不思議な体験③無とはⅡ

前回からの続きです。

呆気にとられている私を横目に、犬の後を同じように、おじさんがフクロウのすぐ横を通って行くのですが、彼もまたフクロウの存在に気づきません。手を伸ばせば触れる距離にいるにもかかわらずです。

その様子を、私はビックリしながら見ていました。「これが無なんだ」。
フクロウは、犬やおじさんに一切反応していなかったのです。普通であれば、恐怖心で逃げるか、あるいはもしかしたら戦うかもしれません。いずれにしても、何らかの反応を起こすと考えて当然でしょう。もし私がフクロウの立場にいたら、間違いなく何らかの反応をしたでしょう。そうしたら、犬はフクロウの存在に気づいたことでしょう。
しかし、そのフクロウは一切の反応をしなかったのです。それは、気づかれないようにジッとしていた、というレベルではありません。恐らく、フクロウの中には恐怖心も不安感も何も無かったのでしょう。フクロウの内面が反応していなかったのです。ですから、犬にしてみたら無いものと同じだったのです。その時、フクロウは「無」だったのです。

やはり教えに来てくれてました。とにかく何もなかったのです。
フクロウにお礼を言い、本に視線を落とし、5秒ほどしてまたフクロウを見ると、もうそこにいませんでした。

第35代横綱の双葉山の言葉を思い出しました。彼は連勝が69で止まった時に「我未だ木鶏に至らず(われ いまだ もっけいに いたらず)」と言っています。「木鶏」とは、木彫りの闘鶏です。木彫りですからどんな状況であっても、ビクリともしません。大横綱の双葉山であっても、木鶏にはなれなかったと言っています。
しかし、フクロウは木鶏そのものでした。それは、強さゆえに恐怖を感じなかったのではありません。強い弱いを超えて何も無かったのです。

無であることの意味がなんとなくわかりました。と言うよりも、「無ではない」と言うことの意味が分かったと言ったほうが早いかもしれません。私たちは、様々なものに対して、様々な反応をしています。その反応に応じて、また周りが反応します。その繰り返しなのでしょう。その反応の中に私たちの存在が生じるのかもしれません。ということは、その循環の中から外れることで、「無」になれるのかもしれません。
さらには、この三次元の世界とは違う世界に行けるのかもしれません。

フォレスト前世療法研究所


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