赦しってなんですか〜私も復活を許される
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赦しってなんですか〜私も復活を許される

ぼやき牧師|富田正樹

2022年4月17日(日)徳島北教会イースター礼拝説き明かし
ルカによる福音書23章34節(新約聖書・新共同訳p.158、聖書協会共同訳p.156)
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 記事の末尾に動画もありますので、よろしければお聴きください。

▼イースターおめでとう

 皆さん、イースターおめでとうございます。また、新年度おめでとうございます。
 日本が新年度を4月から始めるのは、特にイースターとは関係ありませんけれども、たまたまイースターの時期と、春に新年度が始まるのが同じ時期なので、心を新たにして生き直すという意味では良いのかなぁと思ったりします。

▼お赦しください

 さて、今日の最初の箇所は、イエスの受難、十字架で亡くなる直前に発した言葉の場面です。
 イースターというのは復活のお祝いなのに、なんでイエスの受難の場面が今日の聖書の箇所なのか、おかしいなと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 けれども、今日は「赦しとはなんですか」というタイトルで、私たちの赦しが達成されたということが、復活のひとつの大きな要素であると思いますので、赦しにまつわる聖書の言葉からお話をしてみたいと思います。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」
 ここでの「赦す」という言葉は、ギリシア語では「赦す」、あるいは「許可する」という意味もありますが、「解放する、無視する、断念する、置き去りにする」という意味もあります。
 つまり、ここでイエスが「お赦しください」というのは、「そのままにしておいてください」「ほっといてあげてください」という意味にもなるということです。
 さらに言えば、これは「主の祈り」の中の、「私たちが負い目を赦しましたように、私たちの負い目もお赦しください」という言葉で使われているのと同じ言葉です。
 負い目、負債を免除してくださいと言っていますけれども、これも、無条件にそのままに放置しておいてください、ということになります。

▼イエスと親鸞

 今日お読みしたこの部分は、この印刷された聖書では、〔 〕が付いています(このカッコの形、「亀甲括弧」というそうですね)。この〔 〕というのは、これを書いている写本と書いてない写本があって、この言葉があった可能性もなかった可能性もあるよということなんですね。
 あったのがオリジナルなのか、無かったのがオリジナルなのか。どっちかわかりません。
 もともとあった言葉を削除するということはあるでしょうか。でも、写本を書き写して伝える役割の修道士が、「こんな言葉があるのは許せない」と思って削除した可能性が絶対に無いとは言い切れません。
 けれども、もともと無かったところに、「これがイエス様の思いにふさわしい」、「これがイエス様の本意に近い言葉だ」と思って付け加えた可能性も絶対に無いとは言い切れません。
 この「イエスを殺そうをしている者たちを、イエスが『放っておいてください』と言った」という言葉が、あったのか無かったのかは謎のままです。
 ただ、私は、この言葉に現れているようなイエスの思いはここだけではなく、他の聖書の箇所にもあるのではないかなと思います。
 たとえば、イエスは別の聖書箇所で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2.17)と言っています。
 それから「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5.45)とも言っています。
 善人や義人はもう赦される必要はない。もうその人は既に「善」や「正義」、「義」に立っているのだから、それだけで救われている。赦されなくてはならないのは悪人であり、罪人こそが救われるのであるということです。
 これは、親鸞が言い残したとされる「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という『歎異抄』の言葉にも通じる教えです。「善人が救われるのだから、悪人が救われないことなどあるわけがない」という、常識では考えられないような救い、常識では考えられないような赦しが、イエスと親鸞に相通じるところではないかと思われます。

