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ゲシュタルト崩壊

木を見て森を見ず。
人間が把握すべきスケール。
森は見えなくてもいいが、木が見えなくなると、人格が崩壊する?

このゲシュタルト崩壊は、同じ文字を繰り返し見たり、聞いたりしているうちに、形が分からなくなってくるという現象のことを言います。

単純な構造のアルファベットより、複雑なひらがなや漢字は、ゲシュタルト崩壊が起こりやすいらしく、経験した人は多いのではないでしょうか。

ゲシュタルトは、ドイツ語で「構造」を意味していて、それ以上バラバラにすると意味をなさない物を言うそうです。

人間というのは、物事や現象を、その構成物「素材」ごとに認識するのではなく、近くにあるものや同類のものなど、ある条件に基づいて一つのまとまった集合体として認識する能力「知覚」が備わっています。

しかし、あまりにも集中力が高まると、この「構造として、塊として、認識しているもの」が崩壊することがあります。

メカニズムとしては、今までは、普通に捉えることが出来ていた集合体の全体像が急に把握できなくなり、それを構成している個々のパーツばかりに目が行くようになってしまうことで、それを捉えられなくなると言われています。

ゲシュタルト崩壊は、1947年、ドイツの神経科医ファウストによって、失認の一症候として報告されています。

失認とは、視覚、聴覚、触覚に異常がないのにも関わらず、対象を認識できないという障害のことです。

失認に関しては、ゲシュタルト崩壊以外にも多様な原因はあるでしょうから、失認の一種としての、ゲシュタルト崩壊という認識でいいと思います。

少し、具体的に話していきます。

ゲシュタルト崩壊を起こしやすい文字は、傷・借・多・野・今・粉・若・あ・を・丈・ル、などらしいです。

例えば、とある文字を見た時、線の数や払いの位置などを一つ一つ追わなくても、ぱっと見でその文字を読み取ることができますよね。

さらに、文字が傾いたり、フォント「書体」が変わったり、場合によっては線が一本少なかったりしても、その部分に気が向くことなく同じように文字を読み取ることができます。
これは、部分の違いよりも全体的な枠組みが優先された結果であると言えるのです。

そもそも、人間は、物を抽象化して、把握を簡単にしたり、パターン化して、思考しやすく工夫しているのだと思うのですが、

それを意識することはありませんよね。
幾何学的なものや形は、パターンだ!って分かるのですが、動物の顔とか、樹木の材質とか、一見、パターンとは無縁のものであっても、無意識化でパターン化は行われているはずです。

そのパターンの組み合わせで、さらに大きなものを認識していると考えられます。
例えば、人は、人の顔を認識するのに、様々なパターンを事前に用意しています。

目とか、鼻とか、口とか、耳とか、いろいろありますが、それぞれに、パーツとして認識していますよね。

意識しないパーツとしては、しわとか、凹凸、もしかしたら、表情とか、動きとか、声も、パーツとして意識しないけど、人間が人間を認識するためのパーツもしくは、パターンですかね。

すべては、人間が物を認識するために、勝手に分け隔てたパターンとかパーツです。
したがって、1パーツである「目」を見てみても、まぶた、まつげ、眼球で目は構成されていますよね。

さらに、眼球は、角膜、瞳孔、虹彩、網膜なんかで構成されてます。

さらに、網膜は・・・という感じで、このように、ある一つのパーツやパターンは、さらに小さな、別のパーツやパターンで構成されているのが普通です。

人間の物の認識は、こういった具合に、階層構造「トーナメント表」みたいな形で扱われます。

逆に、こうしないと、人間はものを認識できないのだと考えられます。

もちろん、今とりあげた「目」にしても、顔の構成物の一つですよね。
さらに、顔は、頭の構成物の一つですし、頭は、身体の構成物という感じ。。。

工業製品の一つに、リモコンってありますよね?
リモコンでなくてもいいんですが、機械の操作を行うやつです。

テレビのリモコン、エアコンのリモコン、照明のボタン、ピアノ、パソコン、調理機、洗濯機、携帯電話、ドライヤー、シェーバー、いろいろ。。。

これらのコントローラには、たいてい、ボタンが並んでますよね。
逆に、ほとんど、ボタンですよね。
ボタンが並んでいるものが、コントローラー。
インダストリアルデザインの世界では、インターフェースとかいいます。

このインターフェースは、扱う機械によって違いますよね。
でも、それって、ボタンがどう配置されているか?
そのボタンで、何が入力できるか?
の違いだけじゃないですか。

下手すると、ボタンに意味のある説明がないものが多い。
エアコンなんかだと、停止とか、運転とかw

何が言いたいのかというと、これら、リモコンなんかの操作パネルを見て、一瞬で何かを判断して、操作するじゃないですか?
凄くないですか?

