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神さまとともに、鼻歌まじりで

2022年9月4日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
イザヤ書5章1節~7節(旧約聖書・新共同訳p.1067、聖書協会共同訳p.1052)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼イザヤ書の言葉


 おはようございます。今日も前回に引き続き、真面目に聖書日課に書いている聖書の箇所に従いました。イザヤ書の第5章1節から7節、「ぶどう畑の歌」という小見出しがついているところです。
 イザヤ書というのは、旧約聖書の中でも特に重要な預言者の言葉集として注目される本です。それは、この本から新約聖書に引用されている言葉が非常に多い。新約聖書のイエスの物語に大きな影響を与えていることから、重要な預言書だとされているわけなんですね。
 たとえば、7章の14節には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がありますけれども、これはご存知の方もいらっしゃるように、クリスマスのイエス様の誕生の場面で出てくる言葉ですね。
 それから、イエスの臨終の場面は、このイザヤ書の53章に大きな影響を受けていると言われています。
 イザヤ書53章4節以降を読んでみますけれども、こんな風に書いてありますね。
 「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された」(イザヤ53.4-5)。
 「彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった」(53.7)。
 イエスの十字架の意味はここを根拠にして、「彼の死は私たちの身代わりの死だ」と解釈されるに至ったんですね。ですから、福音書の中のイエスの十字架の物語はこのイザヤ書53章と詩編22編によってできあがったといっても言い過ぎではないほど、イザヤ書というのは新約聖書に大きな影響を与えています。
 また、新約聖書に引用されているわけではありませんけれども、非常に有名な平和の言葉、イザヤ書2章4節から5節。これは私も大変好きな言葉です。
 「主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう」(2.4-5)。
 こんな風に、イザヤ書には読み進めるごとに私たちの心に響く言葉が散りばめられています。

▼愛する人のぶどう畑

 さて、今日読んだ箇所は「ぶどう園の歌」というタイトルがついていますが、この箇所自体も歌になっていて、詩の形になっています。
 「私は歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた」(イザヤ5.1)とありますので、これはイザヤが愛する誰かがぶどう畑を持っていた。で、「わたし」はその自分の愛する人のために、愛の歌を歌いながら、ぶどうを植えるんですね。
 「よく耕して、石を除き、良いぶどうを植えた」(5.2)、そして「良いぶどうが実るのを待った」(5.2)と。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうだったんですね。
 そこでこの人は癇癪を起こして、「わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ」(5.3)と言う。「裁いてみよ」というのは、「どっちが正しいのか公平にはっきりさせてくれ」というわけですね。わたしとぶどう畑とどっちに問題があるかはっきりさせてくれ、と。
 「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか」(5.4)。「俺がやれることは最大限やったのに、まだこれ以上できることがあるんかと言っているわけですね。
 「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか」(5.4)。期待していたのを全く違う結果になったわけです。
 「さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう」(5.5-9)。「おどろ」というのは薮のことですね。茨などが絡み合ってどうにもならなくなっているのが「おどろ」。
 そして「雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」(5.6)。

▼酸っぱいぶどう

 何度か、ここでも私言ったかもしれませんけれども、ぶどうというのは「命の木」なんですね。ユダヤ地方というのは、もともと海底で、何億年もの地殻変動でだんだんと盛り上がって陸地になったところなんですね。だから、死海もガリラヤ湖も標高が低いです。ガリラヤ湖の水面の標高が海抜マイナス200メートル程度、死海がマイナス400メートル程度です。
 そういうわけで、地面の中の塩分やミネラルが多く、湧き水はそのまま飲むとあまり美味しくないんですね。ぶどうの木はその飲みにくい生水を、甘く美味しい水に変えてくれる。しかもそれを発酵させるとぶどう酒になる。飲めない水を飲める水に変えてくれる「命の木」なわけです。
 今日の聖書の箇所で、ぶどうの木を植えた「わたし」は甘い美味しいぶどうができることを期待していたのに、できたのは酸っぱいぶどうであった。それで怒ってぶどう畑を無茶苦茶にします。
 そしてこの詩はやがて、このぶどう畑の話が、何をたとえているのかを明らかにします。
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚」(5.7)。
 このぶどう畑の譬え話は、イザヤが生きていたイスラエルの社会の状況がいかに乱れていたかということを非難しているんですね。
 この「主は裁きを待っておられたのに」の「裁き」は、新改訳2017という福音派でよく使われている翻訳では「公正」と訳されています。聖書協会共同訳でも「公正」と約されています。何が正しいことで、何が間違っていることかはっきりさせること。そして公平であり、正義が貫かれているかがここで問われています。しかし、人間界で行われているのは「流血」の惨事であると言われています。
 また、「正義を待っておられたのに、見よ、叫喚」とある「叫喚」ですが、新改訳2017では「悲鳴」、その前の新改訳第3版では「泣き叫び」と訳してありました。聖書協会共同訳では「叫び」です。「泣き叫び」というのが、イメージしやすいですね。

