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種の蒔き方がおかしい農夫の話

2023年2月5日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
ルカによる福音書8章4-8節(新約聖書:新共同訳 p.118、聖書協会共同訳 p.116)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。
(上の写真は、ガリラヤ湖畔の丘陵地帯にある畑です)

▼ルカによる福音書8章4-8節

 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。(新共同訳)

▼種の蒔き方がおかしい農夫の話

 今日読んだ聖書のお話は、「種蒔きのたとえ」と呼ばれるたとえ話です。たとえ話のあとにそのたとえの説明までついているという点で、大変珍しいたとえ話です。
 ある農夫が種蒔きに出ていく。ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、鳥がついばんで食べてしまう。他の種は石地に落ち、芽は出るけれども、水気がないので枯れてしまう。また他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びてきて、押しかぶさってしまった。けれども他の種は良い土地に落ちて、大きくなって、百倍の実を結んだと。そしてイエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言ったと。
 これを読んで皆さんはどんな感想をお持ちになるでしょうか。
 私自身は、「これは変わった種蒔きの話だなぁ」と思いました。私が農夫だったら、最初から良い土地に種を蒔きます。道端や石地や茨が生えているようなところに、わざわざ種を蒔いたりしません。
 イエスが生きていた当時、農業に従事していた人がどんな風に種を蒔いていたのかわかりません。ミレーとかゴッホみたいな有名な画家が「種まく人」という絵を残していまして、イエスとは時代も地域も違いますけれども、その種を蒔いている様子を見ると、たしかに種を握って、パーッと蒔き散らかすように蒔いているように見えます。
 麦の種というのは、こんな風に適当に蒔き散らかすように蒔くのかと思って、Twitterで質問してみましたら、家庭菜園などで小麦を育てている人から、「パーッと蒔きますよ」というお返事をいただきました。
 しかし、それにしても、ミレーの絵でもゴッホの絵でも、農夫は畑に種を蒔いていますよね。わざわざ蒔いても仕方がないようなところに蒔いたりはしません。
 この話を聞いた人たちのなかに本職の農夫がいたら、失笑したのではないでしょうか。
 しかし、イエス自身も、大工か石工が本職であったとは言われていますけれども、農繁期のぶどう園の臨時雇いの労働はやった可能性がありますから、農業について何も知らないということはなかったんじゃないかと思うんですね。
 もしそうだとすると、イエスは知っていてわざと変なところに種を蒔く農夫の話をしたのかもしれません。

▼お弟子さんたちは偉いか

 このたとえ話のあとに、福音書記者は、イエスは弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人はよくわかっていないから、たとえでわかりやすく話すのだ」といったようなことを言う場面が入ります。
 そして、さらにこの福音書記者は、たとえ話の解説も書いています。それによれば、種の蒔かれたそれぞれの土地は神の言葉を受け取る人間の種類なのだというのですね。
 道端というのは、神の言葉を聞きはするけれども、悪魔がやってきてその言葉を奪い去るような人たち。石地の人たちは、神の言葉を喜んで受け入れるけれども、根がないので信連に遭うと身を引いてしまう。茨に覆い塞がれてしまうのは、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれてしまう人たち。けれども、良い土地に落ちたのは、立派な善い心で神の言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちだというんですね。
 私は、ひねくれた聖書の読み方かも知れませんが、たとえ話そのものはイエスが話したことだと思いますが、そのあとの、弟子たちだけが神の国の秘密を悟っているとか、神の言葉を善い心で受け入れて、よく守り、忍耐する人だけが実を結ぶのだという解説は、イエスが亡くなったあとに、弟子たちが(特にあとからやってきて、遺されたイエスの弟子の集団をまとめて実権を握ろうとしたペトロたちが)作った物語ではないかと思うのですね。
 つまり、「イエス様は我々12人の男性の弟子だけに、神の国の秘密を直接教えられたのであって、皆んなに開かれた教えではないのだ。我々は特別に選ばれたメンバーなのだ」と主張したかったから、こういうエピソードを挿入したんだろうな、と考えるのですね。
 そして、「あなたがたは良い土地に蒔かれた種のように、立派な善い心で御言葉を聞いて、よく守って、忍耐して実を結びなさいよ」と教えている。つまり、「あなたがたは私たちが伝えている神の言葉を、従順に受け入れておとなしくついてきなさいよ」と言っているように私には受け止められるのです。
 聖書が書かれたいきさつにも、人間臭い思惑がたくさん絡んでいるという読み方を学んできましたし、また、ペトロを中心とする男性の弟子たちが、マグダラのマリアを中心とする女性の弟子たちを排除して男性中心的な教会を作っていったということを学んでしまったので、そのように思われて仕方なくなってしまうのですね。

