恋と地獄

半熟卵の黄身のような濃厚でとろりとした夕日が差し込んでいたアトリエには徐々に闇が忍び込んできていた。

散々指で絶頂に導かれ、ぐったりとアトリエの床に伏せていた私を川島さんはそっと抱き起こしソファーに座らせた。

「しろいしさん大丈夫かい?君があまりに可愛い表情をするからついいじめてしまった。ごめんね」

と言って私の額と頬に唇をつけた。嬉しくてじんわりと心が熱くなる。私は川島さんに一瞬で心まで奪われてしまったようだった。彼の持つ圧倒的な支配欲と獰猛な野犬みたいな目に私は瞬時に尊敬と隷属と好意を抱いていた。噛まれた肩と首筋がビリビリと甘い痛みを放つ。

川島さんははにかむ私の頭を一撫でし、スッと立ち上がり部屋の照明をカチリと着けて違う部屋に吸い込まれていった。彼の作品だらけのアトリエにぽつんと座っていると、途端に自分が空っぽな気がして空っぽで淋しくて膣がきゅぅうと締まった。

恋だ。罠にかけられて力業で心を持っていかれた恋だ。ぶり返す甘い痛みに下腹部が熱くなる。

ぼんやりと淋しさと恋を反芻していると川島さんはペットボトルのミネラルウォーターを携えて戻ってきた。蓋をはずして私にそれを渡し言う。

「水分をたくさん出したんだから飲むといい。それから今夜は何か予定はあるかな?ないのなら一緒に食事に行こう。美味しいものを食べよう。最初のデートだからちょっと気取ってフレンチでもいいかな?」

先ほどまでの鋭さはどこへやら、穏やかで優しい声。だがこの優しさの裏にあんな獰猛な感情を隠しているかと思うとたまらなく興奮した。下腹部が熱を帯び、涎を垂らした。もっとあの目がみたい。もはや誘いを断るなんて私の選択肢にはない。

「はい、予定ないのでご一緒させてください。フレンチなんて普段行かないのでちょっと緊張しちゃいます」

私が笑うと川島さんは笑ってまた私の頭を撫で、すぐにジャケットを羽織り車の鍵を手に取った。急いでミネラルウォーターを飲み、私がいそいそと乱れた服や髪を直していると川島さんが私の頭をまた撫でて、「ゆっくりでいいよ」と言ってまた私のおでこにキスをした。へヴィシロップのように透明で絡み付くような甘い時間だった。私がいそいそと支度を終えると川島さんは私の手をひいて、二人でアトリエをあとにした。


川島さんの車はとても川島さんらしい手入れの行き届いた古いドイツ車だった。興奮した私が

「凄くいい車ですね。しかもすごく綺麗にしていてテンションあがっちゃいました。私、車好きなんです」

というと川島さんは嬉しそうに笑った。

「この車の良さがわかってもらえるのは嬉しいな。しろいしさん、車好きなんだね。僕と同じだ。もっとしろいしさんのこと教えて。何が好きなの?」

「あとは読書とバイクと猫が好きです。あと絵と音楽も」

「そうか、バイクも好きなんだね。読書と猫は僕も好きだ。しろいしさんの好きなものの中に僕が入れるように頑張らなきゃなぁ」

私が笑うと川島さんも笑った。先ほどアトリエであったことが嘘のようだった。

だがもちろん私の足には川島さんが仕掛けたトラバサミはがっちりと食い込んだままだ。噛まれた跡と痛みが甘くうずいた。川島さんの心地いいやさしい声を聞きながら窓の外を眺めていたらあっという間にお店についてしまった。




平日夜のフレンチレストランはわりと空いていた。小さいけれど、適度にオシャレで適度に気が抜けた感のある素敵なお店だった。とても川島さんに似合うお店だ。川島さんがお店のドアを開けると店員がすぐに駆けつけてきた。

「川島さんいらっしゃい。今日はめずらしく女の子と一緒か!じゃあ奥のソファ席使いなよ」

どうやら川島さんが懇意にしているお店らしかった。川島さんは席につく前に手際よく注文を済まし、ソファ席に二人並んで座った。座るとすぐにペリエがテーブルにやってきた。

「僕は車だし、しろいしさんはまだ20歳になってないからペリエで乾杯」といって笑った。川島さんの手によりキラキラした気泡が沢山入った透明な液体がグラスに注がれ、私達はレモンがついたグラスをカチンとぶつけた。ぐいっと飲み干すと炭酸の刺激で喉が熱くなった。

