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『セイレーンの懺悔』中山七里著  (小学館 2016年)を読む

https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000034094671&Action_id=121&Sza_id=A0

 「怒濤のノンストップ報道サスペンス」と銘打って、10月18日(日)から、WOWOWのドラマWで放送される中山七里著『セイレーンの懺悔』をドラマ放映前に読んだ。WOWOWの放送中に流される番組予告を見て、興味を惹かれたからです。

 主人公の帝都テレビの報道記者(入社2年目の新人)朝倉多香美を演じるのは本格的サスペンスドラマの新境地に挑む新木優子。その先輩で記者経験10年目の里谷太一を演じるのは池内博之。そのライバルとも盟友ともいえる警視庁捜査一課の刑事宮藤賢次を演じるのは、高嶋政伸です。
 「やらせ」などの不祥事が続き、存亡の危機にさらされている帝都テレビの看板報道番組<アフタヌーンJAPAN>。その制作に携わっている記者が、多香美と先輩の里谷だ。番組の名誉回復のために、発生した女子高校生誘拐事件の取材に力を注ぐ多香美と里谷だが・・・・ストーリーは、本作を読んでください。

 この作品を読んで、興味深かったのが日頃、ニュースやワイドショーが各局、毎朝や昼に放送されているが、そのニュースを取材している記者たちの葛藤と真実に迫る姿勢です。また、その取材対象者となる人々の思いも描かれている。被害者になろうが、加害者になろうが、ある日突然、多くのカメラクルーやカメラのフラッシュを浴び、記者から「今のお気持ちを聞かせて下さい!」と迫られる。いつ自分がその立場に立たされるかわかりません。「視聴者に真実を届ける」とか、「視聴者の知る権利」という錦の御旗の元に視聴率競争と特ダネを追いかける記者たち。そこに見えるホンネと警視庁の刑事、宮藤から投げかけられる厳しい言葉がこの作品の真骨頂だと思います。

本作品から引用します。

(里谷)「自浄できなければ組織は内部崩壊し、自分の居場所がなくなるからな。組織の収入が途絶えれば自分たちの死活問題になる。だから民間企業というのは割合に自浄作用が働く。善悪や倫理の問題ではなくて、組織を存続させるためので段としてな。だが身分の保障されている公務員はその限りじゃない。不祥事が発生しようが人死にが出ようが世間からの猛バッシングがあろうが、首を縮めて嵐が通り過ぎるのをじっと待っていりゃいい、だから学校やら警察やら検察の不祥事は、いつでもどこでも再発する。しかしな、実を言えば事の本質はそんなことじゃない」
(多香美) 「本質?」
(里谷) 「衿持ってヤツだよ」
 里谷は虚空を見つめて言う。多香美と顔を合わせようとしないのは、きっと気恥ずかしいからだろう。
(里谷) 「世間の良識とか肩書きじゃない。自分のしている仕事が何かにとって意義のあるものであること、自分のしている仕事が胸に抱いた信念に沿っているものなのかどうか。」
(里谷) 「どんな糾織にだって問題はあるし、反感を持つヤッがいる。殊に報道なんて世間に向けて発信する仕事だから、文句を言うヤツはいつでも一定数いる。それを雑音と割り切れるほどの衿持があれば何ということもない」多香美は自問する。外部からの非難を雑音として処理できるような誇りを、自分は獲得しているのだろうか。
                     (2章「協定解除」 p94)


(里谷) 「今更だが、報道の原点は客観性だ。絶えず中立的、絶えず客観的な視座さえあれば、どんな下衆なネタを取材してもニュース自体の品位が落ちることはない。ニュースが下品に見えたり胡散臭く映ったりするのは、送り手自身の思惑や品性が反映されるからだ。今のお前のスタンスで報道したら、ニュースは確実に私憤めいたものになる。それが事件の被害者に寄り添ったものならまだしも、俺が見るところ、お前のは安っぽい正義漢の面をしたただの野次馬根性に過ぎん」                    安っぽい正義漢と言われると、さすがに反論したくなった。だが私憤に駆られて未空にマイクを向けたのはその通りで、返す言葉はない。                         2章「協定解除」 (p125)