▼自信のある人たちとそうでない人たち

 で、「あなたは神さまの言葉の種を育てることのできる良い土地に鳴っていますか?」と言われてしまうと、真面目な人ほど、「自分は良い土地になっているだろうか」と思います。そして、「自分は良い土地にならなければ」と思うようになります。そして、自分が良い土地にふさわしい人間であろうと努力するようになります。
 これは、資本主義の始まりについての歴史、16世紀に宗教改革で活躍したカルヴァンという人の教えが資本主義を産んだ、という歴史観とちょっと似ていると思います。カルヴァンは、「救われる人と救われない人は、あらかじめ神さまによって決められている」という教えを説いたんですね。
 これを信じた人たちの中で、「自分は救われているはずだ」ということを確かめたい人たちが現れました。「神に救われているなら、救われるにふさわしい生き方をするはずだ。自分が救われているかは、生き方で確かめることができる」。
 そして、それを確かめるために、自分に与えられた仕事を神に与えられた天職だと思って、一生懸命打ち込んで、その仕事の質を向上させ、また生き方としても模範的な人物になるように努力しました。
 結果的にそうやって力を注いだ結果、良い仕事をする産業が発達し、財産を築く人びとが現れ、それを資本として投資して更に事業を拡大する者が出てきて……という具合で資本主義が生まれてくる土台を作ったと言われているわけです。
 自分は「良い土地だ」と思いたい人、あるいはそれを確かにしようとと思える人は、こうやって前向きにこのたとえ話の解釈を受け取って、どんどん自分の能力や道徳性を向上させてゆくのでしょう。
 ただ、私がちょっと気になるのは、たとえば、自分は良い土地だとはとても思えないと思っている人。そんな風に自信を持ったり、「自分でなんとかしてやろう」と思えないような人間は、「そんな人は神に救われた者らしくない」として、切り捨てられてしまうのかな、ということ。それは気になります。
 たとえば、「私は聖書の中でいい言葉に出会っても、なかなかそのとおりにはできないな。試練に遭うとすぐ挫折してしまう。だから、私はどっちかというと良い土地じゃなくて石地かな」とか。
 あるいは「私は聖書の言葉を受け取っても、人生の思い煩いに覆い塞がれてしまって、なかなか素直に神さまを信じ切ることはできない。どうせ私は茨の生えている土地のような人間だわ」とか。
 そんな風に思ってしまって、なかなか勇気を持って生きることができない人を、「おまえは道端なんだ、石地なんだ、茨の土地なんだ」と言って決めつけてしまうことが、果たしていいことなのかなと思ったりするんですよね。

▼誰の立場でたとえ話を読むか

 それに、ここに書かれているように、「道端のような人間、石地のような人間、茨の生えているような人間、良い土地のような人間」と言いますが、「結局は神の言葉を受け取って活かすかどうかは、その人自身がちゃんとしているかどうか。その人自身の問題だ」と言い切ってしまう、その考え方もどうなんでしょうか。
 なんぼ神さまの言葉を聞いても、一向に受け入れようとしない。神さまを信じてくれない。イエスに対するリスペクトさえ抱いてくれない。聖書に興味さえ持ってくれない。これは伝えている側に問題があるんだろうか?
 いや、そうじゃない。相手の問題なんだ。神の言葉を受け取っているのに、それを自分の心の中で育てようとしない、良い土地ではない人たちの方が悪いんだ、と考えることもできるわけです。
 これがとことん行くところまで行ってしまうと、「この世は神に背いた罪深い世界だ」とか「この世はサタンだ」ということになってしまいます。カルトには、こういう世界観がよく見られます。
 実際、このたとえ話の解釈の中でも、神の言葉が蒔かれたのに、「悪魔がやってきて、心から御言葉を奪い去る」という言い方も出てきますから、「この世がキリスト教を信じないのは、この世が悪いからだ」というカルト的な考え方の芽のようなものが、このたとえ話の意味の説明のなかにもちゃんとあるわけです(ルカ8.12)。
 しかし、この発想のそもそもの問題点は、読む人が「人間は種を蒔かれる側の存在だ」と決めつけて読んでしまうというところにあるのではないかと私は思うんですね。
 たとえば、「自分は種まきの農夫かもしれない」という読み方をしてみてはどうでしょうか。
 イエスは、単に「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言ってお話を始めているだけです。ですから、道端はこういう人のことである、なんてことは一言も言っていません。聞く人が自分を何に重ね合わせるかは、聞く人の勝手です。
 イエスはただ、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。そしてある種はどこに落ちて、食べられてしまった。ある種はどこに落ちて、枯れてしまった。他の種は茨に押しかぶされた。ほかの種はどこに落ちて、実を結んだ。あとは「聞く耳のある者は聞きなさい」。これを言っただけです。あとは聞く人が自由に受け取っていいんですね。

