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ますく堂読書会レポート「瀬戸内寂聴『余白の春 金子文子』を読む」(冒頭部を抜粋)

今、再発見される異色の女性革命家
二〇一九年の金子文子


益岡 さて、本日は二〇一九年の大晦日、令和元年最後の日です。令和最初の日である五月一日にジャニーズ座談会、そして今日はアナーキズム読書会ということで、実に罪深い、我々らしいイベントをさせていただいていると自負しております。
一同 (笑)
益岡 僕がアナーキズムに興味を持ち始めたきっかけは、一箱古本市というイベントです。一箱古本市というのは、段ボール一箱分の本を持ってきて販売するという、いわば「古本フリーマーケット」なんですが、谷中・根津・千駄木一帯を会場にした大規模イベント「しのばず一箱古本市」が元祖で、今では全国各地で開催されています。誰でも一日だけアマチュア古本屋さんになれる、という楽しい企画なのですが、ここに、この業界では知らない人のいない〈とみきち屋〉さんというお店があるんですね。
ますく堂 プロも真っ青の大人気店です(笑)
益岡 文学とか、研究書とか、ノンフィクションとか、ちょっと硬めの、珍しめの本を、絶妙な値付けでご提供いただけるということで大変人気があるんですが、そのお店ではほぼ毎回、「特集コーナー」を設けてマニアックなお客さんたちの好評を得ている。そんな「特集コーナー」として、ここ数年、「アナーキズム特集」が組まれるようになった。
この展開には店主さん、番頭さんの御趣味ももちろんあるのだろうと思うんですが、アナーキズム出版の盛り上がりがあるような気がしているんですね。関連書籍の出版点数自体も増えている印象を受ける。
ティーヌ この『余白の春 金子文子』も最近の出版ですよね。
益岡 岩波現代文庫から今年の二月に復刊されたばかりの一冊です。今年は、韓国映画『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク監督、二〇一七年)が日本公開されたこともあり、金子文子という人物に対しての注目度があがっているということもありますが、岩波文庫からは文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』が二〇一七年に刊行されていて映画公開以前から金子文子に注目が集まっていたのがわかる。『余白の春 金子文子』は、関東大震災の混乱の中、天皇と皇太子の暗殺を企てたとして「大逆罪」に問われた金子文子の二十三年という短い生涯を描いた伝記小説です。
岩波現代文庫からは同じく二〇一七年に瀬戸内寂聴のアナーキズム評伝文学の代表作である『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』も復刊されています。これは大杉栄と伊藤野枝を中心とした同時代のアナーキストたちの群像劇といった趣の大長編ですが、この小説の主人公のひとりである伊藤野枝人気がアナーキズム出版活況の重要なファクターであると個人的には考えていて、そのきっかけとなった一冊が栗原康さんの『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店)ではないかと思います。この出版が二〇一六年。とみきち屋さんのアナーキズム特集もちょうどその前後からはじまったような気がします。
そんなことでアナーキズムに注目して何冊か目を通してみたのですが……率直な感想が、「で、アナーキズムってなんなの?」という(笑)
一同 (笑)
益岡 なので今回は、「誰かアナーキズムについて教えて!」という思いで企画してみました。幸い、今回は歴史研究をされている方や、社会運動に関わっている方も多く参加されておられるので、心強く感じております。
まあ、もちろん、「これがアナーキズムだ」という正解はないのでしょうが、「アナーキズム」という言葉から感じることであったり、今回のテキストを自分の生活や境遇に引き付けて読んだようなところがあればその辺りを語って頂いたりして、そこから「なぜ今アナーキズムなのか」というような議論が出来ればいいんじゃないかと考えております。
あるいは……この『余白の春』には様々な切り口があると思うんですね。たとえば天皇制とか、テロリズムとか……アナーキズムと直接の関連があるかはわからないんですが、最近の個人テロのような犯罪を想起させられるようなところもある。京都アニメーションへの放火事件であるとか、登戸駅の近くでカリタス小学校の児童たちが襲われた無差別殺傷事件であるとか……