(里谷) 「どんな大義名分があろうと、報道の基本は野次馬根性だ。隠された秘密を暴く、人の行かない場所に行く、不幸と悲劇を具に観察する。そういう野次馬が醜く見えない訳あるかよ」里谷がここまで報道の仕事を自虐的に語るのは初めてだったので、多香美は驚いた。
(里谷) 「マスコミの華やかさにつられてこの世界に飛び込んでくるヤツは多いが、光が強烈になれば影は一層暗くなる。その黒さの一端があのせめぎ合いだ。隠れたがる者と、それを引き摺り出そうとする者。どう見たって引き摺り出そうとしている方が悪人に見える。たとえ隠れているヤツが何者であって、どんな悪事をしていてもな。報道の自由を笠に着て無理やりカメラの前に晒そうなんてのは、どう言い繕ったところで暴力だ。                      3章「第誤報」 (p154~155)

(里谷) 「報道の仕事が憧れていたよりはずいぶん泥臭くって立派なものじゃないことを知れば自然にこうなる。マスコミに限らず華のある仕事っていうのは大抵そうじゃないのかな。ライトが当たる部分以外は暗くて見えんが、よそ者には見せたくないものが転がっている。生き残っているヤツらは、そういうおぞましいものを見てもいちいち萎(しお)れないように鍛錬されている」
 それは果たしていいことなのだろうかと思う。慣れるということは仕事を迅速に進めるには不可欠だ。しかし一方で、己を不感症にしてしまうのではないか。
(多香美) 「慣れた方がいいのは分かってるんです」つい弱音が口をついて出る。
(多香美) 「でもさっきはどうしても腰が引けてしまって……。被疑者の情報を得るためには親族を取材しなきゃいけないのも、周囲の証言から本人の人物像を浮き彫りにしなきゃならないことも承知しています。でも」
(里谷) 「本当にそう思うのか」
(多香美)「えっ」
(里谷) 「俺は慣れる必要はないと思っている」
(多香美) 「で、でも里谷さんは慣れているじゃないですか」
(里谷) 「だから嫌なんだ」
                    3章「第誤報」 (p179)
                                  (多香美) 「ねえ、宮藤さん。どうしてわたしたちマスコミをそんなに邪険にするんですか? さっきの銃とカメラの喩えじゃないけど、犯人を追う、真相を突き止めるという点で警察とわたしたちは同じ立場じゃないですか」
(宮藤) 「違う」
 宮藤は言下に切り捨てる。
(宮藤) 「警察が追っているのは人じゃなくて犯罪だ。真相を突き止めている訳でもない。法を犯したのは誰かを特定しているだけだ。だがマスコミが追っているのは憎悪の対象だ。明らかにしようとしているのは、自分だちとは無関係だと思いたい悲劇や人間の醜さだ」
(多香美) 「それって偏見ですよ」
(宮藤) 「そうかな。だったら、どうして被疑者の家族やら元クラスメートやらの証言を欲しがる? 被疑者の書いた卒業論文を人于したがる? この残虐な犯人はこんな風にして誕生しました。この破廉恥な人間はこんな風に上辺を取り繕っていました……少なくとも俺たちは秩序を保つために犯罪を追っている。だが、君たちは第三者の好奇心を満足させるために追っている。自分がどれだけ不幸であっても、こいつらよりはマシだと優越感を抱きたいろくでなしどもの需要に応えているだけだ」
(多香美) 「ろくでなしって……視聴者を愚弄するんですか」
(宮藤) 「他人の不幸を見て悦に入っているヤッなんてろくでなし以外の何者でもない。その需要に応えて取材をしている人間も同じろくでなしだ」
 宮藤の口調は平坦だった。激した調子でもない。考えを淡々と述べているだけのように見える。それでも語る内容は毒気に満ちている。
(宮藤) 「誰かが殺された、そして誰かが逮捕された。事実を伝えるだけならそれで充分のはずだ。ところがニュースはそれだけじゃ飽きたらず、キャスターは薄っぺらな倫理観を振り鸚し、コメンテターとかいう輩は井戸端会議並みの人間観を披歴する。皆が皆、善良なる市民や知識人のふりをしているが何のことはない。他人に降り掛かった不宰を面白おかしく消費しているだけじゃないか。新聞・雑誌も一緒だ。殊更に扇情的な見出しをつけ、発覚したた犯罪がとんでもなく背徳的で、その犯人は残虐非道でとても普通じゃないと書きえてる。実際にはどこにでも有り得る悲劇で、どこにでもいる普通の人間が犯した過ちであったとしてもだ。君たちは悲劇や悲惨を安っぽいドラマに仕立ててお茶の間に提供しようとしているだけだ。だから事件と直接関わりのない下世話な話を集めにかかっている。それを警察の捜査と一緒にするな」
                 3章「第誤報」(p183~184)

