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人生終えても宝物

2022年11月20日(日)徳島北教会 永眠者記念礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書17章3節節(新約聖書・新共同訳 p.202、聖書協会共同訳p.197)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志の方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼ヨハネによる福音書17章3節

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

▼3週遅れの永眠者記念礼拝

 おはようございます。今日は3週遅れの永眠者記念礼拝です。通常多くの教会では11月の第1日曜日の永眠者記念礼拝を行いますが、私の仕事の都合で、このような日程になりましたこと、申し訳ありませんでした。
 今日は、私はリモートで参加していますけれども、礼拝堂の方ではお花が用意されているのではないかと思います。ご奉仕ありがとうございます。今日はお二方のお写真が礼拝堂にあるのではないでしょうか。私たちより先に天の神さまのもとに戻られた方々と共に礼拝を献げることができますことを感謝いたします。
 今日は、聖書の言葉から「永遠の命」ということについてお話してみたいと思います。

▼永遠の命は神とイエスを知ること

 今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書17章の3節です。もう一度お読みします。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17.3)と書いてあります。
 今日の聖書の箇所は、1節にあるように「父よ、時が来ました」(17.1)という言葉から始まるイエスの祈りの言葉です。そしてイエスは、ご自身を通して「栄光を現してください」と願い、また栄光を現すために自らが努めてきたことを告白しています。「時が来ました」と言って、これまでの自分の歩みを振り返っているので、これはイエスが自分の死を意識した祈りであると考えることもできます。
 実際この部分の言葉は、イエスがこの世とお別れするにあたって弟子たちに言葉をかけている「訣別説教」と呼ばれる部分の後に続いています。「父よ、時が来ました」というのは、イエスがいよいよ十字架にかかるということを示しています。
 そのようなイエスの祈りの中で、今日お読みした3節だけが、やや奇妙な感じを受けます。ここだけが少し浮いています。
 と言いますのも、ここで「永遠の命とは、あなた(神さま)とイエス・キリストを知ることです」と言っています。イエス自身が「イエス・キリストを知ることです」(17.3)と言っているので、奇妙な言葉遣いだなと思うわけです。
 そこで、この1句だけは、イエスより後の時代に、ヨハネが属していた共同体の中で作られた、「永遠の命とは神とイエスを知ることだ!」という信仰告白のような言葉がここに挿入されたのかもしれない、と言われています。

▼竹林

 ここで大事なことは、「永遠の命」とは、ただいつまでも長く生きていることだとは言われていないということです。「永遠の命」と「永久の生」とは違うのですね。
 人の命は早かれ、遅かれ、いつかは終わります。そして終わってしまって脳が死んでしまったら、もう二度と生き返ることはないであろうということは、私たちは昔の人と違って、科学的な真理として知ってしまっています。
 ですから、地上の生に始まりがあって終わりがあり、終わったらもう始まることはないのだという宿命は認識しておかないと、私たちは次へ進むことはできません。また、そのことを認識しておくことが、今生きている、限りある生を大切にすることにつながっていくと思うんですね。
 でも、前にも話したかもしれませんけれども、私は、人の命は、竹林のようなものではないかと思っているんです。
 目に見える部分で1本1本別の竹のように見えていますけれども、根っこの部分ではつながっています。根っこは神さまの命です。つまり、私たちは同じ神さまの生命の源から生まれ出てきたものではないか、そして互いに見えない部分では繋がりを持っているのではないかということです。
 1人1人の命は一見無関係にバラバラに生きているように見えて、実はみんな神さまの命から別れ出てきたもの、みんな神さまの命の一部を生きているのではないかと思うんですね。もっと言うなら、私たちは皆神さまの分身であるということです。
 これは、旧約聖書の創世記で神さまが「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創世記1.26)と書いてある。つまり訳しかえると、「神のイメージどおりに、神のコピーとして人間を造ろう」とおっしゃたと記されていることにも通じます。
 また、ユングという人が彼の心理学で「全ての人間は無意識の深い深いところでは同じ心の内容を共有している」と唱えたことにもヒントを受けて考えています。
 私たちは、みんな神さまの子どもであり、神さまの分身であり、また逆に言うと、私たちひとりひとりの命が神さまの命を構成しているとも言えるんです。
 だから私たちの1人1人は地上に生えてきて、寿命の短い長いはあるけれど、いずれその1本の竹は枯れても、命は根っこに戻っていくと喩えられるのではないかと思うんですね。