ティーヌ 少し前に、新幹線内の放火事件があって、犯人は死刑判決を受けているんですけど、その判決が下された時に「万歳」と叫ぶんですね。この小説の金子文子もまた、「万歳」と叫ぶ。
益岡 この「万歳」という所作は、文学的なモチーフとしても大きなエネルギーを持っているように思います。僕が思い出すのは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』で、水俣病に侵されたおばあさんが病院で突如「天皇陛下万歳!」と叫ぶシーン。かなり唐突にこのシーンが入ってくるんです。文学の中の「万歳」には、特別な機能が備わっているように思う。
今年は改元があった年ですので、安倍総理による「天皇陛下万歳」も記憶に新しいのですが(笑)、「ナショナリズム」という切り口で『余白の春』を読むのも興味深い試みになるのではないかと思います。
あとは……話があちこちに飛んで申し訳ないのですが、「アナーキー」という言葉とのファーストインプレッションというか、個人的な初遭遇は、椎名林檎の《ここにキスして》なんです。「女であるわたしがさめざめ泣いたりしないのはアナーキーな彼氏に似合うためなんだ」という歌詞には大変なインパクトがあった。この曲は、大ヒットしたファーストアルバム『無罪モラトリアム』(一九九九年)の看板曲といえるナンバーなので、僕のイメージの中の椎名林檎は「アナーキーな歌姫」だった。その彼女が今、東京オリンピックをデザインするアーティストとして存在している。これをどう捉えたらいいのか……
ティーヌ ナショナリストという立ち位置なのではないか、と……
益岡 純血主義だと批判された、NHKのFIFAワールドカップテーマ曲《NIPPON》(二〇一四年)や、旭日旗を思わせるデザインのライブグッズが販売されたことへの反響など「右寄り」との指摘も目にしますが、自身の活動に政治的な意図があるかのような報道に対しては抗議がなされたように記憶しています。彼女のパフォーマンス自体は僕はいつもとても面白く観ているし、《NIPPON》を収録したアルバム『日出処』も非常に多義性のある作品だったと考えている。だからこれはただのイメージ的な連想に過ぎないんだけど、『余白の春』という小説を「女性アナーキストの物語」として読んで行った時に、椎名林檎というアーティストの二十年間の変遷が思い出されてきたんです。栗原康さんが編纂したアナーキスト・アンソロジー『狂い咲け、フリーダム』(ちくま文庫)を読むと、たとえば高群逸枝さんのような戦前はアナーキストとして活動していたけれど戦中は転向してナショナリストとしての文業を進めることになるような方がいたことがわかる。寂聴さんが描いたのは夭折する女性革命家たちということになるわけだけれど、一方で転向して、その後、名を残した女性たちもいる……椎名林檎がそういう人物だと言うつもりはないんだけれど、僕の中でのイメージ変遷が「転向した女性革命家たち」のビジョンと重なる。
転向を単に「悪いこと」のように捉えるのも短慮であるような気がしていて……思想の変遷があったかどうかはともかく、メインカルチャーとしての立ち位置を維持し続けようとした時に芸能人や文化人が「宗旨替え」をしたように見られるということはあると思うんですね。自分にとってより重要な「筋」を通した結果、「転向者」と見なされることもあると思う。寂聴さんの「女性革命家たちの物語」は「夭折者の物語」ですから、転向者についてはあまり描かれない。だからこそ、あえて「転向」という切り口に思いを馳せてみるのも面白いのではないかと思っています。
そして、もうひとつ語っていきたいのは、瀬戸内寂聴の「うまさ」です。寂聴さんはね、とにかくうまいんです。寂聴さんは素晴らしい伝記小説をたくさん書いていますが、そういう史実というか、データに基づく小説においても「堂々たる嘘」をつく。ひとによっては「ずるい」と思ってしまうような堂々たるフィクションを展開してくる。『余白の春』もかなり綿密な調査をして、膨大な資料をもとに描かれていると思うんですが、そうした史実の部分と地続きで、寂聴さん自身の解釈による「金子文子の物語」が展開されていく。私小説のようなセクションもある。その手筋が、実に「剛腕」なんです。
僕がそれを強く感じるところをひとつあげると、文子がはじめて朴烈に惚れるシーンというか、「逃がさないぞ」という決意を表明するシーン(笑)
ぽて あの辺はすごーく、つくってますね(笑)