 宮藤は容赦なく畳み掛ける。平坦な口調が却って胸に応える。
(宮藤) 「犯罪者の家庭はこんな具合に歪んでいた。自分たちの家庭はこんな風にはなってないから、犯罪者を生むことはないだろう。報道を見た人間はそうやって安心を得る。あるいは、あんな罪を犯すヤツの家庭は峰なものじゃないという信念を持っていて、それ見たこと溜飲を下げる。どちらにしてもト衆な野次馬根性に過ぎん。君たちがしている検証とかいう代物は、その下衆な野次馬を満足させるためのものだろう。ニユースの最後に警句めいたひと言を付け加えて綺麗に纏めてはいるが、結局は事件をバラエティにして愉しんでいる。言い換えたら、自分たちがバラエティ番組を作っていると認識しているからこそ、最後を問題提起らしく結んでいるだけだ」
 この言葉も胸を突いた。
 痛みを感じるのは部分的にしろ身に覚えがあるからだ。だが、多香美はそれを認めることができない。今それを認めてしまえば、自分の存在意義を否定することになる。
(多香美) 「それこそ偏見以外の何物でもありません。人の悲劇をを娯楽として供するために、警察回りや泥臭い取材合戦を繰り広げているって言うんですか」
(宮藤) 「偏見と言われたら、確かにそうかも知れない。だけど生憎、俺の目からはそうとしか見えない。蒸し返すようで悪いが、ヤラセで社会部のスタッフが文化財に悪戯書きした事件、岐阜県の発注工事で虚偽証言を取り上げたスクープ、それから例の〈切り裂きジャック事件〉で犯人側を刺激して徒に犠牲者を増やしたのは帝都テレビじゃなかったのか」
 多香美は返事に窮する。挙げられた事例は偏見でも何でもない。れっきとした事実だ。
(宮藤) 「その三件だけ見ても、君たちがニュースをバラエティ化させている証拠だ。自分たちが報道する内容は派手でなきゃいけない。視聴者が憤慨して社会問題になるようなスクープでなきゃいけない。常に自分たちが社会のサイレンでなければならない……君たちはそんな強迫観念に駆られているんじゃないのか。ありきたりな事故、ありきたりな殺人ではもう飽き足らなくなっているんじゃないのか」
 宮藤はいったん言葉を切り、多香美から視線を逸らした。
(宮藤) 「今、思い出したよ。そう言えばサイレンというのはギリシャ神話に出てくるセイレーンとかいう妖精が、その語源らしいな」
 「セイレーン……」
(宮藤) 「上半身が人間の女、下半身が鳥。岩礁の上から美しい歌声で船員たちを惑わし、遭難や難破に誘う。俺に言わせれば君たちマスコミはまるでそのセイレーンだよ。視聴者を耳触りのいい言葉で誘い、不信と嘲笑の渦に引き摺り込もうとしている」
(多香美) 「……的外れな喩えはやめてください」
(宮藤) 「そんなに的外れだとは思わないよ。君たちがいつも声高に叫ぶ報道の自由・国民の知る権利とかいうのはセイレーンの歌声そのものだ。君たちにとっては錦の御旗なんだろうが、その旗の翻る下でやっているのは真実の追求でも被害者の救済でもない。当事者たちの哀しみを娯楽にして届けているだけだ」
 娯楽、と聞いて理性よりも先に身体が反応した。立ち上がって、そのいけ好かない頓に平手を一発!だが渾身のひと振りは、宮藤の片手であえなく封じ込められた。
(宮藤) 「返す言葉に窮したら、今度はビンタか。まるで小学生だな。いやしくも報道の世界に身を置く者だったら、取材した事実で反証してみせたらどうだ」
 宮藤が突き放すと、多香美の身体は再び長椅子に倒れ込む。
 返す言葉が見つからない。抗う力もない。
 女だから、というのではない。己と己の所属する世界を擁護する大義名分が見当たらないのが口惜しい。
 ぎりっと奥歯を噛み締める。今の自分では口を開いても、きっと情けない言い訳しか出てこない。そんなものを宮藤に聞かれるのは恥の上塗りをするようなものだ。
(宮藤) 「前にも言ったがな。警察とマスコミ、似たような仕事をしていても決定的に違う点がもう一つある。君たちは不安や不幸を拡大円生産している。だが少なくとも俺たちは犯罪に巻き込まれた被害者や遺族の平穏のために什事をしている。市井の人々の哀しみを一つでも減らそうとしている。それが君たちのしていることとの一番の違いだ」
 それだけ言うと、宮藤は腫を返してその場を去って行った。                       3章「第誤報」 (p185~186)