▼与えられた命を生きる

 私は、よく「今日もあなたに与えられた命を生きることができますことを感謝します」というフレーズをお祈りの始まりで唱えることがあります。学校で生徒さんの前でお祈りする機会がたくさんありますので、生徒さんたちは「ああ、またこのフレーズか」と思っている人も多いと思いますけれども、まあ実際自分の中でも非常に大切にしている思いなので、それが言葉に出てしまうわけです。
 「今日もあなたに与えられた命を生きることができていることを感謝します」と言う時、自分がイメージしているのは、自分の命は自分のものではなく、与えられた神の命の中で生かさせていただいているということです。
 それは、自分は神さまの永遠の命の中で、自分がその一部を生きさせていただいているということです。この世に生きていても、亡くなったとしても、同じ神さまの生命のなかに存在している。神の永遠の命は続いていて、私はその一部を生きさせていただく。
 そのことを自覚することが、「神を知ること、またイエス・キリストを知ることが永遠の命である」という今日の聖書の言葉の意味なのではないかと考えているんですね。先に逝った人たちと私たちとは大元では同じ命を生きているんだなと思っているわけです。
 もちろん、だからといって、逝った人と再会したいがために、早く世を去りたいというのは、先に逝った方々の喜ぶところではないでしょう。
 この世に生を受けたということも、この世を去るということも、それぞれ神さまの意図があってのことでしょうから、全てに意味があると信じたいです。
 ヨブ記にも「主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」(ヨブ1.21)と書いてありますが、それにも通じますし、コヘレトの言葉にも、「すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある」(コヘレト3.1-2)とも書かれていますから、神が定めた時に私たちは逆らえないものだということなのでしょう。
 また、イエスもマタイによる福音書で言っていますが、雀の「1羽でさえ、あなたがたの父のお許しななければ、地に落ちることはない」(マタイ10.29)とあります。つまり、生まれるにも死ぬにも神の許しがなくてはならないのであり、私たちは勝手に生まれてきたわけではないし、勝手に死んでもならない。人の生き死には神のみが知る領域だということなのでしょう。
 私たちは、神が定めた時間のあいだ、神に分け与えられた神の永遠の命の一部を分けていただいて、それを生かさせて頂き、また時が来れば神さまの命の中に帰ってゆく。私たちは既にある永遠の命の一部を構成する一員なのだと思います

▼愛されるためにそこにいる

 以前私は、聖書の中で出てくる、「永遠の命を得る」という言葉を少し誤解していました。
 もちろん、「永遠の命」が「永久の生」のことではないということはわかっていました。しかし私は、これは「ただ呼吸をして生きているだけの生き方ではなく、本当の生き方というものを掴むことだ」と考えていました。
 「本当の生き方」というのは、神さまを知り、自分の生きていることの本当の意味を自覚し、悔いのないように生きること……」などといったことを思い描いていました。
 ただ生きているだけ、呼吸しているだけ、何のために自分が生きているのかわからない、虚しい人生を過ごしているだけの人間は、本当の意味では「生きて」いない。それはつまり聖書で言うところの「滅んでいる」状態だと思っていました。そして、神さまに与えられたミッションを知り、そのために自分の人生を使うことが「命を得る」ということだと思っていました。
 よく「『使命』というのは『命を使うこと』です」という言葉を耳にすることがあります。それも一面では正しいのでしょうし、どんな人間も神さまの何らかのご意志があって存在しているのでしょう。
 けれども近頃私は、「この世で自分の意志で、自分の命を使う」、「自分が使命だと思ったことを成す」ということがそんなに重要な意味を持つのかな? そんなことはあまり問題ではないのではないかな? と思うようになりました。
 人は何をしなくても、神さまに愛されているし、愛されるために存在している。それで良いのかなと思うようになりました。お腹の中にいる時であろうと、子どもであろうと、大人であろうと、お年寄りであろうと、認知症を患って自分が何者であるかわからなくなっても、あるいは意識を失ってしまっても、そしてたとえ亡くなってしまっても、その人は神さまに愛された人間であり、愛されるために存在しているのではないかと今は思います。

▼人生終えても宝物

 借り物の言葉になりますが、こういう言葉を看板に張り出した教会があったのを見たことがあります。
「子どもは天の宝物
 大人も天の宝物
 年をとっても宝物
 人生終えても宝物」
 子どもであっても、大人であっても、年老いても、人生が終わっても、みんな神さまの宝なのだ。この言葉に尽きると思います。
 どんな状態、どんな状況にあっても、この世にいてもいなくても、同じように神さまに宝物として愛してもらえるというのは、どんなに安心できることでしょうか。
 私も宝物。先に逝った人も宝物。みんな天の宝物。そうやってつながっていて、いずれは私も後を追って天に帰ってゆく。神の永遠の命の中に戻ってゆく。みんなが宝物です。
 祈りましょう。

▼祈り

 私たちの命の源である神さま。
 また、私たちが帰るべき家を用意してくださっておられる神さま。
 本日、こうして多くの方を交えて、永眠者記念礼拝を持つことができますことを感謝いたします。
 あなたによって与えられた命を大切に生きることができますように。
 この世にあっても、あなたのもとにあっても、同じあなたに繋がっている者、あなたに愛された者として、感謝いたします。
 また、既にあなたの御もとで憩っている方々を、私たちがいつも愛していることをお伝えくださいますようにお願いをいたします。
 命は宝です。この宝を大切に生きてゆきます。
 全てをあなたにお委ねし、イエス様のお名前によって祈ります。
 アーメン。


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