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大切な人の一大事に眠ってしまう

2023年3月26日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
マルコによる福音書14章32−42節(新共同訳 pp.92-93、聖書協会共同訳 pp.91)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼マルコによる福音書14章32−42節

 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

▼ゲツセマネの祈り

 みなさんおはようございます。今はレント/受難節のほぼ真ん中のあたる時期です。レントはいわばイエス様の亡くなられた喪中のような期間ですね。私たち一般の人間は、通常は人が亡くなられた後に喪中に入りますが、キリスト教の暦では、あらかじめイエスが亡くなられたことを思い、彼の十字架の死を偲びつつ、先に40日間の喪に服す時を過ごし、そしてやがて来る復活の日に喜びを分かち合うという暦になっています。
 今日お読みした聖書の箇所は、イエスが逮捕される直前に、「ゲツセマネ」という場所で祈りを献げた場面です。「ゲツセマネ」というのはイエスも話していたアラム語で「油絞り」という意味です。
 今日の聖書の箇所のちょっと前、この14章の26節に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」と書いてあります。それでオリーブ山に出かける。オリーブ山というのは、エルサレムの町がある丘の横に谷があって、その谷を挟んで反対側にある、ちょうど谷を挟んでエルサレムと向かい合うような場所にある丘で、オリーブ畑があって、オリーブの木がたくさん生えていました。
 そして、「ゲツセマネ」つまり「油絞り」という場所では、オリーブの実から、オリーブオイルを絞り出す作業をやっていた場所という意味になります。オリーブ山に入って、イエスは弟子たちの集団から離れて、特にイエスの近くにいた3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、これはイエスが最初に弟子にした元漁師の若者たちですけれども、このイエスに一番近いところにいた弟子たちを連れて、ゲツセマネにやってきます。
 この時イエスは、「ひどく恐れてもだえ始め」と書かれていますよね(マルコ14.33)。「ひどく恐れてもだえる」と。
 このマルコによる福音書では、このように「ひどく恐れて」と書いてありますけれども、あとに書かれたマタイによる福音書では、「悲しみ」という言葉に替えられています。ちょっと表現が弱くなっていますね。そしてルカによる福音書では、この「ひどく恐れて」も「悲しんで」も無くなっています。あとになるほど、イエスがひどく恐れて取り乱している様子が薄められています。
 ということは、もともと最初はイエスが「ひどく恐れてもだえている」という様子の方が伝えられていたのでしょうか。実際、「ひどく恐れてもだえる」というような描写は救い主らしくないので、あとの方になるほど、そういう描き方は消されていったのでしょう。だとすれば、やはり実際のイエスは、恐怖におののいて、取り乱し、悶え苦しんでいたのだろうと思われるわけです。

▼ただの人

 さらには、イエスは「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(35節)、「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈ります。
 自分が死ぬということを怖がり、ひどく恐れてもだえ、「お願いですからこの運命から逃れさせてください」と祈る。
 優れたリーダーは、その人が来ただけで、皆の心が落ち着き、やる気になると言われますが、この時のイエスには、そういうリーダーとしてのカリスマは全然ありません。殺されるのを怖がって、もだえているだけの、ただの人間です。
 つまり、イエスはこの点に関して言えば、普通の人だったということです。おそらく、イエスはこの時点で、自分が死んだ後よみがえるということは予想していないように見えます。死んだら終わりだと思っているのです。
 このマルコによる福音書では他にも、イエスが十字架にかけられたときも、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと書かれていますけれども(15.34)、そういうところを見て、イエスの死にぎわを観察していると、彼は自分がよみがえるとは考えていなかった可能性が高いです。
 けれども、そのようなイエスの姿に、私たちは私たちに近い人間らしさを感じることができるのではないでしょうか。そして、イエスなら死ぬことを恐れる人の気持ちがよくわかってくださるだろうと思えるのですが、いかがでしょうか。
 イエスがその生涯によって証しした神さまは、どこか高い所で人間のつらさを見下ろしているのではなくて、自分自身が地上に降りてきて、人間と同じ苦しみを味わう。「死んでしまったらもう終わりだ」という恐怖まで、人間と一緒に味わい尽くす神さまなのだ、という。これはキリスト教独特の考え方です。
 イエスというのは、神さまの化身のようなに伝えられがちだけれども、やっぱりただの人だったんだね、ということですね。
 ただ、これも私たちの祈りについての大きなヒントになることなんですが、イエスは最終的には、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言います。
 ここに、人生には自分の期待通りにいかないことがあるんだということへの一種の悟りというか、自分の願っている通りにいかないことに、隠れた神の意図があるのかもしれない。その意図は自分にはすぐにはわからないけれども、それが神の意図ならば、受け入れるしかないんだ。ここから先は神さまに下駄を預けるしかないんだ。そういうことが人生にはあるんだ、ということを教えられる気がします。
 私たちは、神さまに色々と願い事をします。けれども、私の願ったとおりでなくても、最終的には、「どうぞ神さまが望んでいる通りにしてください」という、お祈りのお手本のような祈りのように、私には思われます。