(里谷) 「宮藤刑事に何を言われた」
 多香美は言われたそのままを里谷に伝える。自分の口から説明すると情けなさが倍増し、何度も言葉が途切れそうになった。
(里谷) 「警察は哀しみを減らすために働き、マスコミは哀しみを拡大再生産するために働く、か。宮藤さんの言いそうなことだな。あんな優しげな顔してマスコミ人種に対しては、まあキツいことキツいこと」
(多香美) 「あれはわたしたちに対してだけなんですか」
(里谷) 「ああ、犯罪被害者に向ける顔はずいぶん違っているみたいだな。それに弁護するつもりじゃないがお前にだって気を遣ってる」     思わず里谷を睨んだ。
(里谷) 「そんな怖い顔するな。お前も感情はともかく、理性の部分では宮藤刑事の理屈が正しいと認めちまっているんだ。だから返すし‥柴がなかった。返したとしても子供がだだを程ねているようにしか聞こえない。違うか」
(多香美) 「違いません」
(里谷) 「だろうな。自分の力では覆せそうにないから悔しい。当たり前のことだ」
(多香美) 「里谷さんは悔しくないんですか」
(里谷) 「宮藤刑事の言うことはそう外れちゃいない。確かに報道なんて因果な商売だ。事件が解決すれば警察は感謝される。しかし俺たちに返ってくるのは視聴率なんて得体の知れないものだ。事件関係者からは感謝よりむしろ憎まれることの方が多い。悔しいと思う暇があるんなら、その現実を認識して引き返すことだ」
(多香美) 「引き返す?」
(里谷) 「どんな商売でもそうだろうが、その道に進もうとしたきっかけや動機に立ち戻ってみる。駆け出しの頃だから業界の常識に洗脳されてもいない。会社の社是も知らない。自分がいったい何のためにテレビの仕事をするのか、自分はこの世界で何を実現したかったのか、頭にあるのはその ことだけだったはずだ。それを思い出すだけで、案外霧は晴れていく」
 初心忘るべからず  真っ当と言えばあまりに真っ当な言葉                       3章「第誤報」 (p189~190)

赤城(帝都テレビによるえん罪の被害者)は里谷の襟首を掴み上げる。
 「警察は手錠や拳銃を持っているだけで凶暴なんだ。マスコミはニュースを流すだけで暴力なんだ。そんなこと、お前ら一遍だって考えたことないだろ」
(里谷) 「それは、ある」
 「嘘吐きやがれ」
(里谷) 「嘘じゃない……自分の追っているネタが本物かどうか、何度も自分で疑っている。オンエアの寸前まで百パーセント信用することはない」
 「だったら、どうしてあんなでまかせを」
(里谷) 「それだけ自分を疑っても、やっちまうんだよ。何故かと言えば、取材する方も大して利口じゃないからだ。手間を惜しんで自分で裏を取ろうとしないからだ。おまけに道徳家でも人格者でもない。ただの野次馬根性を社会的意義とかにすり替えて免罪符にしているだけの下衆の集まりだ」
 襟首を掴む手が緩んだようだった。
 「……それ、本気で言ってるのか」
(里谷) 「ああ。その点、君が羨ましい。職業に貴賤はないというが、俺は正直怪しいものだと思ってる。君の板金工に比べたらマスコミの仕事なんざカスみたいなもんだ」
(赤木) 「馬っ鹿じゃねーの。どう考えたってマスコミなんて花形じゃねえかよ」
(里谷) 「そりゃあ隣の芝生が七口く見える虫ハ型だ。板金てのは客の注文に応えて、要求された通りに仕しげて対価をもらう。だけどニュース屋なんて誰に頼まれる訳でもない。一般大衆からの要望、権力の監視役、社会の木鐸なんて実体の見えない、訳の分からんお題目唱えて自分を納得させているだけでね。特ダネをスクープしたところで喜ぶヤツ半分、迷惑がるヤツ半分、とどのつまりは人ン家のゴミを漁るような商売だからな。クライアント全員が喜んでくれる仕事の方がよっぽど誇らしい」
(赤木) 「そんな嫌な仕事なら、どうして続けてるんだよ」
(里谷) 「さあなあ」 里谷はすっかり力の緩んだ相手の手を解く。
(里谷) 「多分、君が板金工を続けている理由と同じじゃないか。嫌な仕事でも長年やってりや愛着が湧く。他の人間には説明できない衿持ってヤツも生まれる」
(赤木) 「……あんた、ちょっと変わってるな」
(里谷) 「よく言われる」
                  4章「粛正」(p219~220)