益岡 共通の友人である鄭の下宿で二人は互いの事を知らずに出会うんです。文子は朴烈という人物を聞き知ってはいて、彼が去って行った後、「あのひとが!」と驚く。そして追いかけるんですね。
もちろん、もう暗い寒い夜の道のどこにも朴烈の姿のあるはずはなかった。木枯しが吹きつのってきて、真向から文子の軀を包みこんでくる。文子は風にさからって小走りに歩きながら、ふところ手をして、しっかりと自分の乳房を握っていた。
この「自分の乳房を握る」という描写はフィクションですよね。まさにこの同じ場面が、文子の手記『何が私をこうさせたか』にも登場しますが、朴とすれ違った時の強い印象は描かれているものの、その後、朴を追った描写もなければ乳房を握ったなんていう告白もない。ここは完全に寂聴さんの「つくり」なわけです。
この乳房の描写は、裁判の最中に撮られたという一葉の写真のイメージと繋がる。朴が文子の胸に手を伸ばしているように見える構図ですが、この写真が流出し、「このような卑猥な写真を撮ってやったということは、国家が逆賊に取り込まれている証左に違いない」というような報道がなされる。このスキャンダルな写真の構図は、映画『金子文子と朴烈』のビジュアルイメージにも採用されていますが、寂聴さんは、この強烈なイメージに重ねざるを得ないように二人の出会いの場面を描いたといえる。「木枯しの中、一人、自身の乳房を揉む」という文子のアクションは、数年後、裁判所で伸ばされることになる朴烈の手を迎え入れることを予見しているような、そんな激しさと覚悟に満ち溢れている。
こういうところは、小説だからこそできることだと思うんですね。映像でこのシーンを再現したとしても、この激しさは伝わらないように思う。変に説明的になったり、多義的になり過ぎたり……文章で描かれるからこそ、より焦点がしぼられるというか、文章にしか出来ないカメラワークが、こういうときの寂聴さんの筆にはあると思います。
寂聴さんのこういううまさについても、今日は語っていければと思っています。


『余白の春』から考える
亡国日本の「アナーキズム」


益岡 それでは、皆さん自己紹介も兼ねて、この本の感想ですとか、アナーキズムについて思うところであるとか、自由にお話していっていただければと思います。
酒井 酒井と申します。普段は大学で日本近現代史を教えておりますので、基礎情報的なことをしゃべらなければいけないと思うんですけど(笑)
研究史的な側面に触れると、戦後、自由に研究が出来るようになったときに、国家に抵抗した人物を盛んに取り上げるわけです。幸徳秋水や小林多喜二のような人がまず取り上げられていく。そのなかで社会主義や共産主義の正統性が争われたわけですが、それが七〇年代八〇年代になって、それはあまりにも政治主義的であるという批判があり、アナーキストのような、周縁の思想家・活動家が取り上げられていくことになる。この頃、二つの雑誌が創刊されます。「日本社会文学会」と「初期社会主義研究」という、前者は文学的な観点から、後者は政治思想史的な観点から、今までスポットがあたらなかった人物や思想を取り上げようという試みが始まっていく。こうした試みの中で大杉栄らが大きく取り上げられていくことになる。では、今回の金子文子はどうかというと、これは相当マイナーというか、周縁的な人物として捉えられていて、学術研究の領域では九〇年代になってやっとまともに論じられるようになってきた人という印象があります。
そういう意味では、瀬戸内寂聴が金子文子を描いたのは七十一年ということですから、かなり早い。手法としては、これは歴史小説に近いですよね。事実をかなり詳細にリサーチして書いているから研究的な側面も強い。もちろん小説ですから、松本清張的な、作者の想像を働かせて書いている部分も大きいですが。
ただ、社会主義思想の研究は、九〇年代に入って一気に減速する。これはソビエト連邦崩壊の影響が大きい。社会主義大国であったソ連が崩壊したことで、社会主義や共産主義が「大したことのないもの」という意識が働いてしまって、それに連なる思想史研究も下火になってしまう。
そんな流れが徐々に変わってくるのがゼロ年代の後半以降かと思います。いわゆる新自由主義が陰りを見せるなかで、新たな思想を模索する動きが見えてくる。そして、起爆剤になったのは、先ほどもお話に出た栗原康さんの仕事だと思いますが、戦後の共産主義との関連が重視されていた研究から、それとは離れた戦前の思想史の再評価であったり、東アジアのネットワークや他の思想との関連性であったり……七〇年代とは別の切り口での研究の機運が高まってきた。
