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逃げ道の無い試練でも出口はある

2023年1月29日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
コリントの信徒への手紙10章13節(新約聖書:新共同訳 p.312、聖書協会共同訳 p.306) 
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼コリントの信徒への手紙(一)10章13節(新共同訳)

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(新共同訳)
 あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(聖書協会共同訳)

▼アスリートの合言葉

 今日の聖書の箇所は、水泳で有名な池江璃花子選手という方が、TwitterとInstagramで発信した言葉のひとつだと言われていて、一部のクリスチャンの間では、「池江璃花子が聖書を引用したのかもしれない」と評判になったものです。
 池江璃花子選手は、白血病を患っていることを公表した翌日にこの言葉をSNSに書き込んだそうですね。こんな言葉です。
 「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」
 また、フィギュアスケートの羽生結弦選手も、あるインタビューで、このようなことを言っています。
 「よく言われる『試練は乗り越えられる者にしか与えられない』という感覚は、自分の中にあります。」
 池江選手や羽生選手が聖書の言葉を知っていて言ったのかどうかは定かではありませんけれども、意外とこれと似たようなフレーズは、一部のアスリートの間では浸透している言葉なのかなとも思います。
 というのは、池江選手や羽生選手がこのような言葉を発信する20年近く前から、私自身がかつて勤め先の学校で陸上部の顧問をしていた時に、コーチとして来てくれていた大学生が、やはりこの「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉を背中にプリントしたTシャツを着ていたことがあるからです。
 私は「それ、聖書の言葉だよね」と言いましたが、着ている本人はそんなことは全く知らなかったようですし、「聖書の言葉ですよ」と言われても、「はあ、そうですか」と言う以上の反応はできない、という感じでした。
 しかし、これが聖書の言葉であるということを全く自覚しないまま、この言葉がアスリートたちの間で、薄く広く浸透しているのかもしれないと思ったりするのですが、私はアスリートではありませんので、よくわかりません。アスリートの世界に詳しい人なら教えてくださるのではないでしょうか。

▼耐えられない試練からは逃げろ

 この言葉はアスリートを引き合いに出して、生徒を叱咤激励するのが好きな、どこかの学校の礼拝でも、時々引用されます。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。」
 だから、全ての試練は耐えられるはずなのだ……という風に生徒を励ます、あるいは悪い言葉でいうと追い込む。そういう引用の仕方がされたりするわけです。
 けれども、このように叱咤激励に使われる時、このコリントの信徒への手紙(一)の10章13節の後半部分は、都合よく無視されることが多いです。
 すなわち、「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」という部分ですね。ちゃんと「逃げ道がありますよ」、「逃げてもいいんですよ」と書いてあるわけです。試練から逃げてもいいんだと言っているわけで、これは叱咤激励する際には都合が悪い。だから、ここはスルーするわけです。
 皆さん「万バズ」という言葉をご存知でしょうか。
 「万バズ」。「バズる」というのは、短期間で爆発的に話題が広がって、多くの人の注目を集めることを言いまして、たとえばTwitterなどで言えば、ものすごくたくさんのリツイートがなされて拡散され、膨大な数の「いいね!」がつくことを言います。その「いいね!」が1万を超えると「万バズ」というんですね。
 有名なインフルエンサーや芸能人だったら、1万や2万のバズり方はすぐにしますが、凡人にはとても無理です。けれども、こんな凡人の私でも、5年間Twitterをやっていて、1回だけ「万バズ」に達したことがありました。
 まあ私の「万バズ」はともかく、私の知り合いのキリスト教学校の先生の一言が紹介されたツイートが、去年「万バズ」したことがありました。それはこの先生がこう言ったという話なんですね。
 「聖書には『耐えられないような試練は与えられない』と書いてある。だから、『耐えられない』と思ったものは、それはもう試練ではなく災難だから、遠慮なく逃げろ」と。
 この先生は聖書の先生ではないんですけれども、これが聖書を教わっている学校の生徒さんには刺さったんですね。それでその生徒さんがこの話をTwitterに書いたら「万バズ」しました。