▼あなたが種蒔きだとしたら

 たとえば、ある人が「この種蒔きというのは人間のことを象徴しているのかも知れない」という風にこの話を聞いたらどうでしょうか。自分が種を蒔くとしたら、こんな変な蒔き方はしないだろうなあと思うかも知れません。じゃあ、なんでこんな変な蒔き方をするんでしょうか。どうして、芽が出なかったり、干からびてしまったり、茨に覆われるようなところにまで種を蒔いてしまうんでしょうか。
 考えてみれば、この種蒔きさんは気前がいいですよね。ものすごく種を無駄にしている。それでも、この人は種を蒔くわけです。
 それはつまり、種を蒔くときはこうやって蒔くもんなんですよと、イエスが言っているのかもしれない。
 あるいは、ある人はそれを神の言葉の種を蒔くこと、つまり伝道や教育のことだ。私たちは相手がどんな状況にあろうとも、気前よく神の言葉を実践するべきなんだと教えているのだ、と考えてもいい。
 あるいは、ある人はそれは自分の仕事だと考えてもいいかもしれない。あるいは、ある人はそれは子育てのことだと考えてもいいかもしれない。またある人は、それは奉仕活動だと考えてもいいかもしれない。またある人は、そんなに具体的なものではないけれども、人間関係において、人を愛するもとになるようなもの。それを種という言葉で表していると考えてもいい。
 またあるいは、そういう個別具体的なものではなくて、人ひとりひとりに命を与える神さまのわざのことを表していて、人がどんな風にその命を生きようとも、あるいは死のうとも、神さまは惜しみなく命の種を蒔いているんだという風に解釈する人もいるかもしれない。
 要するに、とにかく自由に自分のピンとくるものを当てはめてみていいんじゃないかと思うんですね。そして、それを他の人と分かち合ってみる。そこにたとえ話の値打ちがあるんだと思います。
 イエスは、種を蒔く人が気前よく種を蒔く様子をただ語っているだけです。「すいぶん気前のいい種蒔きがいるんもんだなあ」と言っているだけ。あとは聞く人が何を考えるのか、全く自由なわけです。
 皆さんは、イエスが言っているこの「種」は何だと思いますか? そして「種を蒔く」というのは、どういう行為のことを指していると思いますか。どうにでも解釈できますし、どう考えてもかまいません。
 どんな考えてもいいような、その材料をイエスは私たちに示してくれている。それがイエスのたとえ話だと思うのです。
 皆さんは、どう思いますでしょうか? この話で何を思い浮かべますでしょうか?
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 今日もあなたに与えられた命を、こうして生きておられますことを感謝いたします。もし御心でしたら、私たちが少しでも健康に、長生きできますように、私たちを守ってください。
 しかし、もし悲しいことがあったとしても、私たちがくじけないように、少しでも強く生きていけるように、私たちを支えてください。
 あなたの御心がどこにあるのか、それがはっきりと示されていないことを感謝いたします。
 私たちに自由を与えてくださってありがとうございます。
 あなたの御心を探る楽しみを与えてくださってありがとうございます。
 あなたの御心を探り、分かち合い、学んだ善いことを、毎日の暮らしに活かすことができますように、どうかお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。


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