▼師匠の一大事に弟子は寝ている

 さて、このような師匠の一大事に、ペトロとヤコブとヨハネは眠ってしまっています。
 先程も言いましたように、ペトロとヤコブとヨハネは、イエスの最初からの弟子で、イエスの活動の最初からずっとついてきて、寝食を共にしながら旅をしてきた、最も親しい間柄の仲間、弟子の集団の中でも、いわばビッグ・スリーというべきメンバーです。
 必ずしもイエスのことを良く理解していたわけではありませんでしたけれども……といいますか、このマルコによる福音書では、弟子たちはどっちかというと、イエスの真意がわかってないという場面ばかりが描かれていますけれども、それでも最も身近な人たちだったし、この3人にとっては、イエスはかけがえのない、他には替えることのできない大きな存在だったことは間違いないんですね。
 けれども、そんなに大切な存在であったはずのイエスが、いまにも捕まって殺されようとしている。イエスが死の恐怖に怯えて、悶え苦しんでいるという一大事に、この人達は眠ってしまうわけです。
 眠っているペトロたちを見て、イエスはちょっと怒っているようです。「わずか1時間も目を覚ましていることができないのか」と言います。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と指導が入ります。
 「心は燃えても」というのは、別の訳では「心ははやっても」という訳し方もあるようですけれども、要するに「この状況が一大事であることがわかっているはずなのに」ということなんでしょうね。しかし、肉体は弱いんだと。
 それでイエスは再び3人を離れて、さきほどと同じように祈りに行きます。自分の死ぬべき運命を受け入れるために、苦しみの祈りを捧げます。そしてまた帰ってきます。
 やっぱり3人は眠っている。「ひどく眠かったのである」と書いてありますけれども、元の言葉では「まぶたが重かった」と書いてありました。3人はなんと言い訳したらいいかわかりません。
 そして、イエスはまた祈りに行って、また戻ってくるとやっぱり3人は眠ってしまっている。
 そこで、イエスは「もうこれでいい」と言います。「もうじゅうぶんだ」と言っています。そして、「時が来た……立て、行こう、見よ」とたたみかけるように言葉を発し、自分の運命に立ち向かってゆきます。
 「もうじゅうぶんだ」というイエスの言葉に、弟子たちに3回も裏切られた悲しみと孤独感が表れているようにも思われます。

▼副交感神経優位型

 さて、眠っていた弟子たちは、ダメな人間だったのでしょうか。
 いつかここでだいぶ前にお話したかもしれませんが、人間には交感神経優位型の人と、副交感神経優位型の人がいるという話です。
 交感神経も副交感神経も自律神経で、自分の意志でコントロールするのが難しい神経です。
 交感神経というのは、緊張している時や興奮している時に働いている自律神経です。副交感神経というのは、リラックスしている時や眠りに入る時に働いている自律神経です。
 この交感神経と副交感神経が、両方ともバランスよく活発に働いている時に、人間は緊張とリラックスのバランスが取れて、仕事やスポーツに最大限の能力を発揮することができるそうです。
 けれども、すべての人がそんな風にうまくいくわけではなくて、興奮しなくてもいい時に興奮して体調を崩してしまったり、一大事の時に妙に緊張が抜けてしまったりすることがあります。
 昔、こんな話をある冊子で読んだことがあります。28年前になりますけれども、阪神淡路大震災のとき、これは倒壊しなかった家の話ですけれども、夜明け前に大地震が起こって、家の中のものがめちゃくちゃになりました。家具も倒れ、家財道具も一切合切が床にぶちまけられて、本当にめちゃくちゃになってしまったときに、その様子を見て、そーっともう一度布団に潜り込んで眠ってしまった人が結構いたというんですね。それで、「うちの父ちゃんは何という頼りない人なのか」とガッカリして、離婚が増えたという、ほんとのような嘘のような話です。
 そして、そのような人たちは、副交感神経のほうが優位になっているタイプの人だったのではないかという報告を、私は読んだことがあるんですね。
 この話をお医者さんが聞いたら、「そんなのは嘘だ」とおっしゃるかもしれませんが、少なくとも、あまりに悲惨な状況に置かれてしまった人が、そこから現実逃避するかのように、意識を麻痺させるということがあると思うんですね。
 「これは一大事だ」という時に、副交感神経のほうが活発になってしまって、その一大事から逃避するように、睡眠に逃げてしまう人。ひょっとしたらペトロ、ヤコブ、ヨハネはそうやって、睡眠に逃げてしまうタイプの人達だったのではないかなと……。
 だとしたら、この3人は、逆にそれだけこの状況が一大事であることが十分にわかっていて、だからこそ眠ることで、自分の心を守るしかなかったのではないかと。あるいは疲れ切って眠らずにはおれなかったのかもしれない。
 イエスに起こされて、彼らはなんと言い訳したらいいのか、言葉も見つからなかったとあります。けれども、仕方がなかった。イエスは悲しい思いをしたけれども、弟子たちが眠くなってしまったのも仕方がない。もちろん弟子たち自身も悲しかった。
 ここにイエスとペトロたちのすれ違いの悲しいドラマがあるわけです。どちらが正しかった、どちらが愚かだったという話ではありません。

