見出し画像

親と子の卵焼き【#元気をもらったあの食事】

リクエストは卵焼き

年に数回、お弁当を作る日がある。
子どもの遠足の日。短縮授業期間の学童の日。何も予定がなくて「今日は何したいー?」の質問に、子どもたちの「お弁当作って家で食べたい。」の回答の日。

ハサミとのりでの作業はそこそこ自信がある私。しかし、包丁とまな板での作業は…。インスタ映えするようなキャラ弁など夢の話で、百均グッズを駆使したタコさんウインナーが精一杯。

そんなシンプル弁当でさえ子どもたちは喜んでくれ、「美味しかったよ!」と必ず言ってくれる。
同じようにして、中高大とお弁当を持たせてくれた母親に、「美味しかったよ。」と私は言っていたのだろうか。「今日は汁がもれてた。」なんて不満は伝えていたものの、ありがとう、美味しかった、と伝えた記憶は…。我が子の姿から自分の至らなさに気付かされる。

子どもたちにおかずのリクエストをきいてみる。
「ミートボール、ウインナー、ブロッコリー。」
手間のかからないリクエストに感謝。それらと並んで必ずランクインするのが卵焼き。
私が好きな味は母親がいつも作ってくれた砂糖多めの甘い卵焼き。
我が子の好きな味は白だしを入れた辛めの卵焼き。
味覚はどうやら夫似のよう。

「卵2つ、白だし(大さじ)1杯、水2杯。」
呪文のように唱えて混ぜていく。
フライパンの中で卵が一斉に広がり、端からジュワジュワと焼けていく。ぷくぷくと泡が湧き立つ。固くなりすぎないように、ちょうどいいところ…とタイミングを見計らって一気に巻く。年々わずかに技術は向上しているものの、満足のいく卵焼きとはいかず、シンプルなものほど奥深く難しい…と実感。
そんな卵焼きを4等分し、ひとつずつを立たせて斜めに包丁を。2つに分かれたうちの片方を上下逆さまにしてくっつけるとハートの形になる。ただそれだけのことなのに、子どもたちが嬉しそうにお弁当箱からつまみ上げて、「美味しい、美味しい。」と頬張る様子には、さっきまであった手間や面倒なんて気持ちを吹き飛ばす力がある。

にじんだ卵焼き

平日は全力で働き、金曜日に落ち込む出来事を抱えて週末を迎えることがある。仕事とプライベートを切り替えにくい私。事実と感情も切り分けにくい私。きっと月曜日になれば、また忙しさの中でそんな傷なんて癒えていくことは知っている。しかし、不安や怒りや後悔、複雑な感情が渦巻いて、何度も打ち寄せてきて、その深い深いところへ心も体も沈み込んでいく。
楽しみにしていた週末なのに。子どもたちとしたいことがあったのに。いつも笑っているお母さんになりたいのに。
こんな日は地球の重力を恨むほどベッドに沈み込む。

「お母さん、起きたらー?」
子どもたちが階段を上がってきては声をかけてくれる。
「そのうち降りるー。」
子どもたちを心配させていることに申し訳なくなり、更に重力がレベルアップ。豆腐メンタルの母でごめん。

布団の中でもう検索したいことなんて何もないのにスマホを触って、気付けばもう朝と昼の間。

階段をさっきよりも速いテンポで駆け上がってくる足音がする。
「お母さん。お父さんと一緒にごはん作った!卵焼きもあるよ。」

ようやく布団の沼から体を引きずり出し階段を降りると、テーブルの上に並んだ大きなお皿に一切れずつちょこんとのった卵焼き。高級フレンチさながらの皿使い。お父さんに見てもらいながら自分で作った、と自慢げな子どもたち。
「白だし1杯、水2杯、であってる?」
あぁ、私がいつも唱えている卵焼きの合言葉だ。

きっと自分たちで考えて、自分にできることをしてくれたのだ。子どもたちの心遣いが嬉しいのと、いつまでも重い気持ちを一人引きずっている自分が不甲斐なく感じさせられるのと。大きなお皿の中で存在感を放って立つ卵焼きが、にじんで見える。

「いただきます。」
小さな卵焼きをゆっくりと口の中へ。
「美味しい。」
子どもたちの笑い声と噛み締める卵焼きの味で心が満たされていく。子どもたちを育てているようで、実は子どもたちに私が支えられている。
私のレジリエンスを支えて高めてくれているのは紛れもなく目の前のこの子たちだ。
皿に残った卵焼きのかけらをひとまとめにして、もう一度口の中へ。時間をかけて、ゆっくり、しみじみと味わう。



この記事が受賞したコンテスト