「単刀直入に聞くけどしろいしさんはいわゆるSM的なものは経験したことがあるかい?」

私は首をふる。喉がまだ熱い。

「わかった。僕はね、いわゆるサディストというやつなんだ。しろいしさんは多分マゾヒストってやつだ。僕に噛まれながらイかされて、なんとも言えないいい顔をしていたよ。とても可愛かった。だから僕はあなたといろんな事がしたい。ただ、しろいしさんが本当に僕のことを信頼するまで絶対にSMプレイはしない」

川島さんはそっと私の手をとる。

「例えば…技術がない人が縄や針をやると痺れや痕が永久に残ることがある。プレイ中の死亡事故だってある。特に吊りは技術がないと危ない。汚い器具でプレイして感染症になることだってある。SMは特殊なプレイだけに危険が多いんだ。だからきちんと信頼できる人とだけしかプレイしちゃいけない。サディストは君が思う以上に技術と観察力と気遣いがなければいけないんだ。そしてパートナーのマゾヒストとは何か危険を感じたらすぐにサディストに伝えられる信頼関係を築かなくちゃいけない。だから僕に限らずサディストとプレイする場合は絶対にすぐプレイしてはいけないよ。わかったね?」

私が頷くと「よーし、いいこだ!」と笑って私の頭を撫でた。子供扱いされている気がするがそれも悪くない。

「そういうことだから、しばらくは普通にデートをしよう!ショッピングしたり、映画をみたり、美術館に行ったり、色んな事をしよう。そして色んな話をしよう。僕が信頼に足る人物だと思えて、僕とSMがしたいと思えたら僕に伝えて欲しい。もしも信頼できなかったり、SMなんてしたくないというのであれば僕は身を引く。遠慮しないで伝えて欲しい」

そう言って川島さんは私の手にキスをした。SMなんて鞭や蝋燭ぐらいしかわからない私は汗をかき始めたペリエのグラスを眺めながら鞭で打たれる自分を想像していた。だが鞭打たれて悦ぶ自分が全く想像がつかず、そのままグラスをとってグイっとペリエを飲み干した。

そうこうしているうちに店員さんがやってきて美しい彩りの料理がテーブルに並び始めた。私は料理と川島さんの言葉をよく咀嚼して飲み込み腹に納め、その日のデートを終えた。

宣言通り私と川島さんは性的な行為を全くしない極々普通のデートを2ヶ月ほどの間に何度も繰り返した。メールも毎日したし、電話もほぼ毎日した。楽しかった。

だが私はどうしても満たされなかった。あのアトリエでもらった痛みが忘れられないのだ。あの痛みを追いかけて何度も何度も自慰をしていた。やはり私はマゾヒストなのだろう。川島さんに痛くされたい。何度もデートを繰り返す内にもう充分すぎるほど川島さんへの信頼はある。

川島さんとSMをしてみよう。

私の心は決まった。次に会ったときに伝えよう。

「あなたにめちゃくちゃにされたい」と。


そう思った矢先に川島さんから着信がきた。いつもの落ち着いた優しい声が聞こえてくる。

「しろいしさん?今週日曜の予定はあいてるかな?ちょっと面白いものが見れそうなんで○○市まで一緒に出掛けよう」

面白いもの?川島さんがいう面白いもの?なんだか怖いような気がするが私には「はい」という選択肢しかない。

「はい、大丈夫です。一緒に連れていってください。あと…今度お会いしたらお話したいことがあります」

私が言うと川島さんは笑った。

「よーし、日曜日を楽しみにしてて!僕もしろいしさんの『お話』を楽しみにしてるよ。とても楽しみだ。それまでちゃんと勉強して大学いくんだぞ?じゃあおやすみ」

そんな会話をして電話を切った。

面白いもの。面白いもの。面白いもの…?川島さんのいう面白いものは全く想像がつかなかった。

美術展やコンサート、植物園などのクリーンな面白いものかもしれないし、なにかもっと性的なものの可能性もある。考えても考えても想像がつかず、私は考えるのを放棄して日曜日を待った。

そして迎えた日曜日、私はアパートの駐車場で綺麗目ファッションに身を包み川島さんの車を待っていた。川島さんに会ってからギャル系ファッションがなぜか恥ずかしくなってしまい綺麗目かつちょっとだけモードな服を着るようになっていた。川島さんに似合う女の子になりたくて背伸びしたのだ。

視界に見慣れたドイツ車が入ってきた。川島さんだ。

川島さんに会える喜びと、川島さんに伝えなければならない事に対する緊張と『面白いもの』への一抹の不安で私の心臓ははねあがりそうなほど力強く鼓動を刻んでいた。

私は手を大きく振りながらヒールを鳴らして駆け出す。

笑顔の川島さんがこちらに向かって手を振る。

さぁ、行こう。


どこへ?


天国みたいな地獄へ。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?