▼悲しみに疲れて眠ってしまう

 弟子たちが3回イエスを裏切ったという話は、ペトロが3回イエスのことを知らないと言ったということも思い起こさせます。ペトロも3回イエスを裏切りましたが、ここでも3人はイエスを3回裏切っています。
 こんな風に「3回の裏切り」というテーマが繰り返されているところに、ペトロを筆頭とする弟子たちの深い後悔の念が表されているように、私には感じられます。
 状況が大変であることは重々承知だった。しかし、眠くて仕方なかった。
 私たちもそういうことはないでしょうか。自分の大事な人が事故や病気で危篤状態にあるとき、あるいは本当に亡くなってしまった時、それでもちゃんと眠ってしまう自分がいて、そんな自分を赦せないような気持ちになることはないでしょうか。
 こんな状況だからこそ、眠れない夜を過ごしてもおかしくないはずなのに、眠くて仕方なくなってしまう。
 こんな状況だからこそ、食べ物も喉を通らないはずなのに、なぜかお腹が空いてしまう。その人は浅ましい人間なのでしょうか。情けない人間なのでしょうか。
 そんな時、「自分を責める必要はない」と今日の聖書の箇所は赦しを示しているのではないでしょうか。あのイエスの弟子たちですら、そうだったのだからと。この物語は、2つのすれ違う悲しみを描いているドラマですが、このような弟子たちの姿を描くことで、悲しみに疲れて眠ってしまう人に、「そういうこともあるよ」と寄り添ってくれているように感じるのですが、いかがでしょうか。
 よく言われることですが、「死」というものには1人称の死、2人称の死、3人称の死というものがあるといいます。1人称の死は自分が死ぬことです。2人称の死は自分にとって大切な人、他人とは思えない人の死のことです。そして3人称の死は、赤の他人、たとえば「今回の事故で何人が死にました」とニュースで見て、「そうか、大変だなあ」と思うか思わないかという程度の死のことです。
 今日の聖書の箇所で問題になっているのは、2人称の死です。自分にとってかけがえのない人の死のことです。ペトロたちにとってはイエスのことです。彼らにとってイエスの死は、決して3人称の死ではありません。けれども、彼らは眠ってしまった。そして、後悔してもしきれないほど悲しむのです。
 福音書のイエスの受難物語には、このような悲しみが込められたドラマがあります。皆さんは、この人間の弱さと悲しみのすれ違いのドラマを、どのように受け止められますでしょうか。ここからは、皆さんのそれぞれの受け止め方に委ねたいと思います。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 今日もこうしてあなたに与えられた命を生きることができます恵みを感謝いたします。この与えられた賜物を、自分のものも、人のものも、大切にしながら日々を過ごしてゆくことができますように、いつもあなたのことを忘れない信仰をお与えください。
 私たちの間には、たくさんの悲しみや痛み、悩みがあります。
 またこの地上のあちこちでも、たくさんの悲しみ、痛み、悩みがあります。
 この重荷に耐えて生きる力を与えてください。病と戦う人、病と戦う人を支える人、孤独に耐える人、大切な人を失った人、そして色々な心配事……様々なつらさが私たちにはありますが、どうかそれらを抱えながら生きる私たちを支えてください。
 そして、人をとことんまで愛しきるということができない私たちをどうか赦してください。自分の弱さを自分で受け入れられるように、どうか私たちのそばにいて、支えてください。
 この祈りを、ここにおられる全ての人の心にある祈りと合わせて、イエス・キリストの御名によってお聴きください。
 アーメン。


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