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クリスチャンがイエスさま無しで生きてゆく

2023年4月16日(日)芦屋山手教会 主日礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書20章11−18節(新共同訳 pp.209-210、聖書協会共同訳 p.205)
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▼ヨハネによる福音書20章11-18節

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわかりません。」
 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
 マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 イエスは、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

▼特別な女性

 みなさん、おはようございます。今日、こうして芦屋山手教会の皆さんと礼拝を共にできますことを心から嬉しく思っています。このような機会を与えていただいたことを皆さんに、また神さまに感謝いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
 私達はつい先日、先週の日曜日にイースターをお祝いしたばかりですね。ですから今日は、イエスの復活の直後何が起こったかについての、ヨハネによる福音書からの報告をお読みして、それを巡ってのお話をしたいと思います。
 まず、今日の聖書の箇所に登場するのは、マグダラのマリアという女性です。マグダラのマリアという人は、ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、イエスにとって特別な人です。
 「特別な人」と行っても、何年か前に小説や映画で話題になったダン・ブラウンという作家の『ダ・ヴィンチ・コード』という作品のように、マグダラのマリアがイエスの妻、あるいは愛人であったという意味での「特別な人」という意味ではありません。マグダラのマリアがイエスの妻、あるいは愛人であったという証拠は聖書の中にはありません。それくらい仲が良くてもおかしくないほどだということは推測できますが、確かなことはわかりません。
 ただ、近年の聖書学の研究では、マグダラのマリアこそが実は第1の使徒であり、イエスのメッセージ、イエスの意図を、最もよく理解し、実践し、伝えようとしていたのだということが明らかになってきています。
 イエスには男性の弟子たちが何人もいましたが、女性の弟子たちも同じくらい何人もいて、ガリラヤからエルサレムまで一緒に旅をして、イエスについてきていたようです。
 そして、イエスが十字架につけられて亡くなるとき、男性の弟子たちが全員逃げてしまいましたが、イエスの最期を(ローマ帝国の兵士が十字架の周りを厳重に警備していたので、多少離れた場所からではありましたけれども)看取ることができたのも、女性の弟子たちでした。
 ですから、イエスのもとには一定数の女性の弟子たちがいて、その女性たちは実は非常に強い思いを持ってイエスについてきていたのは確かだということが近年強く言われるようになってきました。

▼失われた遺体

 イエスが亡くなったその日から3日目に、イエスが葬られた墓地にやってきたのが、他の3つの福音書では複数の女性たちになっていますが、福音書によってそのメンバーが多少変わっていても、マグダラのマリアだけはその複数のメンバーの中に必ず入っています。また、今日の聖書の箇所ではマグダラのマリア1人がイエスの墓のところにやってきたことになっています。
 イエスの墓に複数の女性がやってきたか、それとも本当はマグダラのマリア1人がやってきたのか、何が事実なのかというのはわかりませんが、とにかくマグダラのマリアが特別イエスとの関係においては重要な存在であったということ。女性の弟子たちの代表的な存在であったということは間違いないようです。
 そのマグダラのマリアが、このヨハネ福音書では、イエスが葬られた墓の前で泣いていると書かれています。そして「イエスさまの遺体が取り去られた。どこに置かれているのかわからない」と繰り返し嘆いています。
 ここでわかるのは、マグダラのマリアはイエスの肉体に非常にこだわっているということです。
 これは大切な人を失った人にとっては、自然な感情ではないかと私達には思われますよね。私達自身も、自分の身内が亡くなったとき、そのご遺体を大切に扱います。ご遺体に話しかけ、ご遺体を中心に葬儀が行われ、ご遺体を焼いたお骨を大切に残して、最終的にはお墓に納骨して、その後もお参りに行きます。「お参り」といいますか、キリスト教では「墓前礼拝」という礼拝を墓地で行いますよね。ですから、お骨は大事です。
 これは古代のユダヤ人にとっても似たところがあったようで、当時のユダヤ人も最終的にはお骨を家で保管するようにしていたようです。
 当時のユダヤのお墓は横穴式の洞穴のような形をしていて、中の部屋に遺体を寝かせて安置するということは、これもご存知の方も多いのではないかと思います。人が歩いて入れるほどの高さと奥行きのある墓穴に遺体を入れて、入り口に大きな石の板を転がして閉めます。そしてそのまま放置します。
 すると、数ヶ月するうちに、遺体が腐って、肉が虫やネズミに食われて、乾燥して、やがて骨だけが残るらしいんですね。そして骨になった頃合いを見計らって、その骨を回収して箱に入れて家に持って帰るそうです。ですから、遺体とお骨というのは、古代のユダヤ人にとっても大事なものだったんですね。
 ですから、ここでマグダラのマリアがイエスの遺体を捜しているというのは、イエスに最も近かった人間としては、ごく当然のことだったと言えます。

