若者のすべての歌詞のすべて
たぶん、自分の人生でこの曲を超える曲に出会うことはないと思う。
イントロからもうその音で、名前のない感情が湧いてくる。なんでかは知らない。
そんなことは他の曲では起こらない。起こっても少しだけど、この曲だけはいつも鷲掴んでぐわんぐわんしてくる。
その音に比べれば、歌詞なんて相対的にどうでもいいんだけど一応書いていきたい。
まだ、聞いたことがない人は先に曲そのものを聞かないともったいないので、リンクで聞いてからスクロールして読んでください。
はい、こんだけ改行すればよかろ。
「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビでいってた」
季節は(自分の意思とは関係なく!!)自然に変わる。それが起こったことを、テレビの向こう側の自分とは関係のない人間がしゃべってる。
なんだか、現実感が希薄な、俯瞰で世界をみている「自分」目線から歌詞ははじまる。
「それでもいまだに街は 落ち着かないような気がしている」
まだ夏の熱気の残り香でなんとなく、根拠なく、街もみんなもふわふわしてる気がするけどね。
ここは街と天気予報士が対比になってる。
街は自分を含むこっち側、体感側。
天気予報士は、赤の他人のあっち側、情報側。
ここまで天気予報士や街を一見、行為主体のようにしてるのは、「自分」が受身的に感じているということを強調する装置になってる。
「夕方5時のチャイムが今日はなんだか胸に響いて 『運命』なんて便利なものでぼんやりさせて」
別に努力して意識的にやるわけではなく、「自然に」胸に響いてしまう。同じように『運命』っていうワードもまさに自分の意志とは関係なく、きまるもの。
だけど、ぼんやりさせてっていうので、させるというのは「使役」のさせるで主体的にしてるんだから、本当は運命って言い訳で自分が意識的な行動ができてないで「受身」であることへのもやもやがあることがわかる。
運命とかいって、おれ、ただ受動的に流されるままにやってていいのかな?
「最後の花火に今年もなったな 何年たっても思い出してしまうな」
はい、ココ!!サビ!!
最後の花火を見たな、じゃなくて、何年たっても忘れないな、じゃないのはなんでか。
「自発」的に、勝手に最後になって、勝手に思い出しちゃうからだよね。
中学か高校で「れる、られる」って助動詞が「尊敬」「受身」「自発」「可能」として用いられる。って習ったと思うけど、なんで4つも同じ助動詞でやってるかというと
まず「自発」の意味が最初にあって、高貴な人のやることや、神様の意思は我々庶民にはよーわかりませんけどって気持ちから高貴な人の行動がまるで自然現象のように感じられることから「尊敬」にもなって、「受身」はそのまんまだよね、自分の意志が介入してないイメージからの転用だろうな。ちょっと難しいのがなんで「可能」に転用されたかなんだけど、稲作文化において、うまくいくかどうかはほとんど天候次第で自分らの努力や技術介入のおかげではないって体感からきてるんじゃ?って説がある。
確かに日本人の歴史的な市民闘争やってなさは異常。お上が決める文化とも確かに整合性があるね。
で、歌詞は一番最後まで省略して
「あったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」
言え「る」かな
可能の「る」、ここにきてはじめてキター!!
言える!!言える!!若者超ガンガレ!!おじさん2ちゃん言葉で応援しちゃう!
まぶた閉じると浮かんでくるんじゃなくて、まぶた閉じて浮かべているようになったんだよ!!
若者、「世界の約束」なんか鼻で笑い飛ばしてくれ。
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