ただ、それでも、歴史研究という領域で捉えれば、まだまだ、低調ですね。ぱっとしない印象がある。
益岡 栗原さんの仕事も、学術研究というよりは、文学ですよね。『狂い咲け、フリーダム』も、話し言葉で面白おかしく描いたアナーキスト列伝という趣で「本邦アナーキズム入門」という意味では研究史的な側面もありますが、文芸的な試みだと思います。
酒井 人物研究というものが七〇年代、八〇年代ほどは流行っていないという印象もある。帝国主義下でのアナーキズムや社会主義の運動がどのようであったかという状況論的な研究はそれなりに行われていると思いますが、たとえば「金子文子」に焦点をあてたような人物研究があるかというと、あまり盛んではない。
アナーキズムに関する研究については……この概念をどう捉えるかは難しいのですが……「日本史」という枠内では収まらないところがあると思います。アナーキズムには、「国家」を否定する、というか、国家の枠組に捉われない世界認識を促すような性格もある。大杉栄も渡欧していますが、そういう歴史的事実を踏まえての比較研究のようなものは、ある程度、進められている印象はあります。
とりあえず、こんなところで(笑)
蕪豆 蕪豆と申します。「日本って、すごく韓国に本当に悪いことしたな」という思い。そして、知らないことが多くて、勉強になるな、という感想がまずあります。
瀬戸内さんの意見か、主人公の意見かわからないんですけど、私が面白いなと思ったのは、「日本の国家が実は少数の特権階級者の私利を貪るために仮設した内容の空虚な機関に過ぎない」とか「人が死を恐れるのは自分が永遠にこの地上から去るということが淋しいんです」とか「不幸のない状態こそ幸福なのです」とか、金子文子というひとを表す言葉として捉えていいのかはわからないですけど、この本のポイントになる部分かなと感じて、「いいな」と思いました。
瀬戸内さんの「小説」としてのたくらみとしては、恋愛小説的な要素があると思うんですけど、実際に文子に接した人の「女性的な魅力」があるわけではなかったという証言なども書かれていて、美しいラブロマンスにしようという意図があるわけでもないように思うので、恋愛小説として捉えなくてもいいのかな、と。朴烈に対しても同志として思っていたのではないかと感じました。
あと、文子がどうして死んだのかについては引っかかりますけど、それにはやはり厳しい現実を生きてきたという、生い立ちも影響しているのかな、と感じました。
寂聴さんは資料を元にしながら、かなり感情的に書いているところもあって、エライことをしているんだな、と……
美夜日 「見てきたように書いてるわ~」って言いながら読んでたよね(笑)
益岡 そう、どこまでが引用で、どこからが寂聴さんがつくっちゃった金子文子がしゃべっているのか、すっとわからなくなるじゃないですか。それはうまく金子文子をトレースしているとも捉えられるわけだけど、結構、思い切った書きぶりですよね(笑)
美夜日 益岡さんの大学の後輩の美夜日です。今日は、勉強しに来ました。
益岡 寂聴さんの小説は読んだことあった?
美夜日 ないです。ただ、テレビ等に出ている姿は見ているし、自伝的なドラマなんかもちらりと観たことはあります。そのドラマの中で、寂聴さんのお母様が空襲から逃げずに、防空壕に入ることを拒否して亡くなったというエピソードがあって、その姿は、この作品の金子文子と重なるところがあるな、という印象を受けました。
恋愛小説的な、というか、やわらかめの読み方を提示すると……金子文子は、今の韓流女子の先駆けみたいな見方も出来るかな、と。
ぽて なるほどー。
美夜日 朴烈さんがイケメンだったような描写もあるじゃないですか。「韓流おっかけ女子じゃん」と。
ティーヌ 夢女子っぽいよね。
益岡 まあ、二十歳くらいだもんね。
酒井 歴史的には、当時、朝鮮人というのは侮蔑の対象だったという状況がありますから、そういう中での朴への思慕を今の韓流女子の憧れと同列に扱うのはなかなか難しいとは思いますけど(笑)
美夜日 そう、難しいんですけど……「朝鮮系のイケメン好きになっちゃった」というところは、同じような即物的な「男子の愛で方」があったと捉えてもいいんじゃないかと(笑)
益岡 ああ、でもね、僕はそういう読み方、好き(笑)
