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愛も休み休みにしろ

2023年10月15日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
創世記2章1−3節(旧約聖書・新共同訳 p.2、聖書協会共同訳 p.2)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼創世記2章1-3節

 天地万物は完成された。
 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(新共同訳)

▼神は7日目に休まれた。

 皆さん、おはようございます。
 今日は2週間前に読んだ聖書の箇所と一部被っています。前回は1章1節から2章3節まで読んでいましたけれども、今日は2章3節だけです。前回とは違ったテーマでお話をしてみたいと思います。
 今日のテーマは「休み」です。
 今日の天地創造の物語では、神さまは6日間の仕事の最後、7日目に休みを取ったとされています。それでユダヤ人は、週の7日目、土曜日を安息日として、休むということになっています。
 この物語は、紀元前6世紀後半ごろの、バビロン捕囚という強制連行からユダヤ人がパレスティナ地方に戻ってきた頃の話だと思われます。「まつりごと」つまり、神への信仰と政治が一体化した時代で権力を持っていた祭司という聖職者の階級が支配しており、祭司がこの物語を使って、民衆を教育して、週に1度の休みを取るように教えたと考えることができるわけです。
 これは私が何度もあちこちで言ったり書いたりしていますけれども、この週に1日休むというのは、画期的な発明なんですね。それまでは、労働者も奴隷も、毎日休みなく働かされていたわけです。しかし、祭司たちは、週に1日休みの日を取るほうが、実は生産性が上がるということを発見してしまうんですね。そこで、「神さまも1週間の最終日に休まれたのだから、みんなも最終日には休め」と命令したわけです。

▼休めない仕事

 皆さんは、「休み」というものをどうとらえていますでしょうか。ちゃんと休める時には休んでいますか?
 私は週に1日か2日はだらだらした日を過ごさないとダメな人間です。ものすごく忙しそうに見えるという方もいらっしゃるみたいですけれども、実は週に1日はだらだらしています。そうでないともたないです。

 実は休まない、休めない仕事についてのYouTubeの海外の動画があります。
 「We made a fake job.」というタイトルの動画です。ひょっとして観た方もいらっしゃるかもしれません。仮想の仕事の面接をするという設定で、ネットと新聞で人材募集して、そしてZOOMで面接をしているのを録画しているという動画です。
 どこかの人事の面接の担当者がこう言います。
 「まずは仕事の内容からお伝えします。これは簡単な仕事ではありません。とても重要な仕事です。役職は、現場総監督です。でも実際はこの役にとどまりません。仕事上の責任はとっても広範囲です。あなたが任される役職はとても流動的です。しかも、ほぼすべての時間、立って仕事をします。立ち作業と屈んだ姿勢で作業し、とても体力を必要とします。」
 面接を受けている人が質問します。
 「何時間くらいの勤務時間ですか?」
 人事の担当者は言います。
 「週に135時間か、それ以上」(つまり1日20時間程度)「基本的に週7日、毎日24時間」
「でも、途中で座ったりできるんですよね?」
「休憩時間ですか? 休憩時間はありません」
「それは合法なの?」
「もちろんです」
「オーケー、ランチは?」
「ランチは全ての同僚が食べ終わって後です」
「いやあ、それはちょっとひどくないかな? そんなのおかしいですよ」
「この役職は交渉力と交際の力が求められます。そして私たちが必要としているのは、医学と金融と栄養学に通じている人物です。複数の役職を兼任することが求められます。常に周りに注意を払い、時には同僚と徹夜ということも。ひとときも眠ることもなく。大変な仕事をするのですから、あなたの私的な時間は諦めてもらいます。事実上、休みなしです。感謝祭、クリスマス、正月、などなどは仕事量がもっと増えます。やりがいのある仕事でしょう?」
 「すばらしい。ひどい話。笑えないジョークね」「非人道的よ」「狂ってるわ」と面接を受けた人たちが口々に言います。
 「あなたが作る人間関係や、同僚を助けるといったことは、お金に換算されません。……それで給料ですが、あなたがこの役職で得られる給料は、ゼロです」
 「いまなんて言った?」「タダ働きってこと?」
 「ボランティアのような感じで、完全無給です。もし私が、現実に、今もまさに、この職についている人がいると言ったら? 数十億人くらいがね」
 「誰ですか?」
 ……ここまでお聞きになって、この現場総監督と言われた職業が何か、分かった方が多いのではないかと思います。
 この人事担当者が、その仕事をしている人が誰かを言うと、多くの面接を受けていた人たちが「確かに」と涙ぐみました。