▼決して赦せない

 例えば、具体的な人間関係に落とし込んで考えてみたら、どうでしょうか。
 誰かを殺してしまった場合、あるいはレイプしてしまった場合、あるいは殴って怪我や障害を負わせた場合、虐待してしまった時、差別してしまった時、その悪行を無かったことにすることはできません。
 その悪行を「赦してください」と加害者が被害者に簡単に言うことができるでしょうか。あるいは、それが過去のことではなく、現在もなお痛めつけ続けている、相手が泣いているという状況で、「ありのままの状態で私を赦してください」と加害者が言うことができるでしょうか。
 その場合、「ありのままで」「そのままで」赦されるということはありえないんじゃないでしょうか。そんなことをしていると、永遠に正義というものは実現しないし、被害者が慰められることはないし、加害者は居直ってしまいます。
 ですから、本当に「赦し」と「和解」が成立するためには、加害者の徹底的な罪の自覚と、謝罪と、反省と、加害者自身がこれまでとは違う人間として生まれ変わったように、自分を変革してゆこうとすることが条件となります。
 あるいは、それでも被害者が加害者を赦さないということがあっても仕方がない。それがこの世の常識だろうと思います。

▼赦そう、しかし忘れまい

 あるいは、私はこんな言葉を聞いたことがあります。
 「私はあなたを赦します。しかし、決して忘れません。」
 これは、シンガポールの初代首相であるリー・クアンユーという方が、日本が過去侵略した歴史について、「赦そう、しかし決して忘れまい」と言い、戦争にまつわる記憶、記念碑や歴史遺産を、次の世代に継承するために政府を挙げて取り組んできたと、そういう記事を読んで、私をその言葉を知りました。
 日本では「水に流す」という言葉がある。それも確かにひとつの生活の知恵ではありますね。ある場面においてはそうです。
 けれども、世界的、歴史的に見れば「水に流す」ということはありえないということが多いだろうと。例えば、今行われているウクライナにおける大規模な人殺しも、おそらくいつかは戦争が終わったとしても、決してウクライナの人は忘れはしないでしょう。
 あるいは、日本人は加害の歴史も忘れがちだけれど、世界で唯一核兵器を実戦で使われたにもかかわらず、それを忘れたかのような振る舞いをしているように見えるのは私だけでしょうか。
 国や民族といった大きな規模であれ、個人的な問題であれ、悪は「水に流す」ことはできません。悪を赦すということは、ひょっとしたらあり得るのかも知れませんが、それは誰によっても「赦しなさい」と強制されるべきことではないし、たとえ赦すことができたとしても、決して忘れられない。忘れるべきではないことなのではないかとも思われます。
 「赦す」ということは「無かったことにする」ということではないのですね。

▼正義だけでは変われない

 しかし、今日のイエスの言葉、「彼らをお赦しください。自分が何をしているか分かっていないのです。」という言葉。
 「自分の悪を知っている人どころか、自分が何をしているのかわかっていない人までも赦す」という、この常識はずれの愛がなくては、生きてゆくことができない人間もいます。
 被害を受けた者の傷ついた感情は癒えることはありません。そして、その人に「赦しなさい」とは誰も言えない。たとえ「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」(マタイ18.22)とイエスが言ったとしても、ちゃんと謝罪もしない人間のことを「赦しなさい」とは誰も言ってはならない。ここは敢えてイエス様に反対したいところです。そうでないと、被害者を守ることも支えることもできません。それが「正義」というものでしょう。
 けれども、「正義」だけでは、加害者が変わることはできません。
 加害者にも、人生をやり直すために、自分の悪を自覚し、自分を変革するための安全な場所と時間が必要なのではないでしょうか。そのためには、「おまえを無条件に赦す」という神の赦しがなくては、始まらないのではないでしょうか。
 それは被害者当事者からの赦しではなく、神からの赦しです。
 神は私を赦してくださっている。それは被害者当事者からの赦しではありません。人は赦さない。人は赦さなくていい。しかし、神がその人を赦しています。
 神は加害者を赦している。この事を言うと、被害者やその家族の感情を思いやる人は、絶対に納得できないと思います。
 加害者はこの世で罰を受けなくてはなりません。あるいは賠償責任を負わなくてはなりません。
 しかし神は、そしてイエスは、加害者の存在を否定することはなさいません。たとえ極悪人であったとしても、「そんなあなたも、私の大切な子である」ということは絶対に否定なさらないのですね。
 何度も言うようですが、これに納得しない人は多いと思います。けれども、イエスは「赦してください」と神にとりなしてくださっているんです。
 そして、その赦しは、悪人が人生をやり直すためには、どうしても必要なことなのではないかと思われます。

