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1 不完全さを許容する ~対話を終わらせないために~

みんなの生きづらさとか仕事が苦しいのって、サービスを提供する側に完璧さを求めすぎていることがひとつ起因していると思う。

欲しいものが買えなくてイライラ、電車が遅れてイライラ、頼んだ料理がなかなか来なくてイライラ、明記されていないことを指摘されてイライラ、お金を払って享受されるサービスが少しでも滞るとキレる権利があると思っている。だから、提供する側には常に緊張が走る。
↑この緊張があまりにも過剰じゃない???という話

この緊張感が効率の良い生産力をもたらしているんだと思うけど、ここまでしなくても充分に人は生きれる。電車の遅延も、料理提供の遅れも、店員さんがミスった仕事をやりなおすのも5分くらいじゃないですか。なので、サービスを介して行う人との関わりがもうちょっと不完全になって緊張感が解けた時には、そんなに生活の質を落とさなくても生きずらさを和らげると思う。

そもそも、注意書きや批判、謝罪の言葉ばかりが飛び交う社会は居心地が悪いのはだいぶ共通認識だと思うのに、世間はそれを求めているっていう矛盾も感じる。


先日、友人に紹介された京都にある斗々屋というスーパーに足を運んだ。このスーパーはオーガニックな商品を取り扱うだけでなく、全ての商品を量り売り、容器の持参を促進するなど、環境の配慮に徹底していた。今までに見たことないスタイルのスーパーだった。故に、店のシステムのが結構分かりにくいのである。
「店の入り口近くに売ってあったマフィンを買って、奥にあるカフェスペースでコーヒー飲みながら食べたい。」というちょっとトリッキーな注文をすると、店員さんを3人くらいたらい回しにされたが最終的にはありつけた。

面倒くさかったがこれで別にいいんじゃないか。これぐらいの面倒くささはどうってことない。この面倒くささを取っ払うためにあらゆるものがパッケージ化されて、人や資源にストレスを与えてると考えたら悲しくもなった。サービスは案外不完全でも大丈夫そう。あと、いろんな店員さんと話したおかげ(?)でマフィンも焼き直してくれた。
コミュニケーションを重ねてゆっくりやれば、最終的にはなんとかなる。でも、それを嫌ったせいで人を生きづらくさせてる現状が生まれてるんじゃないかなぁ。

不完全というワードは、ルチャリブロの海青子さんが「不完全な司書」を名乗ってるのがとてもしっくりきたのでそこから拝借。
『不完全な司書』というエッセイ本にもなっているので、そこに書かれている一番好きな部分を紹介してこの話を締めます。
(ルチャについてもそのうちnoteを1本分書きたい)

全部書いてあって考えなくて済む、という状態より「ここはどんな場所だろう」とアンテナを張ってもらった方が、結果的に来館された方がルチャ・リブロという場と仲良くなれるような気がしました。また、先に来館されていたお客さんが、「そこの階段からあがったらいいよ。あ、靴は脱いでね」と声をかけてくださったり、靴を脱いでおいてくれることで後から来たお客さんもそれに倣ってくださったり、ということもあって、書いておかない方が言葉やそれ以外でのコミュニケーションも増えるのだと感じました。ご来館の方々が銘々にアンテナを張り、お互いの存在を感じ合いながら場を一緒に作ってくれるからこそ「皆何となく自分の場所に収まって、それぞれ快適に過ごしている」状態が生まれるのかもしれません。

青木海青子『不完全な司書』95-96p

不完全さを許容する、それ即ちサービス産業で奪われたコミュニケーションの機会を取り戻すことなのかもしれない。
いきなりコミュニケーションをしろというと、アレルギー反応を示す人が必ずいる。なので、そこに向けての第一歩として寛容になることを提唱したい。

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