だって、ただボタンが並んでいる機械ですよ?
ボタンの配置とか形とか数が違うだけの。

そこが、人間の凄いところですし、その特徴を理解して、工業製品というのはデザインされてるんですね~。
ここまでの話で分かるのは、人間は、そのシチュエーションとか、ボタンの微妙な配置とか、その数とか、そういう単純な組み合わせと、シルエットだけで、それを、エアコンのリモコンだとか、テレビのリモコンだとか、キーボードだとか、照明のボタンだとかといった感じで、把握しているということです。

そんなん、話をややこしくするなよ!って思うかもしれませんが、人工知能の開発なんかでは、この程度の事でかなり苦労しますし、こういった人間の認識メカニズムの理解は、おおよそ間違っていないと思います。

本来、物というのは、人間でもいいですが、大量の構成物によって出来ています。
これを、ひとつとして一度に認識するというのは、不可能なので、(多分何千とか何万)
人間は、先ほど、お話したように、トーナメント表のように、階層構造で分けて、認識にかかるコストを下げています。

なぜ、認識にかかるコストが下がるのよと。
こういう時に、コンピューターに例えると分かりやすいんですが、実は、コンピューターも、私たちと同じ機能が備わっています。
ディレクトリなどと言いますが、これも、トーナメント表と同じ仕組みで動いています。

例えば、デスクトップの作業フォルダの中のプロジェクトAファイルの中に、今日の会議の資料があるとするじゃないですか?

これが、もし、全ファイルがデスクトップにあったらどうですかね?
コンピューターが管理するファイルというのは、可視化されたファイルの数百倍数千倍のファイルが存在します。(通常見えないやつね)

これの中から探すのって、大変ですよね。
しかも、速攻開こうとしたら、場所を把握していないといけないんですよ?

階層構造になっていれば、デスクトップにある10個程度のファイル「フォルダ」を記憶しておけば、速攻でそれと分かるし、辿って選ぶことができる。

人間も同じです。
少ない情報に分けておいて、速攻で見分けるという具合です。
もちろん、理解も速い。

イメージしてもらいたいのは、デスクトップにある作業フォルダという「物」の構成物は、その中に入っている数十個のフォルダやファイルですが、それらが入っている入れ物「まとまり」を作業フォルダと呼んでいるという考え方です。

ここで言いたいのは、ものの認識には、構造が必要不可欠だということ。(でないとむり)
ものの認識に利用される仕組みがいかに簡単なものであるかということ、同時に脆弱であるということを言いたかったわけです。

リモコンのボタン配置のように、極端にいうと、その配置だけで、それを認識しているように、あまりに、少なすぎる情報で物を認識しているということが、脆弱性です。

そもそも、物の認識とは、見失いやすいものだということです。
そして、その組み合わせパターンを見失うと、あっという間に把握ができなくなる。

単純すぎて、普段は気にも留めない、低い意識下で認識しているものの構成物をクローズアップし、集中すると、それに処理能力を奪われてしまって、全体のバランスを見る能力を奪ってしまうという様なことになるんでしょうね。
要は、処理のバランスを崩してしまうということがあると言うことです。

単調な仕事だと、「アクション・スリップ」も起こりがち。
書類を取りに席を立ったのに、つい、いつものようにコーヒーを手に戻ってきてしまうようなことですが、行動が習慣化すると自動化されてしまい、意識に上らなくなります。

ゲシュタルト崩壊以外にも、「トロクスラー効果」や「ネッカーキューブ」のような例もあります。
「部分」を注視していると、「全体」が失われたり、「周囲」が見えなくなったり(周辺視野の消失)、実験ある別の「形」が見えてきたりします。

ゲシュタルトが、VRを可能にしている。臨場感

人間は、バラバラに起こっているように観える『現象』を意識の中で結びつけて、そこから一つの状況を認識します。
そして、そこに強い臨場感「経験や知識」を持たせれば、それは『現実』となります。

何が言いたいかというと、現実(リアリティ)とは、普遍的に存在する『世界』や、そこで起こる様々な『現象』

ではなく、人間の意識が創りだす、『認識』と『臨場感』こそが、人生における『現実』となるということです。

歩き方を知っているだけでは、5メートル先にも行けないわけですよ。
実際には、歩き方だけでない、様々な知識や体験がないと、無理なんです。

分かりにくいでしょ?
想像してみてください、歩き方しか知らないんですよ?

