見出し画像

賢くないことを悟る賢さ

2024年6日16日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
創世記3章1-7節(旧約聖書・新共同訳 p.3-4、聖書協会共同訳 p.3)
(有料設定になっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。よろしければ融資のご献金でご支援いただければ幸いです。)
(最後に動画へのリンクもあります)

▼創世記3章1-7節(善悪の知識の木から食べる)

 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
 女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。
 すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
(聖書協会共同訳)

▼善悪の知識の木とスマホ

 そもそも神さまは、なぜ善悪の知識の木を、園の中央に植えたんでしょうか?
 「わざと誘惑させるものを置いて、それでも人間が自由意志でもって、神さまに従順である道を選ぶかどうかを選ばせるためだ」という説を読んだことがあります。神さまに逆らうこともできるような状況の中で、あえて神さまの方を選ぶ、そうやって自由意志で神さまへの愛を示す方が尊いのだ、という考え方ですね。
 まあ、そういう考え方もできないことはないです。でも、私なんかは、「やっぱり最初からそんな誘惑になるものを置いとかなかったほうが良かったんじゃないの?」と思ってしまいますけどね。
 たとえば、私の普段の職場では、生徒さんたちがいかにスマホの奴隷になっているかということを痛感しています。1日に2時間でも3時間でも、4時間でも5時間でも6時間でも見ている子は見ています。
 そんなことを言っている私も実は1日7時間くらいスマホを見ていますけどね。でも、スマホというのは実質的には超小型のパソコンなので、調べ物をしたり、原稿を書いたりするのにも使います。勉強もできます。創造的な使い方はできるんです。
 そんな使い方をしている子はいいけれど、大抵の子はそうじゃないです。何時間でもずーっとLINEをやってて、既読がついただ、返信が来ないだと精神をすり減らしています。それ以外の時間は、Instagram見たり、TikTok眺めてたりします。ずーっと受け身のまま興奮する画像情報のシャワーを受け続けているんですね。こんなことをやっていると脳がダメージを受けてしまいと言われます。
 当然、勉強もできないし、人との会話もままならない。睡眠不足になって、昼間も頭が働かない。
 いま私、まるで学校の教師みたいに口うるさいこと言ってますよね、学校の教師ですけど。でも、実際にはあまり頻繁には口には出しません。頻繁にうるさく言っても、どうせ子どもは反発するだけで、効果が薄いですから、たまーに「1日2時間以上スマホ使ってるとバカになるらしいよ」と言うくらいです。
 でも、スマホは実際には害があるんですよね。そして、害があるけれども、手に取らずにはおれないほどの誘惑がある。
 それで、スマホが害になるのを防ごうと思ったら、たとえば裏返しに置いとくだけでも効果があるわけです。あるいは勉強するときや寝るときには、隣の部屋に置いておくだけでもいいわけです。要するに、目の前から無くせばいい。
 善悪の知識の木も同じです。そんなもの園の真ん中の、嫌でも目に入るところに置いておく神さまが悪い。それを食べたから、罰を与えるなんて理不尽だと思いませんか? 神さまが悪いじゃんね。まずはそんな風に、ぼくは思ってしまいます。