▼逃げてもいい

 神さまは私たちに耐えられないような試練を与えたりしない。だから、試練には勇気をもって立ち向かってゆこう。どんな試練でも私たちに本当に耐えられないということはないんだ。しかし、「これはどうのも耐えられない」と思ったときには、それは試練ではなくもはや災難である。だから遠慮なく逃げていい……。
 こういうバランス感覚は大切だなと思います。人によって考え方は違うとは思いますが、あまり私は人間をしんどすぎる所へと追い込みたくないという気持ちが強いせいか、「逃げられる時には逃げたらええんちゃうか」と思うことが多いです。耐えられないと思ったことは、逃げることができるなら、逃げたらいい。「助けて!」と人に助けを求めてもいいじゃないか。それも立派な生き方のひとつじゃないかと思うわけです。
 なぜなら、我々の人生の途上では、どんなに逃れようとしても、逃れることのできない試練というものはあるからです。どうしたって逃げることのできない試練というものはあるのですから、もしそうでなかったら、わざわざ自分から苦しみを求めることはないじゃないかと思ったりするのですよね。

▼人間につきものの試練

 聖書の翻訳の問題ですが、日本語では「試練」と書いてありますけれども、これは「試み」とか「誘惑」と訳される言葉です。前後の文脈から見ると、この言葉はパウロが「偶像を礼拝するのはやめなさい」ということを言っている文章の中にあるので、偶像礼拝をしたい、ご利益を求めたい、いかがわしい儀式をおこなうたいというような誘惑に陥ってはいけない、という意味で、この「誘惑」という言葉が使われているようです。
 けれども、ここで「試練」という日本語に訳されると、何か自分の体や心の強さを試されるような苦難のことを指しているのかなと思ってしまいます。そして実際、我々は人生における色々な苦しい現実的な悩みや誘惑について、この聖書の言葉から何らかのヒントを得たいと望んでいます。ですから私は、この聖書の言葉に触発されるような形で、私たちの人生の問題について考える手がかりにして良いのではないかと思います。
 この試練について、いま私たちが読んでいる新共同訳聖書では、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と書いてあります。しかし、最近訳された聖書協会共同訳では、「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません」と書いてあります。
 片方は「人間として耐えられないものではない」と書いてある。もう片方は「世の常でないものはない」と書いている。どっちの翻訳が正しいのか、解釈の違いなので何とも言えません。
 原語で読んでみると、私はギリシア語は得意ではありませんけれども、「人間のものではないことはない」と書いてあるように読めます。「人間的なものではないものではない」とも読めます。この「人間の試みでないものはない」、「人間的な試みでないものはない」というのを、「人間として耐えられない試みはない」とか「世の常でない試みはない」という風に訳しているわけです。
 私は、これを別のこんな日本語で表現できるのではないかと思います。「あなたがたの試練は、人間につきものの試練である」と。
 「人生には試練がつきまとう。人間というものはそういうものなのですよ」とパウロが言っているように感じるのですね。

▼自分の苦しみ、愛する人の苦しみ

 私たちの人生には試練がつきまとう。避けられない苦しみがある。その最たるものに、病や死というものがあります。自分の病、自分の死ももちろん苦しいことであり、悩みを引き起こすことですし、自分にとって大切な人が病に苦しむこと、そして亡くなることも、苦しみであり、恐ろしいことです。
 学校の生命倫理の授業で、「一人称の死」と「二人称の死」と「三人称の死」ということを、生徒さんたちと考えます。
 「三人称の死」というのは、他人の死、客観的に捉えられる、自分とは直接関係の薄い、「今日はコロナで何人死亡しました」と数字で表されるような死です。
 これに対して、まず「一人称の死」というのは、自分の死のことです。私たちは自分がいつか死ぬことを知っています。一体いつ死ぬのか、どのように死ぬのか、ということについて不安を抱かざるを得ませんし、それが痛みを伴わないものであってほしいと願ったりします。
 また「二人称の死」というのは、愛する人の死のことです。私たちは愛する人が病に苦しんでいるのを目の当たりにすると、自分のことのように苦しいです。また、もしこの人を失ってしまったら、と恐怖にかられます。そして本当に失ってしまった時、その痛み、嘆きは計り知れないものになります。
 私自身、自分の大切な友人が命に危機にさらされている場面に直面したとき、正直に言って動揺を隠せませんでしたし、皆さんにおかれましても、今この時においても、大切な人が病にあって、なんとかして生きてほしい、回復してほしい祈り続けています。また、本当に身近な人を失ってしまって、暗く思い気持ちの中に沈んで、なかなか浮き上がってこられない人もいます。
 このような苦しみにあって、私たちは互いに祈りによってつながっている。祈りによって支えられている。「私のために祈ってください」、「私たちのために祈ってください」、「私の愛する人のために祈ってください」と声を掛け合って生きてゆくことができます。

