月夜想

 第一章 新月とチョコレート

 足首ほどまでの浅い水路に沿った小道が、僕は好きだった。春には均等に植えられた桜を見上げながら、人々がパレードのようにここを歩いた。

遠くに並ぶ山々が紅く色付く季節も良い。冬は小さな雪が水面にふわりと消えてゆく。

 夏だけはさすがに暑さが厳しかったが、水路を吹き抜ける風で少しばかり涼むことができる。そして僕はこの小道の夏の夜が一番好きだった。

 けれど、僕はすぐ傍を毎日歩いていたというのに、この場所をずっと知らなかった。俯きながら何もかもを諦めて歩いた、あの日の夜までは。

***

「お疲れさまでした」

 誰もいない店の灯りを落として、僕は小さな革張りの表紙の手帳を撫でた。中の用紙はずいぶん波打っている。この数年間の僕そのものがここにあった。労う相手は、もうこの手帳しかいない。数坪ほどの小さな店舗で僕は小さな菓子屋をやっていた。だがそれも今日でおしまいだった。明日には改修工事が始まり、あっという間に別の店へと様変わりするだろう。

 最後に厨房で作ったチョコレートを箱に入れ、僕はそっと扉を閉めた。

 外に出ると、真夜中だというのに真夏の蒸し暑さがまとわりついてくる。

 それでも。それでも僕は、すぐさま家に戻る気にはなれなかった。じわりと足元から昇ってくる絶望を振り切れないでいたからだ。駅へ向かう道をほんの少し外れて、どれくらい歩いたあたりだったろうか。幽かな水音がした。古い街灯に目を凝らしてみると、どうやら通りを曲がった先からそれは聴こえてくるようだった。

 ふらりとその小道へと足を進めた僕の目に飛び込んできたのは、宵闇の中に浮かんだ多数のランタンだった。緋色、黄色、ところどころに碧が差し込まれ、それぞれがぼんやりと灯りをともしている。時折吹く風がそれらを揺らし、水路を鮮やかな花が流れゆくような幻を生んでいる。遠くから響く電車の音だけが、現実とこの光景が繋がっている証であった。だが本当に息を呑んだのは、その一瞬後だ。

 ランタンの灯りの下に、奇妙な男が立っていた。

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