▼反抗できる自由に感謝

 これは伝聞ですが、ユダヤ教のある学派の人たちによれば、この最初の人間が神の禁じた木の実を食べたことは、人類が自由というものを手に入れた記念すべき瞬間だ、という解釈もあるそうです。
 多分それは少数派の解釈でしょうけど、そんな風に、神に反抗することも含めて、人間の自由が大事だと考える人たちもいるんですね。
 私も自由であることはとても大事だと思うので、なるほどそういう考え方もあるのか、とちょっと感心したりもします。
 人間は神との約束を破って自由を手に入れるわけですから、人間が自由になるためには、神さまなんか放り出して、勝手に生きていった方がいいじゃないか。宗教も信仰も、人間を束縛するだけなんだから、そんなものは要らない。そういう考えを持っている人は、この世の中には多いです。そうなる可能性があるにも関わらず、神は園の中央に、食べてはいけないような木をあえて植えているわけです。
 神さまは「これを食べたら、人間は私のもとを離れていくかもしれない」というようなものを、わざわざ人間が住んでいる園の中央に置くんです。そして、まんまと人間に裏切られる。見方によっては神さまの失敗ですけれども、ひょっとしたら、神さまは最初から「こいつらはわしを裏切るかもしれんなぁ」と思いながらやっていたのかもしれません。
 これは、面白い考え方だと思いませんか?
 我々人間は、神さまから離れて自由に生きることができるようになった。今の時代は特に、神さま無しでも生きていけると思って生きている人は多い。でも、そんなことは、神さまは織り込み済みだったかもしれない。
 「私がいなくても、自分たちでなんとかしなさい」と送り出してくれているかもしれない。そんな考えもできるのではないかとも思います。
 人間は神さま無しでも生きていけますし、実際そうしている人は多いですけれども、そういう風にしたこと自体が、神さまの計らいかもしれない。子どもを愛する親ならそうしますよね。いつかは自分の手を離れて自力で生きて欲しいと。
 そんな親の愛に気づけば、子どもだってそんな親に感謝しなくちゃと思います。私たちは神さまに感謝しなくちゃいけないなと思うわけなんです。

▼難しい事は人任せにしたい

 今日の聖書の箇所では、蛇がまず女性を騙します。ここでは女性はあまり賢くない存在のように描かれています。これは、書かれた時代、今から2500年近く前の社会の意識はそういうものだった、ということは割り引いて考えなくてはいけません。ですから、そこは仕方ないと考えて……
 とにかく蛇は「園の全ての木から食べてはいけないのか?」と訊きます。訊かれた女性は、「園の真ん中にある木は食べてはいけないのです。食べてはいけないし、触れてもいけないんです」と答えます。
 これは正確ではありません。園の中央にあるのは、善悪の知識の木と命の木で、食べてはいけないのはその一方だけです。けれども、どっちがどっちか判別するのが難しいか、あるいはめんどくさいので、「中央にある木は食べてはいけない」と考える方が便利、「どうせだったら触ってもいけないとしておいて方が、ややこしくなくてよかったんですね。
 こういうことは、我々にも時々あるんじゃないかと思います。フグには美味しいところもあるけれども、毒のあるところもある。だからフグは食べない方が無難だ、みたいな。ぼくなんかはそんな風に考えるタイプです。
 でも、フグを料理する人のことは信用してないわけではありませんから、ちゃんと料理されているものは食べれます。つまり、自分より賢い人に任せておけば安心なわけです。
 この聖書の場面の女性もそんな感じです。難しいことは考えるのは苦手なので、自分より賢い人に任せておきたい。自分より賢そうな人に判断を任せてしまう。それで、自分より賢そうに見える蛇の言葉を信じてしまいました。実際「最も賢いのは蛇であった」とも書いてあります。
 この聖書の記事には、女性はそんなふうにものを深く考えない動物だ、という、書かれた当時の偏見が反映されているのは事実ですが、女性ではない私でも、そんなところはあるなぁと思ってしまいます。

▼賢くなったのか?

 今日の聖書の箇所には、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」とも書いてあります(創世記3.5)。
 この「善と悪」という言葉は「すべてのこと」を意味するという解釈もあります。天地創造の物語で「天と地を造った」と書かれているところがありますが、ここでの「天と地を造った」という言葉が、この世の全てを造ったことを意味しているのと同じように、ここでの「善と悪を知る」というのも、この世のすべてのことを理解するという意味に受け取ることができるわけです。
 「善と悪を知る」ということは、すなわち「この世の全てを理解する」。しかしそれは、そんなに良いことだったのでしょうか?
 人間が善悪の知識の実を見たとき、それは「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(新共同訳)、と書かれていますが、それを食べて、人間は本当に賢くなったのでしょうか。善と悪を知る事は賢いことなのでしょうか。
 人間は善を知っただけではなく、悪も知りました。そして悪をもって利益を得る方法も覚えました。それは本当に賢いことなのでしょうか。
 人間はいろんな知識を蓄え、その知識や知恵を使って、文明を生み出し、豊かで安定した生活を、目指そうとしてきた。大筋においてはそうういうことではないかと思います。
 けれども、そんな人間の営みが、すべての人を幸福にしたのかというと、決してそうではなかったのではないでしょうか。
 すべての人がそうではありませんが、それでも往々にして多くの人は、自分が得するためには人に迷惑をかけたり、傷つけたり、人を蔑ろにすることを厭いません。自分の生活の安定のためには、誰かを犠牲にしているのではないか、という社会の構造から目を背けながら生きています。
 そして、多くの人から奪い取って自分の利益にしたり、自分の利益のためには、人を殺したり、土地を奪ったり、財産を盗んだり、挙句の果てには戦争をしたり、そういうことをする人の多くは、特に今の日本の世の中では、一般的には賢い、頭の良いとされている、指導者の人たちです。
 そういう意味では、頭が良いという事は、実は本当の意味ではあまり賢くないとも言えるかもしれません。
 本当の賢さって何なのでしょうか? 皆さん、何だと思いますか?