例えば「プロレタリア文学」を捉えるときに、もちろん、労働者の文学という重く厳しいイメージもあると思うんだけど、当時の文学運動としては「かっこいいものだった」という見方もあるんじゃないかと思っているんですね。たとえば「新青年」という雑誌は、探偵小説の分野でフューチャーされるけれど、一方で大変モダンな文化を象徴するような役割もあったわけですよね。そういうメディアに出ていた人たちとプロレタリア文学で活躍する人たちは意外に重なり合う部分もあると思うんです。革命的なものと都会的なものには接点があったと思う。そう考えると、アナーキズムの運動を文学的に消費していた人たちもいるんじゃないか。そういう運動に加わることに「かっこよさ」を求めていた人たちもいたんじゃないかと。
橋本 でも、プロレタリア文学はエリート中心の文学運動だと思うんだよね。それとアナーキズムの運動の実体とは支持層にかなりの格差がある。私は分けて捉えた方がいいように思う。
益岡 なるほど。今回、読書会をやってみたのには、そういうことがわかるといいな、と思ったというのもあるんですよね。アナーキズムの位置づけというか……「革命的文学運動」という切り口で言えば、僕の中ではかなり色々な物がごっちゃになっているものだから、少しでも整理する機会になれば、というねらいもあって……そういう点で、この本が面白かったのが、文子が色々な活動家、思想家を訪ねて、次々に袂を分かっていくところ。社会主義に出会って、キリスト教に出会って、自分と同じ女性活動家とも出会う……女性活動家についてはかなり辛辣に捉えているよね。どこかプロの活動家のようになってしまって、「こういうこと言われたら、このくらいのこと言っておけばいい」という捌きのテクニックみたいなのを話されると一気に冷めてしまう……こういう思想的な遍歴というか、「色々なサークルに入ってみた」というような部分はとても面白いと思うんですね。そして、その中で出会う活動家たちの中には、革命の「かっこよさ」に心を動かされている人が多くいるような印象を受けた。
橋本 私は、だからこそ、金子文子や朴烈の活動とプロレタリア文学者たちの活動には一線を引きたい。後のプロレタリア文学者で文子たちを評価したり、かっこいいと思った人は一人もいないと思う。底辺の下の下の人たちじゃない? そんな人たちにプロレタリア文学を支えていたエリートたちは興味を持たなかったと思う。特に朝鮮半島のことなんか誰も気にしていない。当時のプロレタリア作家たちで朝鮮に関心を抱いていた人なんて誰もいないと思う。
益岡 そういう日本の文壇からの無関心は、韓国で映画になったことで金子文子が注目されているという事実と繋がっているような気もしますね。日本国内からのアプローチではなかった、という。歴史研究としても、金子文子や朴烈はあまり取り上げられていないというお話があったけれど、『狂い咲け、フリーダム』における扱いも小さいんですよ。もちろん、書き残されたものが少ないということも影響していると思うんですけど、それは、革命的な文学運動に加わってきた文学者が彼女たちを評価してこなかったという一面を裏づけているのかもしれない。
美夜日 今読めて良かった、と思いましたね。現状の日韓関係であるとか、国内の状況を思った時に、今、読む価値のある一冊だと思いました。
ぽて 津原泰水さんの『ヒッキーヒッキーシェイク』読書会から参加しています、ぽてと申します。まったく読むきっかけの無かった本なので、良い機会をいただいたと思っています。関東大震災の様子などもかなり詳細に描かれていて、当時の関係者へのインタビューなども充実している。取材のために塩山へ行ったり、韓国へ行ったり、旅行記的な面白さもあって、作品全体の構成の妙が素晴らしいな、と。だれてしまいそうなところを資料と調査と小説のバランス、それぞれの筆力によって読ませる、力強い作品だと感じました。七〇年代だから、瀬戸内晴美の頃だと思いますが、脂の乗り切った、作家としてのパワーを強く感じました。よくこの一冊を復刊してくれたな、と。存命の内に、瀬戸内寂聴という作家を見直すことが出来て良かったな、と思いました。
圧巻だったのは、予審調書の文子の演説や女の情念を描き出すような寂聴の筆ももちろんなんですが、極めて稚拙なテロ計画を描いたところ。これがアナーキズムの活動の実体というか、現実を如実に表していると思う。このへなへなぶり。これは支持を得られないよな、というか……なんなんでしょうね。この計画性のなさは……サイエンスが足りなかったのか……まあ、お金は足りないわね。
益岡 お金は足りないですね(笑)
ぽて それこそ、刃物を持ってつっかかっていくしかない、お金のなさ。このシーンには色々なものが描かれていると思う。
