見出し画像

自己憐憫と甘え

 病は気から、というなら今の僕はそろそろ病を患うのだろうか。それとももう病に侵されているのだろうか。ここ数日、心が重い。というよりはこういったネガティブな話を自らすることによって、自分の出せるパフォーマンスに制限とその正当性を作っているのではないか。
 一人暮らしの中で僕にはこなさなければならない課題がどうしても発生する。掃除や洗濯、食事は最低限なくてもよい。もともと趣味だった料理も「自炊」として生活に組み込まれたとたん洗い物の面倒くささや食材の買い出し、保存に悩むことになりめっきり頻度が落ちてしまった。
 実家暮らしをしている大学のクラスメイトや地元の友人になんとなくの生活力でややマウントをとっていたのもつかの間、彼らは成績や資格、運転免許の取得などで次々に成長していき、一方で有り余った時間をただ一人で浪費しているだけの僕とはずいぶんと差が開いてしまった。その証拠に大学から徒歩5~6分のアパートに住んでいるはずの僕は遅刻・欠席の常習犯だ。
 僕はこのずぼらさを今でも「家事と学業を両立させられない、ダメな自分…」といった悲劇のヒロイン的な自己認識を持つことによって「それでも自分は頑張っている」となんとか自分を甘やかしている。実際はどうにか自分の欠点や不安を見つめることによって不幸ぶっているだけだ。こうして自分の怠惰さや無能さに「こんなに頑張ってる中でできないのは仕方ない」と制限をかけている。
 同じ環境に置かれてもなすべきことをできている人もいる。それに何も一人暮らしをしているからといって偉いはずがない。むしろ両親はその分膨大なお金を僕のためにつぎ込み、それ相応の期待を僕に向けている。むしろその期待は「ちゃんと安定した暮らしをし、学校に通い、社会で活躍するための経験値を得てほしい」といった真っ当なものだ。過剰でも何でもない。
 ところがそんな思いとは裏腹に僕はどんどんと醜くなっていく。不規則な時間に寝起きし、高校より授業開始時間が遅く家も近い大学もさぼり気味な自分。自炊もそこまでしないから買い物にも行かないはずなのになぜか減っていく貯金、それを一人暮らしだからと誤魔化す自分。やっと入れたアルバイトでさえもミスを重ねる自分。
 ここまで自己嫌悪を書き連ねたが、これさえも自分を変える努力をしないための自虐の皮を被った自己防衛だ。バイトでミスした時でさえ「なんて自分はかわいそうなんだろう」と不幸を言い訳に、克服の機会を棒に振っている。友達からのLINEもディスコードさえも「今元気ないし…」と自分と相手に言い聞かせることによって会話から目を背けさせている。自ら不幸を享受しに向かっている。
 自分は幸せ者なのだろう。世の中は本当の不幸者であふれかえっている。家庭環境、持病、精神疾患、身体・精神的障害、社会的マイノリティ…。そんな目を背けたくなるような悩みを抱えた人の傍ら、自分が人と同じライン成長していくことを恐れた僕は朝起きれない、人目が怖い、約束を守れない、何もできない、と自ら不幸者になりたがり、そういった振る舞いが次々と新たな悩みを呼ぶ。
 最近無意識に涙が出ることが多くなった。これがかなり厄介だ。アルバイトで接客をしているときにこうなってしまっては印象は良くないだろう。怠けるがための自己憐憫を繰り返していたことへの罰がくだったのだろうか?けれども、こういった態度をとっていて誰かに心配してもらえれば自分が見放されていないことに歓喜し、誰からも相手にされなければ、その残酷さで自分を悲劇のヒロインとして着飾ってしまう。そんな罰にさえ都合のいいように浸ってしまえるうちは、まだまだ自分は苦しんではいないのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?