▼願いが叶えられない時

 しかし、私は一生懸命に祈りながらも、こういうことも考えるのです。
 「もし、自分の願いが、願ったとおりに叶えられなかった時、私はどうすればいいのだろうか。自分の愛する人が失われた時に、あるいは自分の命が失われることが確実だと知らされた時に、どう祈ればいいのだろうか…」。
 そのとき私は、「神さま、あなたはなんという残酷なお方なのか!」と怒りをぶつけることになるのだろうか。神さまのご意志がどこにあるのか。何もかも全くわからなくなってしまうかもしれません。
 そんな時に、「これも神さまの御心なのですよ」などと言う人がいたら、そんな奴はぶん殴ってしまいたくなる。あるいは二度と顔も見たくない。少なくとも私たち自身は、そういうことは口が裂けても人に言ってはならないと思います。
 「これも神さまの御心なのだ」と自分が思うのはいい。そのような解釈ができる人はそれでいい。しかし、そういうことは自分が見いだす答えのひとつなのであって、それが正解というわけではないし、人に言われるような筋合いのものではないはずです。
 しかし、簡単には答えが出ない、どうしようもない試練、苦しみ、悲しみ、嘆きに出くわしてしまった時に、私たちはどうしたらよいのでしょうか。そもそも、そんな時に素直に神に祈ることができるでしょうか。

▼出口の先におられる方

 再び聖書の言葉に戻りたいと思います。
 今日の聖書の言葉の後半には、こう書かれています。
 「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
 試練とともに、それに耐えられるよう、逃れる道を備えてくださる。調べてみると、この「逃れる道」と訳されている言葉は「出口」という意味も持っていました。
 「逃れる道」と「出口」では若干ニュアンスが違うような気がします。逃れる道というと、苦しみから解放されて、苦しみが無くなってしまうような気がします。しかし、先程から言っているように、私たちの苦しみ、悩みは生きている限り無くなることはありません。ですから、本当は「逃れる道」なんて無いんじゃないかと思います。
 しかし、「出口」はひょっとしたらあるかもしれない。トンネルのような暗闇はいつか出口に到達する、という希望を持ってもいいんだよと、この聖書の言葉は言っているのかもしれない。
 トンネルのような暗闇。それは、「誰にもこの気持ちはわからない」という孤立、あるいは「この悲しみはいつまで経っても癒えることはないんだ」という絶望のことではないかと思います。しかし、そのトンネルに出口はあります。
 この孤立と絶望には出口がある。それは、キリストが一緒に悩み、悲しんでくださるということだと思います。キリストは私たちの苦しみを取り去ってくださるということはしてくれないかも知れない。そして、私たちの心は暗いトンネルに潜らざるを得ないかも知れない。すぐに出口に到達することはできないかもしれない。トンネルの出口ははるかに遠いかもしれない。
 けれども、時が来れば、必ずいつかは出口に到達する。その出口でキリストが待っている。そして私を迎えてくれる。そしてその先は私と一緒に嘆きながら歩んでくれる。私は決して孤独ではない。キリストが一緒にいてくださるから私は孤独でなくなる。長い時間をかけてそうなってゆく。それを信じたいと思います。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 私たちは、ひとりひとり皆、それぞれの重荷を抱えています。
 どうかその重荷を降ろさせてください。あなたのもとで休ませてください。
 しかし、重荷を降ろすことができないならば、せめて私たちと一緒にその重荷を担ってください。
 私たちが試練に遭う時、私たちと一緒に試練を受けてくださいませんでしょうか。
 私たちを独りぼっちにはしないでくださいませんでしょうか。
 いつも、どんな時も、あなたとあなたの御子イエス・キリストが私たちのそばにいてくださいますように祈り求めます。
 イエス・キリストのお名前によって願います。
 アーメン。


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