もし、そうなら、見えない障害物があるかも?
途中で、つまずいたら?
もしかして、ここから一歩でもあるいたら、殺されるかも?
いや、どこかへワープするかも?
いや、二歩目で、エネルギー切れになるかもとか。。。

とにかく、歩く以外の知識や経験から私たちは、5メートル先へ行くことが出来るのです。
逆に言うと、行けることを確信しないと、行動できませんから、歩いていけることを、確信している「イメージ出来ている」ということです。

現実を理解する、もしくは、現実の物を理解するというのは、表面的な知識をなぞるようなものではなくて、全体構造、すなわち「ゲシュタルト」が形成されたことを指すのだと思うのです。

産まれたばかりの時、世界は、未知のものばかりなんです。
そこから、ゲシュタルトを形成していって、「当たり前になる」これこそが、リアリティであり、臨場感なんだと思います。

ここから分かるのは、ゲシュタルトの形成=現実化であるということです。

この話は、ここまでですが、VRと現実を区別するものが、人間自身にしかないのではないかということを示唆している訳です。

全然関係ないですけど、デパートにある、あのお菓子がいっぱい入った大きな回るやつあるじゃないですか?
あそこに、車の形をした銀紙で包まれたチョコレートが入っていたんですよ。

当時2歳の息子は、車が大好きだったんですが、(標準的な車が好きとは次元が違う)
遠目から、その車を見つけるわけです。
私たちは、その回るテーブルを見て、お菓子がいっぱい入った回るテーブルというものにしか見えないわけです。

しかし、彼には、その車しか見えていないわけです。
逆に、車しか認識できていなかったんでしょう。
実に驚きでしたw

人間すげーって思いました。
明らかに無理なんです、その距離で、大量にあるお菓子の中から一瞬で車のチョコを見つけることはw

子供には、その回転する機械のゲシュタルトが形成されていない、さらに言えば、お菓子の山っていうゲシュタルトも形成されていない。
そう考えると、なんか色々と分かってきた気になりますね。

ゲシュタルト心理学
ゲシュタルト心理学の原理というのがあるんですが、「部分の総和は全体とは異なる」というものなんですが、この考え方が面白い。

前に話した、集団意識、あれも、人間の考えとか、コンピューターの考えを集積しても、同じものにはならないということを示唆しています。

逆に言えば、私たち個人から、集団意識を感じ取ることは出来ないということです。

ネット上ではお馴染みのアスキーアートなども、部分は文字でありながら、ぱっと見で全体が人の顔などの絵になっていると認識することができますが、これもゲシュタルト心理学によって説明がつくそうです。

確かに、個々のパーツが何であれ、全体として意味が分かりますもんね。

つまりゲシュタルト崩壊とは、ゲシュタルト心理学における「全体的な枠組み」が崩壊し、パーツ部分に、認知の対象が向かっている状態のことなのですね。

ちなみに、ゲシュタルト崩壊と似た現象に、「ジャメビュ」というものがあります。

「既視感」の反対語で「未視感」を意味していて、日常的に体験したり見慣れているはずの物事を一瞬、初めて見たり聞いたり体験したかのように感じることを言うそうです。

このあたりは、デジャヴと似ていて、どういう作用でこれが起こっているのかまったく分かっていないので、未知の分野の一つです。

とはいえ、身近で起こる文字のゲシュタルト崩壊程度であれば、結構、気づいたら正常に戻っていたりするので、そうそう深刻な問題にはなりにくいですよね。

危険なのは、分からなくなるのが「文字」ではなく「自分自身」である場合です。

人間は、自分が生まれてから、コツコツ時間をかけて経験を積んでいき、人格なるものを形成していくと思うのですが、この「人格」にゲシュタルト崩壊を起こすと、結構やばいんです。
これまで、時間をかけて築いてきた人格を見失ってしまう。

