中、好奇心で頼んだもののイマイチだった焼酎ロックが水のようになっていた。
一組、また一組と帰っていった後の店内の空気もまた、BGMというには味気ないものになっていた。

「今日はそろそろ潮時かな。」
そう思っていたところに、先ほどまでガヤにかき消されていたカウンター席の女性たちの話が聞こえてきた。
「もう大人なんだからアニメとか見ないよw」涙袋の女性が笑い交じりに、もうひとりの女性に言っていた。
「大人になってから昔のアニメ見るの楽しいよ!コナンくんとか。昔は難しくて分からなかったやつとか。」
すかさずの返答に対し、少しだけ間があいたとき。

「うわ!それめっちゃ分かりますわ!!」

俺は思わずふたりの会話に割って入ってしまった。

言い訳になるが背景を説明しておきたい。
先述のとおり、俺は部屋で昔のアニメを流していることが多く、ちょうどその頃は名探偵コナンを最初から見ていたのだ。

意識していなかった方向から飛んできた同意の声に、ふたりは一瞬面食らった顔をしてこちらを見た。
が、ナチュラルの女性が「ですよね!えっ、コナンくん見てるんですか?」と、おおよそ不審者に返すとは思えないきらきらとした声色で質問を返してきた。
その声色を受けて罪悪感を覚えながらも、「見てますよ、huluで最初の方から見てるだけで、TVの方は見てないですけど。…….いまスバルさんがコナンくんの家に来たところです。」と答える。
どうやら、テキトーに話しかけてきたわけではないことを理解して貰えたようだで、程なくしてお互いのことを質問するようになった。
涙袋の女性はみなみ、ナチュラルの女性はちひろという名前で、ふたりはこの街が地元で、幼馴染とのことだ。
マスターの気遣いで彼女たちの近くの席に移動をしてから、お互いの仕事や俺の地元のこと、俺がどうして今ここに住んでいるのか等、話に華を咲かせた。

話をしていく中で、みなみは気が強くちひろは穏やかな性格であることが分かってきた。
ただし、仕事に対するスタンスはその逆のようで、穏やかながらもちひろの方が上昇志向は強いようだった。
この時、俺はキャリアについてあまり考えていない人が大多数の会社に所属しており、対して上昇志向が強かった俺は疎外感をおぼえていた。
そういう背景もあってか、穏やかな口調ながらも強い意志を感じさせるちひろの話を、もっと聞きたいと感じていた。

途中、お手洗いのために席を立つ。
用を足した後に鏡を見ると、水のようになった焼酎をチビチビと飲んでいたせいか、飲み始めてすぐに赤くなる顔の色はすっかり引いていた。
「やってしまった…。」突然声を掛けてしまった非礼に自己嫌悪しつつトイレを出る。

席に戻ると、みなみの姿はなく、ちひろひとりになっていた。
「あれ、みなみちゃんもお手洗い?」おしぼりで手をふきながら訊ねた。
何気ない問いにちひろはどこか自嘲的な笑みとともに、
「彼氏から連絡来たって言って先に帰っちゃった。」と答えた。

「そっかー……。」

「…….。」

「良かったら、別の店で飲み直しませんか?」

この日から俺たちは、よく一緒にいるようになった。

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