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2 感覚と理論を行ったり来たりする ~対話を終わらせないために~

 行動する時は、感覚派か?理論派か?という定番の質問があります。性格診断のようなものにこういった項目は必ずあるはず。

 感覚派は、目の前の機会やコンテンツを、自分の中にあるセンサーに反応するかどうかでパパっと判断する勢いのある人。理論派は、事前情報や自分にとって有用か、他に最善はないかを精査した上で判断する慎重な人。みたいな感じでしょうか。

 この対立構造になんか違和感を感じたのです。それは、2極化していて共存しない存在のように扱われているのがしっくりこないな、といった感じ。

 では感覚と理論を人はどう扱うべきなのか。「性格を変えろって言うのか!?」「俺は読書が嫌いだ!」なんて声も飛んできそうですね。自分が思ったのはタイトルにもある通り、感覚と理論を行ったり来たりするというのはいかがでしょう。それはあなたが感覚派でも論理派でもどちらからスタートしてもいい。その後で感覚と理論のサイクルをひたすらぶん回す。これに上手く乗せられるかで、自分の中にしっかり落とし込めるかが変わってくるはずです。

 自分は120%感覚派なので、基本的に大した下調べもせずにバタバタしています。しかしその後に大事なのが、そのアクションを通じて感じた経験が、手に取った本や人からの話を通じて答え合わせされる過程です。色々参加して思ったことが頭の中にあるとします。すると、それが会話を通じて他人から共感を得れたり、類似する知識を教えてくれたりします。またそうやって考えていたからこそ、何の経験もなしに本を読むよりも内容がスッと入ってきます。逆に、新たな問いを突き付けられるパターンもあります。
こうして、感覚から得た経験に理論を後ろから当てはめることで、自身の感覚の整合性を取っています。そしてまたそれを後ろ盾にして俗世でバタバタするサイクルが回り始めます。

 理論派は、本や人の話を聞いた上で確実に有意義な経験のステップを踏んでいく、といった流れなのかな。なので理論派の人は、「不確定な道を踏み進めるのはあまりにも勇気がいる」とお考えなのでしょうか(全部想像)。
でも逆に感覚派から言わせてみれば、「実体験を伴わない内容の本を読んでも、内容が入ってこない」といった具合です。

 ここで振り返ると感覚と理論は、知識と経験、主観と客観とも言いかえれるのではないでしょうか。先に欲しいのが知識なのか経験なのかの違いで、どちらにせよ両方のステップは遅かれ早かれ必要だと思います。

知識も経験も互いに裏付けとなる相互補完の関係性です。
①知識があるからこそ身に着く経験
②経験があるからこそ入ってくる知識
このサイクルを回すだけです。

 と、こんなに色々書いてきましたが皆さん実は無意識に実践してるんじゃないのかなと思ってます。なので今回言いたいのは、”性格診断なんかに惑わされないで”ぐらいかもしれません。

 最後に、感覚と理論、知識と経験、主観と客観を行ったり来たりしなかったらどうなってしまうのかを書いて締めようかと思います。

 まず感覚だけになると、ヤンキーみたいな精神性になります。
実体験が多そうな様子は伺えますが、それだけなのです。そこにある正義に客観性はありません。なので核心的な意見もあるとは思いますが、周りに迷惑をかけている自覚がないパターンも多いでしょう。

 逆に知識だけになると、名作『星の王子様』に登場する地理学者になります。ご存じの人も多いと思いますが、この地理学者はずーっと地理の本を読んで地理の勉強はしていますが、実際に訪れた場所は1つもありません。本を読むだけで世界を知った気になっているのです。
この1人の紹介で十分伝わったでしょう。こんな様子です。

皆さんは感覚派でしょうか?理論派でしょうか?
後から訪れるもう片方の時間を意識すれば、互いに分かり合えると思います。なので、こっちがバタバタしてても許してください。

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