▼再び起こされる

 イエスは「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか分からないのです」と、常識はずれの赦しを神さまに願いました。しかし、イエスの物語はこれでは終わりません。イエスは復活します。
 これまでも何度か申し上げてきましたけれども、私たちが日本語で「復活」と呼んでいるのは、元の言葉では「再び起こされる」という意味になります。「神によって再び起こされた」という言葉を、私たちは日本語の聖書で「復活した」と翻訳されたものを読んでいます。
 「復活」と書かれていると、いったん死んだ肉体が息を吹き返したのかな、という風に読めます。実際、そういう理解の仕方をしている人もいますから、そういう人にショックを与えないように、何度翻訳が改訂されても、ここは「復活」と訳されています。
 けれども、直訳すると「再び起こされた」です。ということは、必ずしも肉体が息を吹き返したという意味とは限らないとも言えるわけです。それは神によって再び起こされたイエスの姿と私たちが出会う、あるいは、再び起こされたイエスが、今の私たちに迫ってくるという体験のことを指しているのではないかと、私は思います。
 これも何度かお話したことがあるかもしれませんが、パウロは自分の手紙の中で何度も、「十字架につけられた『ままの』イエス」という言い回しを使っています。「十字架につけられたイエス」と日本語では訳されていますけれども、実際には、今も十字架につけられたままでイエスが私の前に現れたと言っているのですね。それがパウロにとっての復活のイエスです。
 復活のイエスというのが本来そういうものであるとしたら、私達も「十字架につけられたままのイエス」が神によって再び起こされている様子を心に思い浮かべるというのが、本当のイースターの形ではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

▼私たちの復活

 私がもしある人を痛めつけたとしたら。あるいは、ある人を裏切ってしまったとしたら、あるいは、苦しんでいる人を見捨てたりしたことがあれば……。その暴力性は、イエスを死に追いやった群衆の暴力と同じものではないか。もしそうだとすれば、イエスを死に追いやった暴力性を私達自身も持っているのではないか……。
 殺されたままのイエスが再び起こされて私の目前に迫ってくるということは、「あなたは赦されている。しかし、あなたの悪が忘れられているわけではないんだよ」ということかもしれません。ですから、私達は十字架を見るたびに、自分の中の悪の側面(ダークサイドと言いましょうか)を、ちゃんと思い起こさなくてはならないと思うのです。
 そして私達は、毎年、レントの50日間の長い間、悔い改めの期間を送り、そしてイースターの日にイエスが十字架につけられたままで起こされることをイメージするのです。
 イエスは十字架につけられたままで、御自分を十字架につけた暴力性を赦してくださっています。
 自分が何をやっていたのかわかっていなかった時点から、すでに自分は何のおとがめもなく認められている。それくらいこの赦しの愛は大きいんですね。
 この愛があるから、私たちはどんな過ちを犯したとしても、新しい人生に向かって再出発できます。
 悪が消えることは無いでしょう。そのために私たちは毎年悔い改めの期間を過ごします。しかし、その悪は必ず毎年赦されます。だから私たちは新しい気持ちで人生をやり直すことができるのですね。
 イエスが再び起こされたというのがイエスの復活なら、私も、私たちも再び起こされる。これが私の復活です。
 イエスと共に復活し、新しい年度を新しく生き直してゆきましょう。
 祈ります。

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ぼやき牧師|富田正樹
教師の傍ら、小さな教会の牧師(代務者)もしています。