これですね、人格のゲシュタルト崩壊と、文字のゲシュタルト崩壊では、リスクが全く違います。

この「人格」というのは、一瞬でも見失ってしまうと、今までは、ちゃんと理解して、気にもしていなかった自分自身というものに、疑念が起こる事になるんです。

なんか、かなりまずい話になってきましたが、「私って、こんな顔だったっけ?」とか「こんな声だったかしら?」とかこれを引き金にして、良からぬ精神状態に陥ったり、今まで出来ていたことが急に出来なくなったり、精神状態に大きな影響を与えかねない、大変リスクの高い現象なんだそうです。

それに、すぐに自分を再認識できればいいですが、もし、長時間再認識できない状況が続いてしまったりしたら、脳は混乱し、ついには、「私は誰?」とかって、自我が崩壊してしまう可能性もあるそうなんです。

ここからは、もし、人格のゲシュタルト崩壊を意図的に他人に利用すると、どうなるのか?
というお話をしていきたいと思います。

なんと、恐ろしいことに、洗脳に繋がるんです。(だいたい予想できるか)
戦時中に、洗脳を目的としたゲシュタルト心理実験が行われたといわれていますが、捕虜を鏡の前に立たせて、「お前は誰だ?」と延々鏡に向かって質問させる実験を行ったそうす。

この実験を開始して、10日間程度経過すると、被験者の判断力が鈍くなってきて、物事が正確に把握できなくなるとのこと。

さらに、3か月経つ頃には、すっかり自我が崩壊して、自分が誰だか分からなくなってしまうんだそうです。

もしかすると、もっと、かなり前からこういった行為自体は行われていたのかもしれませんけどね。
なんというか、鏡って昔から不気味な言い伝えが多いじゃないですか?

それが直観的に分かっているから不気味に感じるのかもしれませんしね。
特に、三面鏡なんかだと、同時にいくつもの自分の顔を見てしまうので、自分の見過ぎによって、自我の崩壊を起こしてしまうとか。。。

もしかすると、この不気味感というのは、鏡の見過ぎによる自我の崩壊を警告しているのかもしれません。

まあ、このような鏡を使った実験のように、ゲシュタルト崩壊は、悪用すれば、非常に危険な結果を招くものでもあるようです。

実は、現代においても、これを利用した洗脳が、カルト集団や悪意ある自己啓発セミナーで実施されている可能性があります。

例えば、閉ざされた環境でお経を一日中書かせたり、同じ挨拶や標語を、疲れ果てるまで何度も言わせたりする。

そうすると、対象者は、内容が分からなくなってきて、ただ「聞くだけ、言うだけ」の状態になります。

ゲシュタルト崩壊は、インプットしやすい状況を作るという意味では、場合によって、有益な使い方ができるのかもしれませんね。

悟りを開くにも、未知のものを固定観念に影響を受けずインプット出来る。
バイアスがゼロになったところで、正確に学ぶことができるとか?
赤ちゃんと同じ状態で、スポンジのように吸収できる的な。

ゲシュタルト崩壊を起こしている状態は、全てをそのまま受け取っている状態に近いかもしれないわけです。

いつも思うんですが、漢字って、読めるのに、書けないのはなぜなんだろう?
あれって、やっぱり漢字の認識がゲシュタルトだからなんかなと。
大雑把組み合わせで、何か認識できるけど、細かい部位の形状まで覚えていない。
逆にいうと、覚えていなくても、その漢字が何か分かるという。。。

意図的にゲシュタルト崩壊を起こすことができると、概念によって簡略化された視点から、
細部を細かく見る視点を得られるので、分析能力や観察能力は向上する可能性はあると思うのです。

しかし、物の分析自体は、収集した大量の情報を分類したり、抽象化、概念化する必要があるので、一時的にそういうモードを作れる人が、仮に、いたら、超能力レベルの観察能力を持つことになるかも。

いや~今回も、人間の認知能力の凄さというか、生物の神秘というか、世界の見え方も違って見えてきますね。
だって、想像してみてくださいよ。

この缶ジュース、通常ジュース飲むときに、ここに書かれているものが何なのか、どんな模様なのかとか、意識していないことに気づきますよw

全体像を見て、あ、このジュース〇〇だと認識しているのがよくわかる。
そして、その一部に集中すると、初めて文字が読めるようになるんです。

驚きと発見に溢れているというか。。。
こういった考え方とか、仕組みが少しわかってくると、世界がまた一つ広がった気がします。

読んで下さってありがとうございます。