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半分は私のために

2024年7日7日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
ローマの信徒への手紙12章15節(新約聖書・新共同訳 p.292、聖書協会共同訳 p.286)
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喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15節(新共同訳)

▼苦労人のパウロ

 今日の聖書の箇所は、短い部分を引用しました。ローマの信徒への手紙12章の15節の一節だけの切り取りです。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。
 これが人と人の関わりの中で、1番大事なことであると言っても言い過ぎにはならないのではないかと思えるほどの勧めです。
 これを書いたパウロという人は苦労人ですから、なおさらその言葉には重み、深みがあると言いますか、味があります。しかも、このローマの信徒への手紙はパウロの人生の最後に書かれた手紙であり、それだけに、彼の人生の集大成と言ってもいい内容になっています。
 パウロは、現在のトルコのタルススと呼ばれている所の出身です。当時、エルサレムのあるユダヤ地方から離れた、地中海沿岸の各地にもユダヤ人は散らばって住んでいて、ディアスポラと呼ばれていました。「ディアスポラ」というのは「あちこちに種を撒く」という意味の言葉が語源になっています。タルススはそのような地中海沿岸の街の1つで、パウロはそこに生まれて育ったディアスポラのユダヤ人です。
 若い頃、彼は、律法学者となるためにエルサレムに上京します。そして、ユダヤ教に熱心なあまり、キリスト教と言う新しい宗教を迫害するリーダーの1人になります。
 しかし、キリスト教を迫害の真っ最中で、キリスト教に回心し、人生が真逆に方向転換します。そのため、彼は、裏切り者としてユダヤ教徒から命を狙われ、新興宗教の宣教者として、ローマ帝国からも迫害を受け、さらにはキリスト教徒からはかつての迫害者として恐れられ、心底からは信用されない宣教者となりました。
 それに加えて、例えば、コリントの教会とは論争が絶えず、同じクリスチャン同士でも意見が違って、緊張関係に苦しむ。使徒言行録と言う本を読めば、彼が意見の違いなどで、同じ宣教者とも別れなければならなかった様子も描かれています。
 おまけに「私には、とげが与えられている」と言うように、何らかの病気か障がいに苦しんでいた可能性もあります。
 そんな、四方八方で行き詰まっている状況の中でも、「私は決して倒れない」と言いながら、キリスト教の宣教を止めないパウロは、強い人だったとも言えるけれども、その一方で、たいへん孤独な人であったと想像することもできます。
 それだけに、自分と一緒に喜んでくれる人、自分と一緒に悲しんでくれる人との出会いは、打ちひしがれそうになる彼の生きる支えになっていたのではないかと想像できます。
 苦労ばかりの人生だったからこそ、人が共に喜んでくれること、共に悲しんでくれることが、身に染みたのだと思います。

▼チャプレン

 「共に喜び、共に悲しむ」という言葉を耳にする時、私は1つの言葉の由来を、ある本で読んだことを思い出します。それは「チャプレン」という言葉の由来です。
 チャプレンというのは、教会以外の場所で仕える牧師のことです。例えば、軍隊と一緒に行動する、いわゆる従軍牧師はチャプレンと呼ばれます。また、病院で入院している患者に寄り添い、ときには最期の時を共にする牧師もチャプレンです。
 学校に仕えている牧師も、学校によってはチャプレンと呼ばれます。私もチャプレンなんですね、と人に言われることが、時々あります。けれども、同志社では伝統的にチャプレンという言葉は使われないんですね。
 それがなぜかは、歴史的経緯まではぼくも知りませんけれども、実態としては、生徒さん達のお勉強だけではなく、魂に配慮すると言う点では、どの教師もみんなそれをやっているので、誰がチャプレンだという事は無い、みんなチャプレン的な仕事をしているんだから、それで良いのだ、ということは言えると思います。同志社ではすべての教師がチャプレンなんですね。キリスト教信仰がない人でもです。
 しかし、「共に喜び、共に泣く」ということをもっぱら専門とし、それをキリスト教信仰に基づいて、教会以外の組織で牧師の仕事をしている人のことは、本来「チャプレン」と呼びます。
 その「チャプレン」という言葉の由来が、最近出た(そしてこの前にも少し紹介した)私の後輩が書いた本の中に紹介されていました。

