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魚は泳ぎ鳥は飛び人は書く

鮭は川を昇る。
鳥は空を渡る。
人はなぜ書くのだろう。

本能のみで生きる動物や植物がうらやましくなることがある。自分の持つ思考や感情が鬱陶しくなることがある。自分の来し方行く末について考えても仕方のないことを悩みうじうじ考え込んでメビウスの輪のような思考回路の迷宮でぐるぐる周り続け疲れ果てた末に、ネイチャー系のドキュメンタリー番組で川を遡上する鮭や大陸を渡る白鳥の姿を見て涙を流したりする。鮭や白鳥は生まれながらに来し方行く末が決まっている。どう生きるかは彼らの身体が、本能が、遺伝子が知っている。迷いなどという無駄なものは、彼らにはない。


生き物がなぜ生きるのかといえば、自分が生存し子孫を残すということしかない。人間以外の生き物は自分が生まれてきた意味など考えない。自分が生きているという概念もないかもしれない。ただ置かれた環境でそのまま生き、餌を摂り排泄し交尾し卵や子を生み、やがて寿命が尽きる。人間に近い犬や猫などのペットは人間くさくなり感情豊かにすら感じられもするが、自然の中の生き物は明らかに人間と違う理屈で生きている。

人間には明らかに生き物としての本能には必要ない無駄なものが多い。

人間は言葉という情報伝達の手段を編み出した。鳥や猿の鳴き声や蜜蜂の踊りにも同じ種の仲間に通じる意味を持つものがあるというが、人間はそれを複雑に発達させた。餌場の場所や危険の訪れといった情報だけでなく、喜怒哀楽といった個人的な感情、嘘や虚栄やお世辞や冗談、物語や詩など情報ではない何かを伝えるようになった。それには重要な意味を持つものも、全く意味を持たないものもある。そして時として、全く意味を持たない何かに何故か心が救われることがある。

なぜ人間にはそれが必要だったのだろう。

私の思考回路は明らかにテキストベースで、脳内で考えていることは言葉の列を形成し海馬に渦巻いている。だがそのような言葉の羅列は、生き物の本能としても人間社会の価値観としても、何の意味もない。私の人生もまた、明日潰れても誰も困らないような店で働き配偶者もなく子も成さず、何か意味や意義があるのかと言えば、はっきり言って何もない。虚無と無為の塊だと言ってもいい。今の世の中はそういう存在には少し肩身が狭い。自分が何か成さなければ居てはいけないような空気を感じることがある。一方で、そんなもの気にしなければ肩身は狭くともひとまず生命には支障なく生きていける社会でもあり、そういう社会の恩恵を受けて衣食住足りた状態で私はよくわからない自分の人生を今日も無為に食い潰す。


ときどき、本来みられないはずの場所で渡り鳥がみられることがある。たまたま迷ってたどり着いたのだと、ニュースの中では簡素に説明される。海に下ったり川を遡上する魚の中にも、まれにそうしないでどこにも行かず居た場所に留まって主のように肥え育つ個体があるという。そういう事柄を知るたび私はすこしほっとする。野生の生き物ですら迷うことがある。本能の声を無視して生きることがある。それは子を残さず生き物としては失格の生き方を選んだ自分への慰めになる。そして進化の過程では、時にたまたま他の個体と違う道を選んだ個体が生き残り次に繋がっていくこともあることを知っている。

浅瀬に迷い込んだ鰯の群れが、戻れなくなり全滅する事例がある。全ての個体が同じ行動に向かうと、その行動により危機に陥ると全ての個体が滅んでしまう。そのことを考えれば、人間ひとりひとりに違いがあり様々な考えや生き方があることもまた、生き物の本能としての戦略の一部分なのかもしれないとも思える。

あるいはそのように何事にも意味を見出だそうとすることも、無意味なことかもしれない。

ほんとうは、この世界のすべてにすら、意味なんてない。

そんなものは人間が勝手に見い出して理屈をつけているだけのもので、すべてのものがそうあるのはただたまたま偶然そうなったにすぎない。この地球もたまたま様々な条件が重なって星として誕生し、水が生まれ命が生まれ幾つもの種に分かれ、いろいろな種が栄えたり滅びたりを繰り返してきた。人間もまたその偶然の流れの中のひとつにたまたまいまいるにすぎない。


たまたまいる私達がどう生きようとそこに意味がないなら、すべては自分次第ともいえる。時代の価値観も生き物としての本能も意味がないとすれば、ただ自分の心の赴くまま無意味に生きていても、引け目を感じる必要などないだろう。意味があるとされることにすら、ほんとうは意味などないのだから。