▼腐敗した政権

 「公正を期待していたのに流血、正義を期待していたのに泣き叫び」。これはイザヤが生きていた紀元前8世紀頃、南王国ユダでの政治の状況だったんですね。
 私、いま南王国と言いましたけれども、イスラエル12部族連合の統一王国は紀元前10世紀にダビデ王のもとで成立して、その息子のソロモン王の時代に絶頂期を迎えるんですけれども、そのソロモン王が亡くなった後、王国は北の10部族と南王国の2部族に分裂して、南北朝時代を迎えるんですね。
 その時、南王国の方はユダ族がメインだったので、南王国そのものを「ユダ」と呼びました。北王国の方が昔ながらの「イスラエル」という名前を受け継ぎました。南のユダ族がその後のユダヤ人の先祖に当たることになります。
 北王国はこの紀元前8世紀頃には更に北の方にあるアッシリア帝国というところに征服されていました。南王国の方はかろうじて独立を保っていたんですけれども、エジプトなどと軍事的に力を借りようとしたりしながら、アッシリアからの侵略をかろうじて食い止めている。しかし、イザヤはいずれアッシリアによってユダも大きな被害を受けるであろうと警告していたようです。。
 イザヤが批判するように、当時のユダ王国は王も官僚も腐敗しきって、危うい政権運営をやっていたようです。この今日読んだ5章も半ばまで読んでゆくと、「災いだ、酒を飲むことにかけては勇者、強い酒を調合することにかけては、豪傑であるものは」(5.22)。
 「これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し、正しい者の正しさを退ける」(5.23)といった言葉にも、その腐敗ぶりが表れています。
 腐敗した危うい政権運営といえば、私たちの今の日本でも他人事ではありません。政治権力がカルトに乗っ取られているような状態。30年間上がらない給与水準。子どものうち7人に1人が貧困家庭。10代~20代の最大の死因は自死。社会保障のために使うと言って消費税を増税してきたはずなのに、社会保障は削減されていく。その代わり軍事費は倍に増強される。そして、カルトで大騒ぎしている間に、その裏では高額医療費制度が廃止される方向で着々と検討が進んでいるという話も耳にします。
 政治が悪い方にしか行かない!
 イザヤが今の日本にいたら、どのような預言をするでしょうか。

▼鼻歌を歌いながら上機嫌で

 イザヤは人間界が流血と泣き叫びに満ちている現状に対して、「神が怒っている。神に滅ぼされるぞ」と警告を発しているんですね。
 創世記の天地創造物語には、神は世界を本来良いものとして創られたと書いてあります。地上は神さまのお気に入りのぶどう畑であり、ここでのぶどうは私たち人間だったわけです。しかし、人間が良い実をつけず、この世を流血と泣き叫びの世界に変えてしまった。
 これに対して、神さまは大きな滅びをぶどう畑に与えますが、そこには神さまの嘆き悲しみが表れています。ここで神は怒っていうのですが、その根底にあるのは、人間に裏切られた悲しみではないでしょうか。
 7節には、「主が楽しんで受けられたのはユダの人々」とあります。最初の方1節でも「わたしは歌おう。ぶどう畑の愛の歌を」をいう喜びに満ちた描写にもあるように、神さまが鼻歌でも歌いながら人間を作ってこの世に置いた様子が浮かんできます。そして、上機嫌で人間が良い世界を作るのを待っておられたということなんでしょうね。
 しかし、人間はその期待を見事に裏切ってしまったわけです。
 ここで人間を罰する神さまの姿に、ノアの箱舟の物語が重なって見えてきます。ノアの箱舟の洪水の物語でも、人間のやることなすことが悪いことばかりなので、一旦神は人間を地上から一層しようとしてしまいますよね。
 人間というのは一体神にとって何なんでしょうか。人間は神の失敗作だったんでしょうか。神さまは自分で人間を作って、人間のやることに怒って罰したりしますよね。そんなんだったら、最初から神は人間を、自分の言うことを聞く、なんでもコントロールのできるロボットとして作っておいたらよかったんじゃないか……。
 しかし、神さまはそうはしなかったんですね。自由な者として人間を創られた。その結果、アダムとエバは食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまうことになるんですけれども、人間が神との約束を破れるような自由も与えていた。
 人間が神の失敗作かどうかはともかく、人間に自由を与えていたのは、神さまの失敗だったかも知れません。人間は自由も含めてとても良いものとして創られていたんですけれども、それ自体が神の失敗だったと言えないこともないです。しかし、それでも神さまは人間に自由を与えたかったんですね。
 それはなぜでしょうか。

▼自由な者が自発的な愛を

 きっと神さまは人間が自由に、自発的に愛の人生を送ろうと待っておられたのではないでしょうか。
 愛や平和や公正や正義というものは、神のような超越的な存在から強制されて実現するものではなく、自由な人間が自発的に行うから意味があるのではないでしょうか。自由な者が自発的にお互いを愛し、公正を実現、正義を実現するのでないと意味がない。
 だから神さまは人間が自分で甘い実をつけることを期待しているのではないかと思います。
 人間は自由な者です。だからこそ、恐ろしいことを行う危うさも持ち合わせています。その危うさの方向に進んだ時、私たちは自分たちが流血と泣き叫びの世界に生きることになるだけでなく、神さまをも嘆かせ、悲しませているのだということを思い描いてみてはいかがでしょうか。
 イザヤはユダ王国が滅ぼされることを預言しました。しかし、私たちは現在、この世がどんなに乱れようが、神さまが沈黙しておられることを知っています。沈黙しておられるということは、そこまで人間の自由に任せられているということになるのではないでしょうか。
 いまここで、私たちが心に思い描かなくてはならないのは、造り主である神さまが、鼻歌まじりに上機嫌でぶどうを畑に植えていった姿です。
 それと同じように、私たちも神さまと一緒に鼻歌まじりに上機嫌で、愛と平和と公正と正義の種を蒔いてゆく。そんな世界を再び実現させるために少しずつでも私たちが何かできないだろうか。今私たちにできることは何なのだろうか。そんなことを今日の聖書の箇所から、私は思わされます。
 皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。
 祈ります。


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