▼見えないイエスが見えるようになる

 さて、彼女は「遺体が取り去られた。どこに置かれたかわからない」と言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」といいます(20.14)。
 イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と訊きます。すると、マリアはもう一度「遺体を見つけたい。自分が引き取りたいのだ」と言います(20.15)。
 すると、イエスが「マリア」と声をかけます。すると彼女は振り向いて「ラボニ」(先生)と言う。ここでマリアは自分が見ていた人がイエスであったと初めて気がつきます。
 イエスがそこにいて、自分もその人を見ているはずなのに、イエスだとわからない。イエスとはそれまで長い間一緒にいたはずなのに、そこにいる人がイエスだということがわからない。つまり、自分が見ているその人は、イエスのような顔や身なりをしているわけではない、ということを意味しています。
 このことは、ルカによる福音書に書かれている、エマオという村に向かって旅をしている2人の弟子たちと一緒にイエスが歩いたというエピソードと似たものを感じますね。
 ルカによる福音書ではクレオパという弟子ともう1人の弟子が歩いて旅をしているときに、やがて一緒に歩く人が現れて、彼らは話しながら旅を続けるのですが、間近で話していてもそれがイエスだとは気づかなかったという話です(ルカ24.13-35)。つまり一緒に話して、一緒に歩いている人は、イエスの姿をしていないんです。
 2人の弟子と、一緒に歩いてきた人は、夕方、宿をとって、食事のときにその人が賛美の祈りを唱え、パンを裂いて2人に渡したときに、2人の弟子にはそれがイエスだということがわかったと書かれています(ルカ24.30-31)。
 私は、これは聖餐のことを表しているのではないかと思います。
 イエスの名によって行う食事。イエスの最後の晩餐の時と同じように祈りを捧げ、パンを裂いて分け合う瞬間、そこにイエスがいるのだ、ということを表していると考えます。
 そこにいるのはイエスではない。はっきり言って、誰でもいい。しかし、祈りをもってパンを裂くとき、そこにイエスがいるということがわかる。それこそが聖餐の本質だということです。
 では、今日のヨハネによる福音書のマグダラのマリアの場面では何が示されているのでしょうか。

▼振り向けばイエス

 マグダラのマリアの場合は、「振り向くと」という言葉がキーワードです。「マリアが振り向くと」という言葉が2回使われています。2回振り向いたら、こっち向きに戻ってしまうんちゃうかと思ってしまいますけれども、だからこそ、ここで強調されているのは、物理的に「振り向いた」ということではなくて、「振り向くとそこにイエスがいる」ということなんですね。
 「振り向く」とは、自分が見ているものの見方、その視点をこれまでとは逆に向けてみるということです。今まで常識だと思っていたことを疑い、違うものの見方、違う生き方を試してみるということです。そうすると、そこにイエスが見える。
 しかし最初はその人がイエスであることに気づかない。見ているはずなのに、気づかない。それは、その人がイエスではないからです。マリアは園丁、つまり墓地のある公園の管理人だと思ったのである、と書いてあるけれども、本当にその人は園丁だったかもしれない。
 けれども、もう1度振り向くと、それが実はイエスであった、つまり相手が誰であっても、その人の中にイエスが宿っている。振り向いてみれば、誰の中にもイエスを発見することができるのだということです。
 これはいわば「靴屋のマルチン現象」とでも言いましょうか。「靴屋のマルチン」の物語を知っている方は多いのではないかと思いますが、トルストイの書いた民話ですね。靴屋のマルチンが寝ている時に、夢の中にイエスさまが出てきて、「マルチン、マルチン、明日お前のところに行くからね」と言う。それでマルチンは楽しみに待っている。
 けれどもマルチンの所にやってきたのは、雪かきに疲れたおじいさん。マルチンはこのおじいさんに温かいお茶をご馳走する。次に現れたのは貧しいお母さんとその子ども。マルチンはこのお母さんと子どもも優しくもてなしてあげる。その次に現れたのはおばさんに叱られている男の子。これもマルチンが助けてあげる。
 さて、イエスさまはいつ来てくださるのだろうと思っていたら、実はマルチンは3回イエスさまと出会っていたのだというお話ですね。
 だから、私たちは、自分が出会う人、目の前にいる人の中にイエスさまを発見し、その人のとなりびとになるために、マリアのように、「振り返って見よ」と言っているんですね。

