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3 表現者でありたい ~対話を終わらせないために~

一応芸大生なので、今回はそれっぽい話を

芸術≠表現?

 いつも心惹かれるのは芸術家ではなく表現者だなと最近思いました。芸術=表現、と言えるから芸術家で一括りにできる気がするのでは?と多くの人は感じると思います。どっちも同じやん、と。でもそれだとどうも括り切れない絶妙な人がたくさん思い浮かびます。なので表現者という言葉を使い、芸術家もそうじゃない人も、尊敬する人全員を何とか同じ海原に浮かべられないかを今回はチャレンジします。そして、「芸術家」という言葉に抱く違和感の正体を探ります。

 魅力を感じる表現者に対してまなざしを向ける時、絵を描く画家や音楽を鳴らすミュージシャンのような芸術家ど真ん中でも、一方で街のために場を開く人やスローライフを体現するような生き方をする人でも、自分のなかにボーダーはありません。同じ領域にいる人々のように感じます。

表現者とは

自分が惹かれる表現者というものはざっと定義するとこんな感じです。

  1. それをしなければならない理由が当人にある(動機の必然性)

  2. 受け手の価値観を揺さぶる影響力がある(メッセージ)

  3. 原動力の根底に莫大なエネルギーを感じる(力強さ)

 「この感情を絵に昇華できていなければ自殺していたかも」と絵を描いた人が描いた理由として述べていたらどうでしょう。少し極端な話かもしれませんが、やはり当人が生きる上で必然性を持っていると惹かれるものがありますね。自殺とまでは行かずとも、行き場のなかった感情や苦悩の果てにこの形に辿り着いたことを悟った時にしか感じない痺れが背筋を走る感覚があります。
 そういった人たちから発せられるものは知識や経験が乗せられている分、触れた人に投げかけるメッセージに説得力を感じますし、強い批評性もあるはずです。(知識と経験については前回のもぜひご一読ください)

 あとこれは肌感覚な話なのですが、魅力的に感じる表現者からにじみ出る莫大なエネルギーをいつも感じます。努力とは違う何かを。それは、パンクロッカーからも、フォーキーな優しい音楽を鳴らしている人からも、政治的なメッセージを強く発信する人からも、ゆったりとした丁寧な暮らしを維持しようとする人からも。奥底にある原動力の部分は、煮えたぎった確かな決意があり、想像に及ばないほどたくさんの経験から蓄積された内なるものを燃やしているのが顔つきや放つ言葉から感じるのです。

 進撃の巨人で、「おそらく2年前の地獄を見てきた者達だ 面構えが違う」という有名なセリフがあります。めっっっちゃくちゃ端折ると言いたいのはこんな感じ。面構えが違うのです、チヤホヤされたい人と、それが人生においてどうしても必要な人では。

 このように、「必然性+メッセージ+力強さ」を内包した内なる動機を何らかの形でアウトプットすることが表現であり、その過程で”結果的に”姿が現れる産物が芸術。本質的にはそうだと考えています。

芸術が表現を取り戻すには

 ではなぜ今こんなことを思ったか。それは、エンタメの介入によって「芸術」という言葉から表現の要素が希薄化していると感じたからだと思います。「芸術」は本来、前述した表現の定義とほぼ同義だったはずです。しかし、今日で言われる「芸術」にはエンタメの要素が混在しています。というか、エンタメのほうが占める割合が多い気がします。これがモヤモヤの原因です。

 表現とエンタメの違いはこんな感じで考えています。
表現としての芸術は、内なるものを何らかの形でアウトプットする過程で”結果的に”姿が現れる産物。
一方でエンタメとしての芸術では、そうした偶然の産物に触れた時に得られる高揚感を商品にした娯楽。

 こう並べると、目的が自身の内側にあるのか外側にあるのか。ここが大きな違いだと思います。目的と手段が大きくずれており、また1つの作品でも表現とエンタメ両方の要素が少なからずは含まれるために区別がつけられずに、絵を描いている・音楽を鳴らしている・写真を撮っている・物語を作っている、などの”形式を取っているもの”は一括りに「芸術」とされているのではないでしょうか。

 なので同じ芸術家でも、自分のための表現者と誰かのためのエンターテイナーの2つにざっくりと分けられるのではないでしょうか。芸大の中では、自分みたいなことを考えている人と「どうやったら自分の作品は売れるのか」を考えている人が同じ学科で勉強しているということになります。

まとめ

 つまり今回言いたかったのはこれ。

①「芸術家」という言葉には、表現者とエンターテイナーが混在している
②その中で、表現者の比重が多い人に私は魅力を感じる。

 そして冒頭でも書いたように、魅力を感じる表現者は芸術家に限った話ではないです。まちの人でも、福祉の人でも、それがライスワークの人でも、私的に完結している人でも、生き方・生き様を見るだけでも問題ありません。キャッチしたいと思えるものが飛んで来たら、そしたら表現者として尊敬のまなざしをむけると思います。そんな、外の世界にいる芸術家以上に表現している人間と沢山出会いたい。というか、こういった人たちはもはや芸術の新ジャンルの芽ではないでしょうか。

 自分が一番足を突っ込むことになる世界は芸術の領域か?地域か?福祉か?
どこにいたとしても変わらずに私は、表現者でありたい。

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