益岡 激しさとか、貧しさとか、悲惨さ。でも、どこかユーモアもある。
ぽて そういうことをしっかりと表現できる筆力、凄いね、と。後は、韓国へ行った時の風景描写に、黄晳暎の作品を思い出したんですね。この作家は、軍隊へ行って、北朝鮮にも渡って、服役をして……と、波乱に富んだ文学者で、個人的にはノーベル文学賞に相応しい作家だと考えているんですが、瀬戸内寂聴の筆致に、この黄晳暎が描いた韓国の描写が浮かび上がってくるような印象を受けたんですね。瀬戸内寂聴というひとは、しっかりと、その土地の風土を見て描ける人なんだなと感じて、「とてもいいな」と思いました。
ティーヌ 「読書サロン」というセクシュアルマイノリティが登場する小説を読む会を主催しております、ティーヌと申します。私は元々、旧社会主義国の小説が好きで読んで来たんですけれど、そういう文学に触れて、勉強すればするほど、そうした国々の政治的イズムがわからなくなってくる。いつか自分の中で整理しなければならないと思い続けているんですね。それは歴史全般にも言えることなんですが、大枠ではわかっているようだけれど、突き詰めていくとわからなくなる、わからないまま生きていることってたくさんあると感じていて……今回のアナーキズムもそういうもののひとつかな、と。この本にはアナーキストたちの活動が描かれているわけですけど……金子文子がやりたかったことで、むしろ、根源的な民主主義だったんじゃないかと思えて来て……文子の思想には、天皇制への異議申立が強く存在していると思うんですけど、この「天皇もひとりの人間であり、一般人と同じだ」という考え方の何がアナーキズムなのかなと思えて、よくわからない。また、革命が権力の構造が変わるだけだと捉えて、破壊を望むというのもわかるんですけど、では、彼女たちが本気で国を破壊しようとしていたのか、というと、それもよく読み取ることができなかった。
映画も観たんですが、底辺かもしれないけれど、拠点のおでん屋さんに仲間たちが集って、詩を書いて雑誌作って和気あいあいと暮らしている。そんな生活を迫害されず、安全に送れるということが望みだったのだとすれば、それを求めるのにアナーキズムを選ぶ必要があるのか……それに直結するのだとすれば、アナーキズムとは一体何なのだろう、とあらためて疑問に思いました。
この前、『私たちは何も知らない』という「青鞜」をテーマに伊藤野枝を中心人物にした舞台を観たのですが、その物語の中の伊藤野枝は、「男に染まる女」として描かれている。政治的主張なんてなくて、つきあった男の色に染まる女として描かれていたんですね。大杉栄とつきあったからアナーキズムに染まったのであって、別の男とつきあっていたら別の思想に染まっていただろうという評価だった。これが正しいかどうかはともかく(笑)いわゆる歴史教育において、「青鞜」というものが紹介されることがあっても、その活動を行ってきた人たちの歴史であるとか、成果のようなものが詳しく伝えられることはなかった。そういう、いわゆる「正史」からは光のあたらない部分を精力的に描いてきたのが文学だと思うので、そういう意味でも今回の課題作は気になる一冊だと感じて参加しました。
私も瀬戸内寂聴を読むのは初めてなのですが、売れる小説家って、こういうことだよね。読ませるなーと(笑)
中学生くらいの頃、司馬遼太郎を読んでいたんですが、ちょっと似てるな、と懐かしく読みました。
橋本 橋本です。台湾文学と比較文学を研究しています。
私は、映画を観て、文子の手記『何が私をこうさせたか』を読んで、『余白の春』を読む、という順序だったんですけれど、『何が私をこうさせたか』だけでは、文子の運命を決めた時代背景というものがよくわからなかったので、『余白の春』には、そのあたりが詳しく書かれていてよかったです。
先ほど益岡さんが触れていた「アナーキズムがここ数年注目されているんじゃないか」という話ですけど……私が高校生くらいの頃には伊藤野枝や管野須賀子を主人公にしたテレビドラマが放送されたり、芝居になったりしていたんですよ。伊藤野枝は石田えりが定役だった。かつてはテレビで、女性アナーキストたちの活躍が語られていた。だから、私が管野須賀子を知ったのは、テレビからだったの。TBSの「歴史はここに始まる」という番組では大逆事件も取り上げられていて……だから、高校生くらいの私にとってのアイドルは、管野須賀子や伊藤野枝だった。瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』なんかも、この頃、読んでいるんですよ。あの頃の女子高校生には、私みたいにテレビから女性アナーキストたちを知って憧れたひとたちもいると思う。