▼聖マルティヌス

 その本によれば、チャプレンという言葉の始まりは、紀元後4世紀のトゥールの聖マルティヌスという人物にあると言われています。聖マルティヌス、ドイツ語だとザンクト・マルティン、英語だとセイント・マーティンになるはずです。
 香川県の坂出に、聖マルチン病院と言う病院がありまして、ホームページを見るだけではその名前の由来が分かりませんけれども、ひょっとしたら、この聖マルチン病院、聖マルティヌスとたぶん関係があるんじゃないかと思います。
 この聖マルティヌスはカトリック教会の司教ですけれども、若い頃はローマ帝国軍の軍人だったそうです。
 伝説によれば、軍人だった時代のマルティヌスが、ある時、凍えるような寒さの中、物乞いをしてくる1人の路上生活者と出会いました。その時彼は軍服のマントを着ていたので、そのマントをこの路上生活者と分けることにしました。
 そしてその時、彼は軍人で剣を持っていたので、その剣でマントを切り裂き、半分をこの路上生活者にあげたといいます。
 すると、その夜、キリストが彼の夢枕に立って、「今日、お前がマントの半分を着せかけてくれた相手は、実は私だったのだ」という言葉を語りかけたというのですね。ちょっとトルストイの「靴屋のマルチン」と似た話ですね。名前も「マルチン」で同じです。
 そのことで、彼は洗礼を受けて、クリスチャンになり、やがて司教となって、キリスト教をヨーロッパに広めていくための立役者になったということです。

▼カペー

 マルティヌスが切り裂いたマントの片割れは、その後、聖遺物としてフランス王家によって守られたそうです。
 ラテン語で、マントは「カペー」と言うそうです。そこから、例えば礼拝堂は「カペッラ」と呼ばれるようになり、これが「チャペル」の語源となります。また、従軍司祭は「カペラヌー」と呼ばれるようになりましたが、これが「チャプレン」の語源になったようです。
 ちなみに、マントのことを指す「カペー」という言葉は、ポルトガル語を経由して、日本語の「合羽」になったそうです。ですから「合羽」という言葉は、まさにラテン語のマントという言葉と繋がっていて、「チャプレン」や「チャペル」と同じ語源だと言うことになります。
 この本の著者は「私がこのマルティヌスのマント物語に惹かれるのは、彼が物乞いに与えたマントが、その「半分」であったという点です」と語っています。
 もしマルティヌスが差し出したのが、マントの全部であったら、その物乞いはもっと温かい思いをしたかもしれません。そして、このお話ももっと美談として後世に語り継がれたかもしれません。けれども、マルティヌス自身は凍えてしまいます。
 実際には彼が与えたのは、マントの半分です。マルティヌスも全てを与えてしまう事はできなかったんですね。でも、そのことで、かえってこの2人は「温もり」と「凍え」の両方を分かち合ったのではないかと言うんです。
 「温もり」と「凍え」、つまり「喜び」と「悲しみ」。マルティヌスと物乞いは、共に喜び、共に泣いたわけです。そしてそれはキリストと共に喜び、キリストと共に泣いたことにもなると言うんですね。
 「人にしたことは、キリストにしたことだ」ということです。

▼自分も相手も弱さと限界を抱えた人間

 私たちが誰かを愛そうとしても、往々にして自分の全てを捧げることや与えることはできない。私たちの愛には限界があります。
 けれども、最大限できることをしたとしても、半分が限界でいいんじゃないか。半分で十分上等じゃないか。むしろ、半分ずつで、一緒に温もりだけでなく、寒さをも味わうということでいいんじゃないか。
 もちろん、自分の半分も人に与えることはできない人もたくさんいるだろうとは思います。私だって、そんなことができているとは自分でも思いません。
 けれども、全部でなくてもいい、半分が限界でいいんだ。それで十分だし、一緒に寒さも温もりも味わうという意味では、むしろ半分の方がいい。自分を守りながら、人のことも守る。その方が、共に生きるということになるんだと理解することができるのではないでしょうか。
 「自分の全てを与えることはできない。なんと自分は愛の足りない人間なのか」と悩む必要は全くないのかもしれません。そして、自分の愛の足りなさを自覚することが、自分と同じように、人も弱いものなのだと知ることにつながるのかもしれません。
 「自分も相手も、弱さと限界を抱えた人間なのだ」と知ることが大切なことなのかもしれません。
 パウロは「私は弱い時にこそ強い」と言う言葉も手紙の中に残しています。弱さと限界を共に知り、共に分かち合うことが、逆にパウロの生きる力になったのではないでしょうか。そういう出会いが苦労の多い人生の中でも、パウロを支えていたのではないでしょうか。
 弱さと限界を共に知り、寄り添うことが、私たちの強さになればいいなと思っています。
 祈りましょう。

▼祈り

 愛と恵みに満ちた神さま。
 今日も、あなたに与えられたこの命を生きることができますことを心から感謝いたします。
 また、こうして互いに愛し合う者たちで、あなたに礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。
 私たちは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という美しい言葉をあなたから与えられています。
 しかし、これを行う事は、何と難しいことかとも思わされます。私たちは人を愛するために、自分の全てを捧げる事はできません。
 神さま、このような私たちの弱さと限界を受け入れてくださいますように。
 そして、それでも私たちが自分にできることをする力を与えてください。
 また、自分が愛するだけではなく、「私を愛してください」と声を上げる勇気をも与えてくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって願います。
 アーメン。


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