▼主を畏れることが知恵のはじめ

 旧約聖書に「箴言」という書物が収められています。「箴言」というのは「教訓」とか「格言」といった意味ですが、この箴言の9章10節に……
 「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別」(聖書協会共同訳)と書いてあります。
 「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。」
 「本当の知恵は、神さまを畏れるところから始まるんだよ」ということでしょうか。神さまを畏れることが知恵の始まりであり、最終的にも、結局そこに行き着くということではないでしょうか。
 善悪の知識を身に付けたのはいいけれども、善だけではなく悪も身に付けてしまった。何が善であり、何が悪であるかを知ったけれども、それを分別して善を選ぶ知恵を身につけることはなかった。そのために私たちは自分を苦しめる結果になってしまった。
 善を選び、悪を捨てるということがなかなか人間にはできない。知識は増えたけれども、本当の賢さと言うものは、まだ人間は手に入れていないのかもしれない。
 その本当の賢さはどこにあるのか。それはやはり神のもとにあるのではないか。
 善悪の知識の実を食べた人間は、自分が裸であることに気づき、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻くものを作って、陰部を隠したと書かれています(創世記3.7)。
 この世のすべてのことを知ったはずなのに、そこで人間が得たのは、自己否定でした。天真爛漫に生きていた生活が壊され、自分をそのままで肯定することができなくなりました。
 神から離れて自由に生きようとすることで、ありのままの自分が愛されているという感覚を失い、善悪の知識で他人から裁かれることを恐れるようになる。これも悲しいことです。善悪の知識の実を食べたことで、人間は幸せになっていません。
 自分が神のように賢くなった、もう神無しで生きてゆける。そうです、人間は神さまのことなんか意識しなくても生きてゆけるし、そうやって生きている人も多いのです。神は裏切られた。
 人間に裏切られた愚かな神。失敗したように見える神。一見賢くないように見える神さま。
 しかし、そんな神さまは、私たちが神無しに生きようとすることを促し、実際人間が神無しに生きようとしても、やっぱり私たちを愛し、見守ってくださっている。その愛が本当の知恵であり、賢さではないのか。
 だから私たちは、「私たちはそんなに賢いものでは無いのです。手を出してはいけないものに手を出してしまいました」と、正直に神さまの前に告白し、神さまの愛という本当の賢さを、少しでもおすそ分けしてくださいと願う以外に、賢い生き方はできないのではないでしょうか。
 本当の賢さは愚かな神の愛の中にある。そんな風に感じます。皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り

 すべての造り主、知恵の源である神さま。
 今日、こうして礼拝の恵みを与えられましたことを感謝いたします。
 私たちはともすれば、知識を誇り、力を誇り、豊かさを求めて、争い、騙し、奪う、愚かな存在です。
 あなたのもとを離れて、そんな愚かな存在になってしまいました。
 神さまどうか私たちをお赦しください。そして、あなたのもとに戻る勇気をお与えください。
 あなたは私たちには愚かに愛する親のように見えますが、その愚かさの中にある本当の賢さに気づかせてください。そしてその賢さを、私たちにも分けてください。
 あなたに造られた者として、私たちの主、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。
 アーメン。

 

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

よろしければサポートをお願いいたします。