(里谷) 「お前は二つ間違っている」
(多香美)「えっ」
(里谷) 「まず、誤報をやらかした人間はマスコミの世界に身を置く資格がないというのは建前だ。実際、今まで誤報をやらかした記者なり報道機関が、その一点だけで廃業したり消滅したりしたことはない。誤報した後も相変わらず事件を追い、茶の問にニュースを提供している。逆にご‥えば、たった一度の誤報で生命を絶たれるようじゃ、この商売はやっていけない。まあ、それだけ面の皮が厚くなけりゃだめだってことなんだが」

 里谷は苦笑しながら首を横に振る。
(里谷) 「誤報をしでかし、多くの関係者に迷惑をかけ、自尊心がぼろぼろになっても、残った者は絶対に謝罪することを許されない。その辛さを想像もしていないだろう」
 俄(にわか)には言っていることが理解できなかった。
(多香美) 「謝罪しない……? 何、言ってるんですか、里谷さん。報道局に残された人間たちは関係者や視聴者に謝罪した上で、再起を図るはずでしょう」
(里谷) 「ああ、お前はまだ報道に来て日が浅いから、その辺のことは知らなかったな。いいか、この間BPOの勧告を食らって再発防LEL策の策定や検証番組を企画しただろう。再発防謳Lには努める、どこでどう間違ったのかも検証する。ただし絶対に謝罪はしない。それは別に帝都テレビに限らん。報道各社マスコミ全てに共通して、俺たちは謝ることをしない」 言葉の端々に自嘲の響きが聞き取れた。
 一番有名なのは朝日新聞の古田証言だ。その話くらいはお前でも知っているだろう」
 吉田証言 太平洋戦争時、軍の命令で朝鮮人女性を強制連行したという吉田清治という人物の証言を指す。吉田氏は戦時中、済州島などで慰安婦狩りをしたと証言し、1980年以降、朝日新聞はこの吉田証言を18回に亘って記事にしてきた。軍が行ったという慰安婦狩りの内容は扇情的で且つ非人道的、日本車の非道な戦争犯罪を裏づける証拠として1996年国連人権委員会のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告の資料にも採用された。
 だが、この吉田証言は吉田氏本人の捏造(ねつぞう)たった。19995年、週刊誌のインタビューで証言内容が創作であったことを本人自身が認めたのだ。
(里谷) 「本人が証言は虚偽だったと告白したにも拘わらず、それを記事にした朝日新聞は謝罪もしなかった。他の新聞社も吉田証言を真っ当な資料として取り上げることは止めたが、やはり謝罪はしなかった。口本や韓国のみならず国連を、世界をペテンにかけた記事がねつ造であったことが判明しても、訂正こそすれ決して誰も謝らなかった。戦後日本の信頼度を大きく左右させてきた要因一のつだったのに、誤報の責任を誰も取らなかった。いや、吉田証言は象徴的な一例だ。誤報をしてもマスコミは決して国民に謝罪しようとしない。何故だか分かるか」
 多香美は何も言葉を返すことができない。想像できることだが、それを口にしたら最後、自分の携わっている仕事を軽蔑したくなるような気がするからだ。
 里谷の本音はともかく、多香美はマスコミという仕事に誇りを持っている。特ダネをジャーナリストの勲章だと信奉している。だからこそマスコミの不見識は、そのまま自分の不見識であるように思えてならない。
 だが、里谷はそんな多香芙の思いを打ち砕く。
(里谷) 「謝罪すれば、自分かちの権威が地に堕ちると信じているからだ」
 ああ、やはりそれをいってしまうのか、
(多香美) 「普段俺たちは政治家や官僚を非難し、誤りを正し、人格を攻撃する立場にある。そういう立場にいる人間が易々と謝罪なんかしたら油券に係わると思っている。権威を喪失し、権力者を追及する資格を失ってしまうと怯えている。何のことはない。反権力を気取りながら、自分の権力を手放したくないだけの俗物揃いというだけの話だ」
 巨大な組織の大義名分では、本質が不明瞭になってしまうことが往々にしてある。その点、里谷の物言いは分かり易い。自分の過ちを知りながら、プライドのために謝ろうとしない。それは自意識ばかりが発達した幼児の行動によく似ている。
(里谷) 「今度の人誤報も同じだ。報道局に残された人間は自分の手と[で、何の関係もない仲田未空や赤城の人格を既めた。それを思い知っていながら局の意向で、対外的に謝罪することを許されない。俺や兵頭さんみたいに面の皮が分厚くなったヤツはともかく、お前のような甘っちょろい理想主義者には辛いんじゃないのか」
 嘲笑うような口調だが、それが多香美だけに向けられたものでないことくらいは理解できる。考えてみれば、謝罪することほど楽なものはない。申し訳ありませんでしたと深く頭を下げ、地べたに額を擦りつければ少なくとも免罪符を得られる。権威は失墜するかも知れないが、自尊心だけは辛うじて護られる。
 だが謝罪しないという姿勢は傲慢で鼻持ちならない反面、当事者たちの罪悪感を増幅させてしまう。もちろん罪悪感を無視してしまえる人間も存在するが、そういう人間は虚勢と引き換えにもっと大事な何かを失う。罪悪感を持つ者は絶えず己の醜悪さを意識しながら、取材を続けることになる。つまり謝罪しないという行為は、誠実さをも報道の義務という大義名分の犠牲にしろと強いることだ。
 多香美は戦慄した。誤報で多くの第三者を不幸に陥れながら、決して責任を取らず虚勢を張り続ける。そんな行為が果たして自分には可能なのだろうか。
(多香美) 「わたし、自信がありません」
 多香美は本心を吐露した。誰にも言えなくても、里谷にだけは打ち明けられると思った。
(多香美) 「未空さんや赤城さんにあんな仕打ちをしたっていうのに、謝ることもできないだなんて……迷惑をかけたら謝るというのが普通じゃないんですか」
(里谷) 「マスコミ人種は普通じゃない。それだけのことだ」
(多香美) 「そんなの異常です」
(里谷) 「今更、何をけっている。人が隠したがっている秘密を暴き、失敗をあげつらい、公衆の面前で恥を掻かせ、その成果を生活の糧にする。そんな職業が異常でないはずがないじゃないか。そして俺もお前も、それを承知した上で給料をもらっている。この期に及んで聖人君主ぶるな」
 里谷はそう言い放つとフロアの向こう側へ消えていった。
 いつもはそれを追い掛けるはずの多香笑も、今日ばかりはその場に立ち尽くすより他になかった。
                  4章「粛正」(p228~231)

