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置き土産を大切に置いておく

2024年11月10日(日)徳島北教会 召天者記念礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書14章25-27節(新約聖書・新共同訳 p.197-198、聖書教会共同訳 p.193-194)

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
 わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

新約聖書:ヨハネによる福音書14章25-27節(新共同訳)

▼人は死ねばどうなるのか

 おはようございます。今日は年に一度の召天者記念礼拝で、既に神さまのもとに戻られた方々を思い起こし、今この地上にまだ生きている私たちと共に、神さまの守りのもとにいることを思い起こす日を迎えています。
 これまで神さまのところに帰られた方々は、どのように神さまのもとで過ごしておられるのでしょうか。
 伝統的なキリスト教では、いつか来る世界の終わりを迎えた時に、イエスさまに呼び起こされて、眠りから覚めるとされているようです。つまり亡くなられた方は、眠りについているわけです。「永眠」つまり「永く眠る」という言葉はこういうところから来ています。
 これに対して、亡くなられた方々は霊の体となって、神さまのもとで安らかに生活しておられる、という見方もできます。
 というのも、例えば、新約聖書のマルコ福音書12章15節には、イエスさまが「人は死んだら天使のようになるのだ」と語っておられるところがあります。天使のようになるというのが、ちょっとどういう状態なのか、私たちにははっきりとはわかりませんが、何か身軽な、全ての苦しみから解放された、自由で軽やかな存在になるのかな、というふうに、想像が膨らみます。
 そして、天使のようになる、ということは、永遠に眠るというイメージとはちょっと違う。天使のように神さまに近いところで、生きてゆくという感じがするのですね。
 あるいは、イエスさまは、人が亡くなったときのために、神さまのもとに住むところを用意しておく、といったことを言う場面もあります。「わたしの父の家には住む場所がたくさんある」と今日読んだヨハネ福音書の14章の最初に書いてあります。
 聞けば、この「住む場所」という言葉の原語のニュアンスでは、高級マンションのようなイメージの言葉だそうで、この世を去った人たちのための、高級マンションのような集合住宅ができあがっている、というのが、どうもイエスさまの死後の世界のイメージらしいんですね。
 そういうわけで、私としては、私たちよりも先に神さまのもとに帰っていった方々は、案外羽振りよく暮らしていて、私たちがジタバタとこの世で生きているのを、「あーあ、大変そうに。おつかれさん」と見下ろしておられるのかなと、そんな風にイメージしているのであります。

▼置き土産

 ところで私たちは、ある場所を去って行くときに、「置き土産」というべきものを置いてゆくことがあります。
 「置き土産」という言葉を調べると……
 「誰かが去った後に残していくお土産や思い出、影響。訪問先を去るときに残していくものや、意図せずに後に残されたものを指す」とのことです。
 「訪問先を去るときに」というのがいいですね。この世は仮住まいであって、私たちは神さまから送り出されて一時的にこの世に生きているのであり、この世を去るときのことを「帰天」つまり「天に帰る」という言葉で表現する。そういう感覚にも相通じるものがあります。私たちは、この世にしばらく身を置いている訪問者なのですね。
 そして、その訪問先を去る時に、意図的に、あるいは意図せずに何かを残してゆく。それが「置き土産」と呼ばれるものなのですね。
 そして、調べたものによりますと、まだ続きがあります。
 「置き土産には、ポジティブな意味での『楽しい思い出』や『良い影響』だけでなく、時には『問題』や『トラブル』のようなネガティブな意味合いも含まれることがあります」と書いてありました。
 なるほど、ありがたい置き土産もあれば、ありがたくない置き土産もあるということなんですね。
 私たちに身近な亡くなった方が残していった、今も自分たちの身の回りに置いている置き土産とは、どんなものでしょうか。
 それは、ありがたい置き土産ですか? それども、「問題」や「トラブル」のような置き土産でしょうか?

▼イエスの置き土産

 今日、お読みした聖書の言葉は、イエスさまがこの世を去る前に、お弟子さんたちに語った言葉。ある人によれば「決別説教」とも呼ぶべきものだそうです。「説教」というのは、キリスト教の礼拝でのお話を言いまして、この私が話しているお話も、徳島北教会流に言うと「説き明かし」ですが、他の教会では「説教」とも呼ばれます。今日の聖書の箇所は、イエスさまのお別れのお話なんですね。
 ここで、イエスさまは「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14.26)とおっしゃっています。
 イエスさまがこの世に生きている間、たくさんの言葉を残していきましたが、その言葉も置き土産です。その置き土産を忘れそうになった時でも、聖霊、すなわち神さまからの霊の力が思い出させてくれるよ、と言っているのですね。
 そして続けてイエスさまは、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(14.27)とおっしゃっています。
 つまり、イエスさまの置き土産というのは、イエスさまの生前語った言葉、あるいは行いの記憶だけでなく、「平和」というものでもあるのだ、ということなんですね。
 この「平和」というのは、「平安」という訳し方もされている言葉です。ですから、社会的な意味で争いが無いという状態のことも指しますが、それと同時に「心の中が安らかである」ということも指しています。
 ですから、ここではイエスさまは、「自分がこの世を去っても、あなたたちの心の中に、安らかな思いを残してゆくからね」と言って逝かれたわけです。