▼母親に休みがあれば

 これを観て、私は自分の母のことを思い出しました。私は母に9割感謝していますが、1割可哀想だったなと思っています。いや8割、2割かもしれません。2割は可哀想という思いと罪悪感、そしてもやもやした怒りのような感情もちょっとだけ混じっています。
 私の母は22歳で私を産みました。とても若いお母さんだったんですね。そして、26歳の時に弟を産みます。20代前半から半ばなんて、まだまだ若者ですよね。今の私の年齢からみれば、子どもに毛が生えたようなものです。
 そして、息子たちが思春期を迎えた頃の難しい時期を過ごしたのが、30代半ばです。私のところの子どもは私が32歳の時に生まれていますから、10年の差があります。自分でもうまく子育てができたとは言えないし、まだまだ若者だと思っていた時に、もうすでに中学生の難しい時代の男の子を抱えていたのですから、並大抵の苦労ではなかったと思います。
 父親は育児には全くと言っていいほど関わらない人で、全て母親任せだったというのも、母親がしんどかった原因でした。おまけに、父親は言葉の虐待がひどい人で、毎日のように家族に向かって怒鳴り散らしてストレスを解消しているような人でした。
 そんなある日のこと、母親が(本人は忘れていると思いますが)、包丁を研ぎながら、泣いていました。そして、泣きながら、我々兄弟に「あんたらさえおらんかったら……あんたらさえおらんかったらなあ」とつぶやいていました。「ぼくらさえいなかったら、母親は苦しまなくてもよかったんかなぁと、生きていることがいかんのかな」と思わされましたし、そう言いながら包丁を研いでいるのが怖くて、このまま殺されるか、母親が自死するんじゃないかと震えたのを、昨日のことのように憶えています。母親はたぶん今は忘れてると思いますけどね。
 あの時、母親が週に1日でも、完全休養日があったら……だいぶ変わっていたのではないかなと思います。もっともそんなことは非現実的だという人もいるかもしれませんが、最近の若い夫婦の中には、朝から夕方までお父さんが子どもと一緒にいて、お母さんが外に出かけて自由な時間を過ごすということをやっている夫婦もあるようなので、そういうところでは、だいぶ問題がマシになっているのでしょうね。でもまだまだ少数派ではないかと思います。
 母親という仕事の労働環境が改善されれば、子どもが傷つくことも少なくなるのではないかなあと、自分の個人的体験からは思います。

▼愛にも休みが必要

 今私は、人を愛する仕事をやっていると思います。教師というのは、究極的には生徒を愛する仕事だと思うんです。
 教師は教室できれいごとを教えるのが仕事と思っている人が世の中には多くて、時々閉口してしまう時があるんですが、実際には授業なんて仕事の半分くらいで、あとの半分、あるい半分以上は学校内の生徒対応など、詳しいことは言えませんけれども、解決しなければいけない問題が毎日のように次から次へと起こるんですね。
 教師の仕事はAIにとってかわられるなんて言う人がいますけれども、それは授業のことしか見てない人の言う事であって、実際にはとても無理だと思います。
 そういう仕事をするには、根性とスキルと経験が必要だと痛感する毎日です。そして、それがいかに自分に足りないかを毎日思い知らされています。そして、本当は自分のことだけではなく、周りの人にも気遣いができたらいいのに、自分のことで精一杯、その自分の仕事にも満足できていない。
 愛を実践するには根性とスキルと経験が必要。これが日々の仕事の中で私が感じていることです。
 そして、それに加えて、私が必要だと思うのが、「休み」です。
 根性とスキルと経験が必要な愛の実践を休みもなく続けていたら、長くはもちません。だから休まないといけない。
 しっかり休んでこそ、再び生徒を愛そうという気持ちに力が蘇ってきます。
 休み休み愛しなさい。しかし、休んだらしっかりやれ。手を抜かずしっかりやれ。そしてまた休め……ということだと思います。

▼休ませてあげよう

 新約聖書の中で、イエスさまは「疲れている人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっています(マタイ11.28)。ありがたい言葉だと思います。イエスさまは、休みを知らずに働き続けている人に、「休みなさい」とおっしゃっているんですね。
 イエス様の時代には、ユダヤ教の安息日というのは、守らなかったら神に罰せられるという風に教えられる掟に変わってしまっていました。
 本来、今日読んだ創世記の記事は、「神さまが休んだのだから、あなたがたも休みなさい」という趣旨だったんですね。しかし、それがユダヤ教の「律法」と呼ばれる掟になると、「休まないと罰せられるぞ、呪われるぞ」という風に硬直化してゆくわけです。
 そして、「休みなさい」と言われても、実際には休めない人たち。たとえば、羊飼いのような生き物相手の仕事だと、休んでしまうと羊たちの世話ができないので、休まなかったと言われていますが(交代制で休んだとしても、みんなが一斉に土曜日に休むということはできなかったでしょうね)、そういう安息日を守れない人たちは、「罪深い人びと」「神に呪われた人びと」として差別されていたんですね。
 つまり、安息日は豊かに生きる力を取り戻す日ではなく、呪いの日にされてしまっていた。
 そんな人たちに、イエスは「私のところに来なさい。休ませてあげよう」と声をかけたんですね。「安息日でなくてもいいじゃないか。休みたい時に休め」というわけです。