 物的証拠が揃い、供述によって事件の経緯と動機も明らかになった。後に残された興味といえば、犯人たちに後悔の念があるかどうか、そして希薄ながらも危険を孕んだ関係がどういった過程で形成されたかの二点くらいのものだ。
(警視庁 村瀬管理官) 「成人2人はともかく、16歳少女と17歳少年は取り返しのつかないことをしたと供述しています」
(記者) 「つまり成人の二人は、未だ被害者と被害者遺族に謝罪するつもりはないということですか?」
(警視庁 村瀬管理官) 「いえ、先に挙げた二人についても後悔はしているようですが、はっきりした謝罪の言葉を口にした訳ではありません」
 村瀬がそう答えると座に変化が生じた。この場に長く居た者なら肌で感じることのできる、犯人クループヘの非難だった。4人がまだ精神的に幼く、いきなり断罪に晒されて平常心を失っていることを差し引いても、未だ謝罪の言葉を口にしないのでは、反感を買っても当然だ。
 質問をした記者はその点を確認しようとしたらしい。
(記者) 「まだ4人とも動揺して、謝罪するまでには至っていないということでしょうか?」
(警視庁 村瀬管理官) 「いえ。4人とも当初よりはずいぷんと落ち着きを取り戻し、供述の際に動揺していた様子は見られませんでした」
 再び座の空気が硬直する。雰囲気を察したのか、横に座る桐島が言葉を添える。
(警視庁 村瀬管理官) 「それについては、取り調べ中にも担当者が再三問い質してみたが、四人から謝罪の言葉は返ってこない。捜査段階で犯人に対する心証を逐一詳らかにするつもりはないが、年少者という事実に鑑みても、犯人たちの堕罪意識は極めて薄弱と言わざるを得ない」
 捜査専従班の責任者が、既に逮捕した犯人に対して怒りを露わにするのは極めて異例だ。それは取りも直さず、捜査本部の憤りをニュースに流しても構わないという意思表示でもある。
 相島の意を汲んだ報道陣のシャッター音が響く。捜査本部の憤怒を伝えることは、その尻馬に乗る形で加害少年たちへのネガティヴな報道をすることに直結する。
(警視庁 村瀬管理官) 「事件が社会にりえる影響を考えた時、その動機の解明こそが次の事件の抑止力になる。従って捜査本部は全力を挙げて、捜査を続行していく」
 フラッシュの焚かれる音を聞きながら、多香美は何故か薄気味悪さを覚える。4人の犯行グループにではなく、彼らに非難の声を浴びせようと手ぐすねひいている報道陣に対してだ。
 LINEでの希薄な関係性からでも暴力や殺意が成立することは既報の通りだ。だが、事実が目の前に横だわっていても、自分たちに理解が及ばなければ困惑が消えることはない。ここにいる報道陣は多かれ少なかれ、四人に恐怖を抱いているのだ。自分たちが過去に報じてきた犯罪、知識としてデータ化された犯罪とは性質を異にした事件に、生理的な拒否反応を示している。ややもすればヒステリックになりがちな報道姿勢は、その顕れでもある。
 彼らが謝罪の討箭を目にしないこと、良心の呵責がないらしいことは、再びテレビやネットを前にした人々の憎悪を駆りぐてる払米になるだろう。その憎悪が新たな非難を生み、その非難が別の憎悪を駆り立てる。何のことはない。マスコミ報道が彼ら四人の首に掛けられた繩を引っぱっているようなものだ。
 多香美は無意識のうちに両肩を抱いた。
                  4章「粛正」(p244~245)