ティーヌ 伊藤野枝の墓が「自由恋愛の聖地」になっているという話もありますもんね。
橋本 さっき、伊藤野枝は男に染まる女だという話があったけれど、私は必ずしもそうだとは思っていない。野枝の元夫の辻潤もアナーキストだけれど、途中からは野枝が辻を振り回しているようなところもあったと思う。金子文子も、たとえばこの本の中でチェホフの「かわいい女」のようだと、「男によって変わる」と評されているけれど、本当にそうなのかな、と。
私は『余白の春』については益岡さんが言っていたような「フィクションとノンフィクションのあわい」という部分はどうでもよくって、大事なところは、「瀬戸内寂聴がどれだけ金子文子に向き合ったか」という点だと思っている。私は映画を観て、「あれだけバイタリティに溢れた文子が天皇からの恩赦を得て、何故自殺したのか」というのが疑問だった。もしかしたら自殺に見せかけた他殺だったんじゃないかとさえ思っていた。でも、瀬戸内寂聴は、「この結末は文子の思想の発展的な結果。必然的な死だった」と最後にはっきりと書く。そこまで引き出したのはすごいな、と。彼女は死ぬことによって彼女の思想を完成させたんだという読み方を示したのは、この本の功績だと思う。瀬戸内寂聴、すごいと思った。
あわせて指摘しておきたいのは、金子文子は自分のことを「アナーキストだとは言っていない」ということ。
ティーヌ 虚無主義者だって言ってるんだよね。
橋本 そう。虚無主義者で、いちばん影響を受けたのはスチルネルだと言っている。この頃、スチルネルはすごく流行っていて、私は林芙美子の『放浪記』が大好きで、林芙美子はそれこそ高校生だった頃の最大のアイドルなんだけど(笑)、『放浪記』は何十回も読んでいる。そこにもスチルネルは出てくる。スチルネルの『自我教』を訳したのはアナーキストとして野たれ死にした辻潤なんだけど、この「個人の自我を表に出していく」という思想は、アナーキズムの代表的な考え方なんだよね。だから文子の思想がアナーキズムに近接していることは間違いないし、アナーキストの一部はかなり悲観的になってテロに走ったという面があるから、そういう枠組の中では文子もまたアナーキストだったと言えるとは思うんだけど、個人的には、いわゆるアナーキズムの思想と文子の思想は分けて考えた方がいいようにも思う。
そもそもアナーキズムというのが、カオスというか、かなり混乱した事態を導くことが目的であるかのような、無秩序状態を作り出す運動のように思われているけれど、私は違うと思っていて、本来のアナーキズムというのは、わかりやすくいえば一種のコミュニティ主義、地方自治の緩やかな連合であって、だから国家を否定するけれどもコミュニティ──コミュニティの中の相互扶助をすごく大事にする。これは『現代日本思想体系』(筑摩書房)のアナーキズムの巻で松田道雄が書いていることなんだけれど、私はこれをすごくいいなと思っていて、何度も何度も読み返して来たんだけど……去年から寿町に通っていて、あそこに一年通ってきて、やっとアナーキズムとは何かってわかってきたの。
益岡 おお!
橋本 それはやっぱり、コミュニティの自治なのね。それは、共産主義や社会主義とは全然違う。
共産主義や社会主義は中央集権なの。絶対的な中央集権。党の独裁なの。でも、アナーキズムにはそれがない。さっき、文子の思想は結局、民主主義なんじゃないかという話があったけれど、民主主義は議会を通して議論される体制だと思うけれど、アナーキズムは議会を否定しているの。だからいわゆる民主主義ではない。
ティーヌ 「民衆の代表」を否定しているということですね。
橋本 そう。「民衆の代表」はエリートだから。共産主義も社会主義も結局はエリートによる代理政治だけれど、アナーキズムは労働者自身が力をつけて、相互扶助で、自分たちで社会を変えて行こうという思想。現在の寿町はまさにそれを実践している。日雇労働者組合のひとたちが、行政に見放されたコミュニティが、自分たちで、自力でこの地域を何とかしていこう、という運動。そこにはリーダーがいない。ひとりひとりが出来ることをやっていく。
私が寿町に吸い込まれていったのはそれなのね。「コミュニティ自治の実践」というのがありありと行われている。
蕪豆 ちょっと、質問したいんですけど、その活動を行う建物なんかはどうなってるんですか? 活動の拠点は?