▼安息日の主

 イエスが安息日に対して、自由にふるまっていたことも聖書に書かれています。
 イエスが安息日に人を癒したときに、保守的な人たちが「安息日にやってはいけないことをやっている。安息日に仕事をしている」と批判しようとするんですね。すると、イエスは「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言います(マルコ3.4)。本当は何もしてはいけない日なんですけど、「何をすることが許されているのか」と言うことによって、思考停止に陥っているしまっている相手を黙らせてしまっていますよね。
 他にもイエスは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言います(マルコ2.27)。そして更に「人の子は安息日の主である」と言います(マルコ2.28)。
 この「人の子」というのが、イエス自身のことを指していたのか、それとも文字通り「人間の子」つまり人間そのものを表しているのかは、意見が分かれますけれども、いずれにしろ、「私が、あるいは私たちが安息日の主人なんだ」と。
 「安息日で人を支配するのではなく、大事なのは人が休むということである」という、最初の旧約聖書の、神さまが7日目に休んだというお話の原点に戻っているといえます。
 イエスは安息日にも必要とあれば人を癒すし、その一方で、「私のところに来なさい。休ませてあげよう」と、安息日に縛られずに人を休ませようとします。イエスは安息日に対して自由でありつつ、「安息しなさい」と声をかけてくださるんですね。

▼お休みください、イエスさま

 ただ、イエス自身は休めていたのかというと、そうでもなさそうなんですね。
 聖書の中には、イエスと弟子たちが、病気の人たちを癒す仕事で手いっぱいで、ご飯を食べる暇もなかったという場面が描かれていたりします。また、方々で活動してきた弟子たちに「あなたがたは休みなさい」とイエスが言うんですが、あまりにもたくさんの人がイエスを求めてきたので、イエス自身は休むことができずに、湖に舟を浮かべて、人々を教えたという場面もあります。全然イエスは休んでないんですね。
 その代わり、イエスが朝早くお祈りをしに山に登ったということを書いている箇所もありますから、イエスが自分の時間を取ることができたのは、人々が活動を始める前の、早朝だけだったのかもしれませんね。あとは休みなしです。
 人に「休ませてあげよう」と言いながら、自分が休めないイエス。
 人を救おうとしたが、自分を救うことができないイエス。
 そんなイエスに対して、「イエスさま、私たちに休ませてあげようとおっしゃったように、イエスさまご自身もどうか一緒にお休みください」と祈るような信仰があってもいいのではないかと思ったりもします。
 「イエスさま、一緒に休みましょう。神さまだって7日目には休んだのだから、イエス様も週に1回くらい休みましょうよ。それほどまでに休みというものは大事だと、あなたが教えてくれているんですから」。
 そんな風にイエスさまに祈る信仰があってもいいのではないかなと思いますが、いかがでしょうか。
 祈りましょう。

▼祈り

 愛する天の神さま。今日も与えられたこの命を生きることができますことを、心より感謝いたします。
 神さま、あなたは私達にこの貴重な体と心と霊をお与えになりました。これらを私たちが大切に取り扱い、せっかく与えられたものを無駄にしないように運用する賢さを与えてください。
 よく働き、よく休み、よく生きることができますように、私たちを導いてください。
 幼い者、若い者、年老いた者、健康な者、病の床にある者すべてに、あなたの御手の中にある平安をお与えください。
 加えて神さま、この10月、新たな大きな戦争が始まってしまいました。あなたの名による聖なる本を根拠にしながら度重なる占領と虐殺を繰り返してきた国と、圧迫される民を抑圧し、支配している政府とが全面戦争を始めてしまいました。
 多くの人々が血を流し、命を奪われつつあります。神さま、このような怒りと憎しみに満ちた人間のわざをお赦しください。願わくは、この争いが1日でも早く収まり、憎み合う人々が1つのテーブルについて和解の話し合いを始めることができるように、国際社会ができることを示してください。
 そして、私たちにできることをもお示しください。
 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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