 被害者の父親はこう言った。
「マスコミの連中は、他人の不幸で飯をくっているような手合いだ。」


「皮肉っぼいんじゃなく、皮肉そのものだからな」
 兵頭はひらひらと片手を振る。気のせいだろうか、降格されてからの兵頭はどことなく里谷と雰囲気が似てきた。
 少し考えてから、理由らしきものに思い当たった。
 権力だ。いや、肩書きと言い換えてもいい。肩書を持だない男、肩書を剥奪(はくだつ)された男には斜に構えたものの見方をする者が多いような気がする。それはきっと、権力というものを客観的に捉えることができるからなのだろう。あれだけ局の意向やプロデューサーの顔色を窺っていた兵頭が、今は手の平を返したように反抗心を露わにしているのは、見ていて微笑ましくもある。
                      4章「粛正」(p258)

 ここまでが事件の報道になる。だが、これに続く言葉は報道ではない。律子の名前を出さないことを条件に、多香美が椀ぎ取った5分間のスピーチだ。〈事件を間近で追い続けてきた記者の感想〉と触れ込んだが、もちろん多香美の方にはありきたりな問題提起で終わらせるつもりなど毛頭なかった。
 「事件報道のさ中、わたしたち帝都テレビは誤報を引き起こしてしまいました。まず、それを皆様にお詫びしなければなりません。わたしはその誤報の原囚を作った一人でした。こうして事件が終結に向かっている今、わたしは何故誤報が起きたのかを改めて考えてみました。結論はすぐに出ました。わたしたちが報道のあり方を間違えていたからです」
 現場スタッフの何人かが驚いていた。それも当然だろう、多香美へが喋る内容を知っているのは多香美本人と兵頭だけだった。
 「わたしは犯人捜し、真相の追及が報道の使命だと思い込んでいました。確かにそうした一面もあります。警察発表のみに頼らない独白調査と速報性、そして問題提起。でも、それを優先するあまり視野狭窄に陥ってしまいました。結果として招いたのは経験の浅さによる早合点と、扇情を売り物にした取材合戦です。そしてわたしたちの失敗は、そのまま今回の事件を引き起こした原因でもあります」
 多香美は息継ぎをして、またカメラを見つめる。
 「それは想像力の欠如です。心ない言葉を浴びせられた痛み、殴られた痛み、孤立する恐怖、無援の心細さ、自分の秘密を暴露される不安、軽口を叩いてしまった油断、そして仲間と信じていた者から暴力を受けた悲痛、たった一人の味方と信じていた者から裏切られた絶望。そうした諸々の感情を想像できさえすれば、今回のような事件は起こらなかったかもしれません。同じことは報道する側だったわたしにも言えます。報道される側の不安、実名で容疑者扱いされる理不尽さ、それによって社会的信用を失墜させられる恐怖を想像すれば、もっともっと慎重になるべきでした。そしてまた、自分かちが無意誠に行使している力の巨(おお)きさを認識するべきでした」
 里谷はこの放送を見ているだろうか。
 綾香(多香美による誤報の被害者)と真由(多香美の妹 理不尽な被害に遭い過去に自死した)は聞いてくれているだろうか。