橋本 大きな拠点である「生活労働者組合」は、元々は横浜市が持っていたものを占拠しています。あとは、キリスト教会ですね。
蕪豆 なるほど、教会……
酒井 所有の概念がないということですよね。不法占拠だろうと、その辺の野っぱらだろうと、なんでもいい。
橋本 寿公園も中心的な拠点です。
酒井 とにかく場所はなんでもいい。ただ集まって、直接民主主義的な活動を続けていくという……
橋本 そう。そして海外でそれが実践されているのは香港、台湾とフランス。香港の運動は今、かつての雨傘運動とちがってリーダーがいない。毎日、色々なひとがリーダーになっていて、SNSで「今日は○○がリーダー」と発信されて活動していくという、個人個人の自立的な運動で成り立っている。あの在り方、まさにアナーキズムの実践を経験してしまうと、中国共産党とは決して共存できないと感じる。共産主義の問題点はまさに今、中国が体現していると思う。一党独裁の言論弾圧をやっていて、人民なんてどうでもいい。共産主義は結局、党の中の権力闘争。
私が文子の物語を読んで思い出すのは、台湾の謝雪紅なんだけど、彼女も貧困の中で生まれ育って、日本に来て学んで、台湾共産党の設立に関わる。その前にモスクワ東方大学に派遣されている。そこで片山潜のような日本から派遣されてきた共産党員と触れ合うのだけれど、謝雪紅の目からみたら日本の共産党員はみんなお坊ちゃまなのね。片山潜だけは違うのだけれど、お坊ちゃまだから本当の貧困の問題がわかっていないということを看破する。植民地に対する考え方もまったく稚拙。だから、共産党というのはあくまでエリートの集団。謝雪紅はその中で、本当の貧困の中から立ち上がった人だから、結局台湾共産党の中でも叩かれていくことになる。謝雪紅の人生からは、「党」の限界がよくわかる。
あとはフランス。日本のニュースはほとんど報じないけれど、大変なことが起こっている。今は年金改悪に対してフランス国民がゼネラルストライキを大規模に起こしている。まさに直接行動。毎日、実力行使で大変なことになっている。アナーキズムはデモやストライキのような直接行動をすごく重視しているわけだけれど、議会など通さないで直接行動によって社会を変えて行こうとするエネルギーがフランスでは今、爆発している。おかげで交通なんかは止まっていて、市民は不便な生活を強いられているんだけれど、そうした人たちにインタビューすると、「大変だけど、これは私たちの権利だから。仕方がないと思う」というようなことを言っている。これは凄いことだと思う。
ティーヌ 路上でバレエやったり、デモのバリエーションも凄い(笑)
橋本 早稲田大学で教鞭をとっている内海信彦さんは、「フランス革命がおこった年を暗記するくらいなら、今のフランスを観た方がいい。今、革命に近いことが起こっている」というようなことを言っているんだけど、私もそれは賛成。フランスは革命もあって、パリ・コミューンを経験して、プルードンのような著名なアナーキストを輩出している国であるだけあって、まさにアナーキズムが根付いているんだと実感させられる。
さっき、「社会主義や共産主義に連なるアナーキズム」というような捉え方がなされたけれど、組織のあり方がかなり違うので、私は別のものとして捉えた方がいいと思っている。個人的にはアナーキズムには共感できるけれど、社会主義・共産主義の在り方には批判的にならざるを得ない。
酒井 橋本さんのように共産主義とアナーキズムを別個のものとして対立させる見方もあるとは思うんだけれど……成りたちの歴史を踏まえると、思想的に重なる部分や、グラデーションのように両者のあいだで揺れ動いたような運動も見受けられるので、あまりに単純化してしまうことには違和感があります。たしかに戦前のアナボル論争、アナーキストとボルシェビキの対立というのはあって、最終的にボルシェビキ──共産主義が勝って組織化を進めようとするんだけれど、治安維持法で解散させられるというような経緯もあるから、対立概念として捉えることには正当性があるのだけれど……
橋本 もちろん重なっているところもあるし、関連しあう部分もある。それに、アナーキズムが共産主義ほど力を持ち得ない構造であることもわかる。アナーキズムは組織化が難しい。
酒井 つきつめると、「ひとりひとりのアナーキズム」というか……組織化は相当難しい。
益岡 というか、先ほどの橋本さんの「緩やかな連帯」のお話を踏まえれば、なんだか組織化してはいけない概念のように思える。
橋本 たしかにアナーキズムは組織化が難しいから、社会に大きなインパクトを与えることの難しい思想なのだとは思うのだけれど、それでも意義があると思えるのは、台湾においてアナーキズムの在るべき姿が示されているように思うからなの。台湾はコミュニティという単位を非常に大切にしていて、そこでの自治というものが重視されている。そうした地盤の上で、様々な社会運動が展開されている。私が台湾の、台北のプライドパレードが大好きなのは、パレードが終わった後、大きな舞台で、色々な社会運動の団体がセクシュアルマイノリティの権利について語ると同時に、自分たちの活動についても賛同して欲しいという演説をする。今回も労働運動の団体、移民労働者の団体、様々な人権保護団体、消防士など様々な労働組合の人たちが一年に一回、プライドパレードの舞台で、それぞれの立場から人権意識を高めて行こうという呼びかけをする。私は、その舞台の上にこそ、台湾のプライドパレードの成果があると思っている。日本から行ったひとたちはパレードの派手な部分を見て感動して帰るけれど、私はそのあとの、この様々なコミュニティが緩やかな連帯を示している姿こそ、台湾のプライドパレードの核心だと思う。
中央集権的な支配の構図ではなく、それぞれがそれぞれの思想を持ったうえで、緩やかに協力し合っているという台湾の社会運動の在り方は、ちょっと理想主義的かもしれないけれど、アナーキズムの在るべき姿だと思うし、中国共産党へのアンチテーゼにもなっていると思う。

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