▼遺品の整理

 さて、イエスさまの置き土産は「平和」「平安」「安らぎ」でした。しかし、私たち人間の置き土産は、そのように安らぎに満ちたものでしょうか。
 先程も少し触れましたように、私たち人間の置き土産は、必ずしも美しいものや喜ばしいものではありません。「立つ鳥跡を濁す」ということも人によってはあるかもしれないし、今生きてここにいる私たち自身もまた、余計な置き土産を残していってしまうかもしれません。
 いま、皆さんの手元にある置き土産は、皆さんにとって、嬉しい置き土産ですか?
 もちろん、しみじみと嬉しい置き土産もあり、あまりありがたくもない置き土産もあり、入り混じっているという方もいらっしゃるかもしれませんよね。
 目に見える置き土産は、一般的には「遺品」と呼ばれますが、この遺品を整理したり処分したりするのに、どなたも苦労するみたいですね。ご遺族の方々の性格や考え方にもよるでしょうけれど、亡くなった方の思いが詰まっている、それを手に取ると一緒に生きた日々が蘇る、となると簡単には処分しにくいです。
 しかし、引っ越したり、家族構成が変わったりするよるような生活の変化が起こると、どうしても処分しなければならない物も出てくる。苦しい選択だと思います。だから、そういうことは、いっそのこと第三者や業者に任せてしまうという考え方の人もおられるようですね。
 また、そういう形で遺族が困ることのないように、生前から終活の一環として断捨離をする方もおられます。
 でも、見える物の断捨離はできても、見えないものの断捨離はできませんよね。
 そして、遺された者にとっては、記憶が残る限り、見えない遺品、断捨離できない置き土産と向き合う日々は、続いてゆくわけです。
 記憶は場所を取りませんから、断捨離する必要はありません。
 そしてその記憶を、時々引き出しから取り出して眺めてみるような時を持つ。それを教会の仲間と共にしてみる。それが例えばこのような召天者記念礼拝のような時なのであろうと思います。

▼置き土産と向き合う

 私たちには、いつまでも残しておきたい温かい思い出があります。その置き土産は、いつでも私たちの心を慰め、今私が生きている人生を支え、与えられた時間を大切に生き切る望みを導いてくれます。
 しかし、たとえ、置き土産が当座は喜ばしいものではなかった場合でも、時間はかかるけれども、やがてそれを赦せるようになってゆくということもあるのではないかと思います。
 そういう意味では、いつかは人間はこの世と別れを告げなくてはならないというのも、考えようによっては悪いことではないかもしれません。別れを告げて、距離を取れば、苦しみの思い出も次第に癒やされ、やがて平和が訪れる日も来るのではないでしょうか。
 それには、相当に時間がかかる場合もあるでしょうけれど、断捨離できなかった、どんな置き土産も、解決できなかった記憶も赦せて、いつかは全てを受け入れることができて、「平安の置き土産」に変わるということを、私は信じていたいと思います。
 どんな人でも、置き土産には平安の希望がある。それを信じて、私たちはこの世を生きてゆきたいと思います。
 願わくば、皆さんが心の中の全ての置き土産が、私たちの平安につながるものでありますようにと、心から願っています。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り

 私たちひとりひとりに、この世を生きる命を与えてくださった神さま。いつも、私たちを導き、守ってくださり、今日を生きる希望を備えてくださっていることを、心から感謝いたします。
 そして今日、こうして召天者記念礼拝を持つことをお許しいただき、今はあなたのもとにおられる方々、今もこの世で生きる方々と共に、懐かしく顔を合わせることができますことを、感謝いたします。
 神さま、どうかあなたのもとにおられる方々を慈しんでください。皆さまが平安な日々をあなたのもとで送られていることを願います。
 また神さま、私たちの日々を平安で満たしたものにしてください。いつかはあなたのもとで再会することになる方々に喜んでもらえるような人生を送ることができるように、私たちを導いてください。
 今日、ここに集まった愛する人たち、おひとりおひとりの胸にある思いと合わせ、イエス・キリストのお名前によって、この祈りをお捧げいたします。
 アーメン。

(今回の説き明かしの動画はありません。)

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ぼやき牧師|富田正樹
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