▼すがりつくのはよしなさい

 さて、ここでイエスは、不思議な言葉をマリアにかけます。私達の今使っている新共同訳聖書では「わたしにすがりつくのはよしなさい」と書いてあります(ヨハネ20.17)。
 なぜイエスはこんな、冷たいことを言ったのでしょうか。マグダラのマリアはイエスにもっとも近かった人物です。最初にも申し上げたように、イエスのメッセージと活動を最もよく理解し、それを伝えようとした「特別な人」でした。その人に「わたしにすがりつくな」というのは、ちょっと酷ではないのかと。
 また、教祖(といっても、イエスの場合、正確な意味でキリスト教という新しい宗教を起こそうとしたわけではないので、いわゆる「教祖」というのとは違うのですけれど、要するにある1つの宗教的、そして社会的な運動の創始者であり、リーダーですね)、その人にすがりつくな、つまり、依存するなというのは、なんということなのでしょうか。
 イエスに依存するというのは、イエスに全面的に頼って生きてゆくということです。それのどこがいけないのでしょうか。なぜイエスに依存しながら生きるということがいけないのでしょうか。
 これは、マグダラのマリア1人に向けられたメッセージではありません。振り向けば、つまりイエスにまっすぐに顔を向けようとすれば、そこにはイエスではなく、誰かがいる。その誰かはイエスではない。しかしその誰かは、実はイエスが姿を変えて私の前に現れているのかもしれない。
 そして私達は、その人のとなりびとになることが求められている。そしてその時、私達はイエスにすがりつくのではなく、自分が目の前のイエスに奉仕する人間になるのだということが、ここで言われているのではないかと思われるのです。
 私達に求められているのは、イエスにすがりついて生きてゆくのではなく、目の前の人に仕えてゆくということ、そしてそれがイエスに仕えてゆくことなのではないのか、ということなのですね。

▼自由に生きよ

 そしてそれはまた同時に、「自由に生きよ」ということでもあります。
 「自由」というのは、「自」という漢字と「由」という漢字でできていますよね。「自ら」と「理由の由」です。つまり「自らの中に、理由を持つ」、「自分の行動の理由は自分の中にある」ということですね。それは何にも支配されないということです。
 宗教において、何者かに支配されるということがまかり通ると、その宗教はカルト的なものへと変貌します。キリスト教はカルトではないとお思いの方は多いでしょうが、キリスト教会でも、たとえばある牧師や特定の役員などに支配され、依存するようになると、カルト的な集団になってゆく危険性が生まれたりします。
 信仰というのは、神さまに導かれ、神さまの意志で与えられるものという面はありますが、それに対して、自由で、自発的な意志に基づいて応答してゆくという面も同じくらい強いのです。
 イエスは、ご自身に依存しようとする弟子に「すがりつくのはよしなさい」と言いました。
 イエスは、彼の思い通りに、ついてくる人を支配するということが嫌だったのではないか。イエスは、自分を信じる者たちが、自分に依存せずに、自由な、自分らしい信仰に基づいた判断で生きよと望んでいたのではないでしょうか。
 それはいかにもイエスらしい考えであるように私には感じられます。「真理はあなたがたを自由にする」という言葉をイエスは残しました。イエスは私達が、自律的に生きることを望んでおられます。
 イエスに依存せず、イエスに頼らず、自分の意志で生きてゆく。それがイエスが望んでおられることだった。イエスは、「すがりつかずに生きなさい」、「私なしでも生きてゆけるようになりなさいよ」と私達に告げているのだと読めるのではないでしょうか。
 自由に生きる。自分の自由意志で目の前の人に仕えてゆく。
 それが、とりもなおさず、イエスに仕えてゆくということになる。そのような生き方を、イエスは一番喜ばれるのではないか。
 ……と、考えられるのですが、皆様におかれましては、どのように思われますでしょうか。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 今日もあなたに与えられた生命を、生きることができますことを感謝致します。
 そして、あなたに与えられたこの生命を、私達の自由に生きることをお許しいただき、ありがとうございます。
 あなたは私達に自由をお与えになりました。そのために私達は罪を犯すこともできれば、愛に向けて努力することもできます。
 誠に不十分な者ではありますが、私達は自分の意志で、人を愛するために自分にできることをやろうと、立ち上がることができます。
 どうか私達に、依存ではなく、自立する力を与えてください。寂しいことではありますが、イエスさまにすがりつかずに生きてゆく強さを得させてください。
 この祈りを、イエスさまのお名前によってお聴きください。
 アーメン。


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