デレク・ジーターの思い出

学部生で交換留学をしていた時のこと.アメリカの大学にも慣れ,Spring Quarterは取りたい授業が少なめということもあって,ローカルメディアでインターンをしてみた.シアトル・マリナーズ関連の記事も扱っていたからだ.

野球経験があり,かつMLBにも通じていたことから,セーフィコ・フィールド(当時)であるニューヨーク・ヤンキースとの試合に取材に行けることになった(実はその前にも,オークランド・アスレチックスの試合に取材に行っている).メディアパスをもらい,記者に配布される膨大なデータパッケージを見て圧倒された.登録されている選手の詳細なデータが記述されているのである.今年度の成績だけではなく,得意な球種や苦手な球種,傾向などがびっちりと書いてある.

メディアパスがあると,球場内やバックネット横のカメラ席,ロッカールームに自由に行き来ができる.試合前の練習もグランドで見られるし,他の記者と情報交換をすることもできる.試合前のノックでは,内野手のハンドリング,ボールへの反応,送球の速さに見とれていた.ヤンキースではジーター,マリナーズではギーエン,ブーン,オルルードの動きが美しく,その一挙手一投足を目に焼き付けていた.バッティング練習では,ヤンキースのウィリアムズ,ジャスティスがおもしろいようにボールを飛ばしていた.マリナーズもマルティネス,ブーン,オルルードが華麗なバッティングをしていたが,やはり一番美しかったのはイチローだった.まずは流し打ちで左方向にのみゴロを転がし続ける.次にひっぱりで右方向,その次はセンターにのみ,まるで機械で行われている大量生産のように決まったスイングで決まった打球を打ち続ける.そして,仕上げはライトスタンドにホームランばかりを打ち続ける.飛距離こそないものの,バッティング練習でホームランを一番多く打っていたのは間違いなくイチロー・スズキだった.

この日は3連戦の最終日.ヤンキースとマリナーズにはちょっとした因縁があった.その前日の5月19日,イチローはマリナーズの連続試合安打記録24にリーチをかけており,ノーヒットのまま8回裏の打席に立った.対戦する投手はオーランド・ヘルナンデス.その初球,ヘルナンデスはイチローの背中にボールをぶつけ,結局,連続試合安打記録は23で途切れることになってしまった.当然,その死球に対しては,球場から激しいブーイングがあったのだ.

この死球が意図的だったのかどうかは物議を醸していた.20日の試合前練習のグランド.私はニューヨーク・タイムズの記者2人に呼び止められ,日本のプロ野球で故意死球があるのかどうか尋ねられた.

「大っぴらな形ではないですし,メジャーリーグと比べると圧倒的に少ないとは思います.しかし,ないわけではないですよ.イチローは日本で打ち過ぎていたので,故意死球で一度,キャッチャーに食ってかかったこともあります」

そのキャッチャーは,日本ハムの小笠原道大だった.

私はその記者2人と話をし,今日,マリナーズからヤンキースに報復死球がなければいいなという彼らの発言を聞いて,多少のショックを受けていた.報復死球はれっきとした「文化」としてメジャーリーグに根付いてしまっているのだ.もちろん,彼らもこのような事態は望ましいことではないと口にしていた.

日曜日の試合.ヤンキースはいつも通り,デレク・ジーターが2番ショートで先発だった.マリナーズの先発はアロン・シーリー.コントロールがよく,丁寧な投球に定評があり,ローテーションの中心を担う存在だった.私はその対決をバックネット横のカメラマン席の端から見つめていた.初球.インコースに曲がり切らなかったツーシームが甘く入り,ジーターはレフトポール際に大きなファールを放った.タイミングが少し早かったために,フェアゾーンに落としきることができなかったようだった.

そして,2球目.シーリーの投球はジーターの左腕に当たり,球場は異様な雰囲気に包まれた.少なくないヤンキースファンからはブーイングの声も聞こえた.

状況を考えれば,故意死球であったと推測することもできる.しかし,ジーターはけろっとした表情で審判に左腕を指さし,「当たったよ」とアピールしてそのまま1塁まで行った.ただ,痛みはあるようでコールドスプレーをかけてもらってはいた.

試合後,ジョー・トーレ監督の取り囲み取材.強面のトーレ監督に話しかけるのには勇気が要ったが,最近不調気味であったバーニー・ウィリアムズを休ませる可能性はあるかどうかを尋ねてみた.トーレは,ウィリアムズはチームの柱だし,結果が出ていないだけで状態は悪くはない.このまま出てもらうよと返信してくれたように記憶している.一介の大学生がジョー・トーレに話しかけるのは中々に勇気が要ったのだ.

その後,ヤンキースのロッカールームに行った.バーニー・ウィリアムズ,ホルヘ・ポサダ,デイヴィッド・ジャスティス,ポール・オニール,チャック・ノブロックなど,テレビでしか見たことのない有名人がそこらここらにおり,メディアパスがある自分には話しかける権利がある(ただし,サインをもらったり,写真を一緒にとってもらったりするのはNGである).緊張しながら,手持ち無沙汰な選手を探してうろうろしていると,ちょうどシャワーを浴びた後で,腰にバスタオルを巻き,髪の毛を拭きながらデレク・ジーターがやってきた.私は彼に,ボールが当たった場所は大丈夫か,故意死球の可能性は考えていないかと尋ねてみた.ジーターはきれいな歯を見せながら,当たった左腕を指さし「何ともないよ.死球は野球では普通にあることだからね.マリナーズのロッカールームには行く?シーリーに会ったら,大丈夫だと言っておいてよ」と,さも当然と言わんばかりの態度で返事をしてくれた.

ジーターは当時,The Prince of New Yorkと言われていた.日本から来た勝手も分かっていないような若造の質問に,丁寧に答えてくれた彼の人柄が垣間見えたような気がする.当時,the Big Three shortstopsといえば,アレックス・ロドリゲス,ノマー・ガルシアパーラ,デレク・ジーターであり,ジーターは比較的劣ると見なされていたが,彼がチームにいることでteam chemistryには計り知れない相乗効果があったのだろうと推測する.

Hall of Fame,野球殿堂入り.そのスピーチで見せた笑顔は,2001年にシアトルで見た記憶の通りであった.https://www.mlb.com/video/jeter-inducted-into-hall-of-fame?t=hall-of-fame

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