 「報道のさ中、わたしはある人からギリシャ神話のセイレーンに擬(なぞら)えられたことがあります。船乗りたちを魅力的な歌声で惑わす、あのセイレーンです。最近は一方向の放送だけではなく、双方向多方向とも言えるネット社会が市民権を得ているので昔ほどではないのでしょうが、それでも未だにマスコミは巨大な力を備えています。少なくとも船乗りたちを間違った航路に誘(いざな)うだけの力は、です。力と責任は比例します。巨大な力を持つマスコミは、だからこそ報道した結果についても責任を負わなくてはなりません。そしてまた力をもった者がとるべき行動は、生け贄を見つけて祭壇に捧げることでも、ずかずかとト足で他人の不幸に立ち入ることでもありません、人が、組織が、国が、同し過ち同じ悲劇を繰り返さないように目を見開き、耳を澄ませることです」
傲慢を口走っているのは自覚している。これは.種の自爆テロだ。その証拠にスタッフのある者は驚愕(きょうがく)し、またある者は緊張に表情を硬くしている。覚悟を決めているのはADの兵頭くらいだが、彼とても多香美のスピーチがどこに着地するのかは知る由もない。
 たとえ直後にどんな処分が下されようとも、これを表明しなければ自分はこれから報道の世界で生きていくことはできない。誤報の被害者となった未空や赤城たちとその家族、そして綾香と真由に対して最低限のけじめをつけなければ、一人の人間として許されない。
 「同じ過ちを繰り返さないために、誤った報道は直ちに訂正され、誤報した者は直ちに謝罪すべきです。絶えず自分と組織を疑い、決して験らず、感情に訴えはしても感情に走らず、権力を手にしていても権力に阿ることのないように自らを律し続けなければいけません。ただ、どれほど高みを目指しても、またどこかで間違うかも知れません。でもその度に頭を垂れて初めからやり直します。視聴者の皆様から退場を命じられるまで、わたしは立場の弱い人々の声を拾っていきたいと思っています。以上、現場から朝倉が中継しました」言い終わって頭を一つ下げると、期せずしてスタッフの中から拍手が起きた。
 拍手したのは全員ではなく、ほんの二、三人だろう。それでも多香美は顔が火照るほど嬉しかった。
 とうとう言ってしまった。
 後悔と、それをわずかに上回る爽快感が絢(な)い交ぜになっている。
 空は憎らしいほど澄み渡っていた。多香美は空を押し上げるように、両手を高く伸ばす。局に戻れば早晩社会部長か報道局長から呼び出しを食らうかも知れない。正直、何を言われてもいい。だが報道の現場にしがみつく努力だけはしよう。好き放題を言ってそのまま消えてしまったら、ただの無責任女だ。
そして気がついた。
見慣れた男が腕組みをしたまま、中継車に凭(もた)れかかっている。
 「宮藤さん」
 仏頂面の刑事は片手を挙げて応えた。
 「どうしたんですか、こんなところに」
 「刑事に尾行や張り込みはつきものだ」
 いきなり何を言い出すのかと思った。
 「対象者から身を隠すのに一番好都合なのはクルマの中か道路側に窓のある喫茶店だ。だから喫茶店の位置はすぐに把握するようになる」
 「何のことです」
 「この辺一帯は尾行で何度も通っている」
 「だから、いったい何のつもりなんですか」
 宮藤は口をへの字に曲げた。
 「近くに美味いコーヒーを飲ませる店がある。今から付き合わないか」

                (5章 「懺悔」p314~317)

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